見知らぬ高齢者
私はかつて、都内のある会社の事務職として働き、マンションの一室を借りて一人暮らしをしていた。
ある日、仕事でくたくたに疲れた日があった。私は早々とマンションに帰るとエレベーターに乗った。
すると、エレベーターの扉が閉まろうとした瞬間、一人のおばあさんが乗り込んできた。
「大丈夫ですか」
あわてて、私は開閉ボタンの『開』を押した。彼女が扉に挟まれないよう慎重に機械の操作を行った。
幸いにも相手が怪我することなく、彼女はエレベーター内に入ることができた。
こちらへ向けてゆっくりとほほ笑んでくる。
私は自室がある五階のボタンが押されていることを確認し、おばあさんの方に向き直った。
「こんにちは」
私が挨拶をしたところ、おばあさんは何も言わなかった。ただ、無言のまま笑顔でこちらを見ている。
「五階……で、大丈夫ですか」
最後は消え入りそうになった声音を何とか抑えて、私は言った。
相手は無言のままである。
私は気まずくなって何も言えないまま、五階に着くなり、足早に自室へと帰っていった。
数日経った土曜日。
兄が訪ねてきて、業務スーパーで買った食材を分けたい。そう、マンションのインターホン越しに言われた。
兄は隣の市にお嫁さんと住んでいる。料理が上手くて兄にとっては自慢のお嫁さんだ。私とは違う。
料理ができない私を心配しては、二人は週末に野菜やら食べきれないお惣菜やらを持ってきてくれるのだった。
エレベーターで一階まで降りた。そこには、野菜を買い物袋に入れた兄の姿があった。
久しぶりに会ったから、つい、おしゃべりに夢中になってしまった。仕事のことや最近流行りのニュース。
マンションのエントランス近くで少々長く会話をしていたときだった。
急にドアが開く。見ると、この前のおばあさんが、そこに立っていた。
私は黙ったまま、彼女を見た。おばあさんは、急に私と兄に近寄り、いきなり話し始めた。
「あなたたち、ここに住んでいるの?どこの部屋?お名前は?」
私と兄は驚いたまま、立ち尽くした。何も答えることができない。
そのまま無視しようにも、おばあさんは再度同じ質問を大きな声で繰り返した。
「あなたたち、ここに住んでいるの?どこの部屋?お名前は?」
私は兄の方をちらっと見た。
兄は無言のままだ。
「仲良くしましょうよ!」
おばあさんは妙に大声で言ってくる。
「い、いえ、その……」
私は何て言ったらいいかわからず途方に暮れた。ふいに、兄が私の腕を引っ張る。
「えっ」
兄はなおも無言のまま私の腕を引っ張り、エレベーターへと連れて行く。
エレベーター内で私は兄へ向けて言った。
「あのさ、今の人……」
兄は
「ああいう人とは関わらない方がいい。洒落にならない」
洒落にならないって何が。
そう、聞き返す前に五階に着いてしまった。
私は兄から野菜をもらうと、兄はそのまま何も言わずに帰ってしまった。
部屋に入って野菜を冷蔵庫の庫内にしまうと、録画していたドラマのことが脳裏に浮かんだ。
リビングに行き、テレビの前に座った。
突然、バタバタッと音が聞こえた。
音の聞こえた方向から察するに、ドアの外の廊下を走る足音だった。
耳をすますと、その足音は廊下を行ったり来たり、何度も駆け回っているようだった。
バタバタッ。バタ、バタバタッ。
私は恐怖に震えながら、玄関の鍵がかかっているのを確認した。
薄暗い空間の中、ドアにはチェーンがかかっているのを確認した。幸いなことに、ドアの鍵もしっかりとかかっており、不審人物に侵入される心配はない。
ほっと安堵した一瞬後。ドアハンドルが急にガチャガチャ、と激しく揺れだした。
誰かが外からドアを開けようとしている。
私はドアの覗き穴に、怖々と目を近づけた。
夕暮れ前のわずかな自然光が、何ら異変のない廊下を映し出している。
その間も、なぜかドアハンドルは揺れている。ガチャガチャ、と不規則に耳障りな音。
私は目を細めて覗き穴を見つめる。
一瞬後、そこには、恐ろしい光景が映し出される。
異形の人。
人間の皮膚を剥がしたような赤黒い人物が、覗き穴下方から突如として現れる。
ドアの前に立ち、何とかドアをこじ開けようとしている。
ガチャガチャ、ガチャッッ。
私は自分の目を疑った。
一体、何が。
何かの幻覚か、それとも本当に現実に起きて――。
ドアの前に立っている生物は、急にドアハンドルを動かすのを止めた。
その後、ドアの覗き穴にゆっくりと顔を近づけてくる。ニタリ、と不気味に笑った。
「きゃあああああっ」
私は自らの悲鳴で飛び起きた。一瞬遅れて、部屋の中に響く異常な音にも気がついた。
緊急時のサイレンのような音だった。
「さっきのは夢?」
心臓がばくばくと高鳴り、私は辺りを見渡した。
ベッド側に置いてあるテレビでドラマを見ながら、私はいつの間にか眠っていた。
仕事の疲れがたまっていたのだろう。
サイレンの音は、なおも続く。耳栓やイヤホンなどでは防げないほどの大音量。
おそらく、火災報知機の音がマンション中に響いている。
騒ぐ胸を落ち着かせながら、私は部屋をうろうろと歩き回った。
自室の中に火事が起こっている箇所はない。
火災の原因はここではない。どこか別の場所であるはず。
そう考えると、私は部屋着を着替えた。急いで一階エントランスへと向かう。
一階まで降りてくると、既に何人かのマンション住人が不機嫌な表情をして、そこに立っていた。
一人の住人に声をかける。
若い、同世代くらいの女性だった。
彼女に聞いたところによれば、既に住人の誰かが消防局に電話をかけたとのことだった。
依然、火災報知機の音が鳴っている現状を考えれば、当然のことだろう。
私はエントランスから出て、マンションを外から確認した。素人目ではあるが、マンションから煙が上がっている様子はないようだった。
火災報知器の音は、なおも鳴っている。
しばらくして、消防車がマンション前に停まった。
消防士がマンションを点検し、管理人室から火災報知器の音を止める。
ようやくにして静寂が戻った。
火災がなかったことに私は心底、安堵した。
部屋に戻るという住人と一緒に、エレベーター内へと入って行った。
エレベーターが五階に着き、私は自室へ戻ろうと、廊下を歩いた。
だが、自室に入る前に妙なことに気がついた。
廊下の端。
そこには非常用階段扉がある。
その扉のそばで、数人の消防士が立っている。それも、一人の人物を囲んで。
私はその人物を眺め、あっ、と声を上げそうになった。
数日前、それから今日も出会った、あのおばあさんである。
彼女は床に座り込み、たばこを手にしている。
同じ五階に住んでいるとは知らなかった。
だが、あの手にしているたばこは、もしかして……。
今の彼女からは、会ったときの親しみやすい印象とは異なる、言いようのない薄気味悪さがあった。
表情は
消防士の人に名前を問われても、答えることができない。
私は何だか怖くなった。
火事もないのに火災報知器が鳴った理由。
それは彼女のせい。
彼女がわざと――。
そこまで考えて背筋が凍る思いがした。
夢の中で廊下を走り回り、ドアハンドルを揺らしたのも、まさか、あのおばあさんが――。
「困ったな。ここに住んでいる方じゃないのかな」
私の意識が急に現実に引き戻される。
消防士の一人が言うのを聞いて、私は愕然とした。
そう言えば、夕方になると迷子になった老人の情報を市役所がスピーカーから流していることがある。在宅勤務もあったから、そういった情報はたまに耳にすることがあった。
おばあさんの髪型。服装。身長。
数日前に放送で流れた情報と酷似しているような気がする。
そう言えば、数日前だけでなく、その前も同じような放送が。時期をまたいで何度も。
兄の声がさっと脳裏に浮かび上がり、響く。
やはり、兄の勘は当たっていたと言うことだろう。
惜しむらくは、最初に会ったときに気づくべきだった。
彼女が迷い人である、ということに。
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