ささくれた指先ささくれた心
高麗楼*鶏林書笈
第1話
「奥方さまの御手は本当にきれいですね」
朝の身支度を手伝いながら侍女が言った。彼女の手はささくれていた。働いている女たちの手というのは皆、このようなものだろう。
自分は、筆を持ち、書物を捲り、食事の時、箸匙を取り、あとは身の回りのことをする時くらいしか手を使うことはない。
士大夫家の女人だからというのではない。
友人の申氏は、貧しいせいもあるかもしれないが、家事を行い、夫の母の面倒を見て、子供たちの世話に明け暮れているので、手荒れをしている。
先日、彼女が我が家を訪ねて来た時、自身のささくれ立った指先を示しながら、それを恥じていたが、自分はそれを否定した。むしろ誇っていいのだと言った。
「うちの嫁は出来た女人だ」、「夫人は大した人物だよ」
彼女の姑(夫の母)も夫も彼女のことを褒め称える。もちろん、彼女自身が優秀なのだが、それを理解出来る婚家の人々も心ばえがよいのだろう。
妓女もたいして“仕事”などしていないのだから、きれいな手をしているように思われがちだ。
幼馴染の真娘は家の事情により妓女に身をやつしてしまったが、美しい容姿と知性、歌舞音曲で当代随一の名妓となった。その陰には人知れぬ努力があったのは言うまでもない。琴の練習で指もささくれだっているはずだが、それをきれいに隠している。
最近、実家に行くことがあったのだが、その際に久しぶりに彼女と会った。高価な指環がはめられた手は美しかったが、見る人が見れば、彼女のこれまでの精進の跡が伺えるだろう。
機を織る女、針仕事や洗い物で家族の生活を支える女人…。
大半の世間の女人はささくれだった手をしているのだろう。なのに自分は…。
結婚当初、自分は夫のために食膳を整え、衣服を縫った。しかし、夫と心を通わせることが出来なかった。
それでも三人もの子供に恵まれた。
子供たちが生きている間は、毎日世話をしながら、その成長を見守るのが楽しかった。
この子たちのために、食事を用意し、衣服を縫ったり等々をしながら日々を過ごした。手はささくれだったが、全く気にならなかった。
ある日突然、子供たちは相次いで、皆、母のもとを去ってしまった。
自分には、もうすべきことは無くなった。
夫との距離は埋まらず、夫の家族とも疎遠になった。
今の自分は世捨て人のように、離れの間で暮らしている。特にすべきことはなく、時々、筆を手にして詩文を綴っている。
女人のささくれ立った手のひらは、誰かに頼られている証かも知れない。
家族に、仕える主人に、自身の歌舞音曲を愛してくれる人々に…。たとえ、貧しく、卑しい身の上であっても自身を頼ってくれる存在がいれば、どんなによいことだろう。そして、それに応えてくれるならば、もういうことはない。
結局、自分は誰からも当てにされていない存在なのだろう。
このようなことを考えると指先ではなく心がささくれ立ってしまう。
もう止そう。自分は間もなくこの俗世から去って行くのだから。
ささくれた指先ささくれた心 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu
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