第6話 名刺

”小松市”の煌びやかさを後に、ここから暫く国道8号線も田畠と工業地帯が広がる暗闇の片側1車線が延々と続く。少し勾配のある先には川に架かる橋の黒いシルエットが浮かび上がっていた。

 金魚がパクパクと口を開く。



「西村さん、ここは川北大橋なの?」

「川北、もう覚えたんですか、凄いですね」

「西村さんの言う事なら」

「そうですか」(えらい気に入られたモンだな)

「うん」

「川北じゃ無いです。川北大橋は夜だと遠回りになるので、今は国道8号線です。ここはもう少し海側です」

「橋の名前は?」

「手取川大橋です」

「・・・早いわ」

8号国道、夜中は車が走っていませんからね」



 するとまた金魚の周りには水の膜が出来て静かになった。北さんの様に首を絞められるより黙っていてくれた方が気も楽だ。

 やがて少しずつ流れるテールランプが増え、大型のショッピングモールが姿を現し24時間営業の飲食店やLEDライトの電灯が立ち並ぶ金沢市に入った。



「もう着く?」

「はい」

「そう」

「あと一つよろしいですか?」

「何?」

「先ほどの手取川大橋、あの橋から向こう側は私の営業地域ではありません」

「え、どういう事?」



 金魚が碧眼の目を見開いて身を乗り出す。



「今日はに金沢から山代までお迎えに上がりましたが、本来ならばそれは出来ません」

「そうなの!?」

「はい」



 徐々に、キッチンペーパーに水が染み込む様にジワジワと後部座席の温度が高くなるのがハンドルを握っていても分かった。手にしっとりと汗が滲む。



(・・・・まさか首、締めたりしないよな?)



 タクシーは野々市の高架橋を降り赤信号で止まった。右折のウインカーがカチカチカチとリズムを刻む。



「・・・・・いや」

「はい?」

「嫌」

「え?」

「嫌!西村さんじゃなきゃ嫌!」



 パッと青信号に変わる。

 西村はぐいとハンドルを右に切った。ワイシャツの脇を通して制服のジャケットまで汗が滲んでいるような気がする。ゴクリと喉仏が上下する。



(もう少しだ、もう少しで目的地だ。発作とやらを起こさないでくれ!)



 万が一首を絞められたとしてもこの時間帯は対向車はいない。なんとかなる。けれど最悪の事態は避けたかった。

 何かあれば配車室に隠語で非常事態を知らせて仲間のタクシーに来てもらうしかない。



「どうして駄目なの?朱音あかねだから駄目なの!?」

(・・・・朱音?・・・・金魚の名前は朱音なのか?)

「駄目なの!?」

「そうでは無いです!決まりなんです!」

「嫌だ!西村さんが良い!」



 黄色点滅の信号を左に曲がる、自宅マンションの明かりがすぐそこに見える。いつもは快適な、乗用車が一台も走っていない大通りが不安を煽った。思わずアクセルを踏む力が強くなる、1分1秒でも早く目的地で呑気に笑うドンキホーテのキャラクターの顔が拝みたかった。

 その時、助手席のシートの上で携帯電話がダースベイダーのイメージ曲をズンズンと奏で始める。お得意さんの飲み会の席がお開きになり、店まで迎えに来いという連絡だ。

 ルームミラーの中の金魚、いや、朱音は怒りというよりも見捨てられた野良猫の目をしていた。



「じゃ、じゃあお客さま。こうしましょう」

「何。どうするの」



 言葉に棘がある。



「私の携帯電話の番号をお教えしますので、そこに直接連絡頂けますか?」



 これも規約違反だ。

もし公になればマルチーズの佐々木次長にギャンギャン噛みつかれるのは安易に想像出来る、下手をすれば労働組合からも注意を受ける事になるかもしれない。

 ハザードランプを点滅させてタクシーを路肩に停め、ルームライトを点けて乗車料金のメーターを落とした。サンバイザーから青いバインダーを取り、胸ポケットから名刺を取り出す。



「それでも大丈夫ですか?」

「いいの?」

「良くは無いですけれど、お客さまのお願いですから仕方ありません」



 そう告げると名刺を裏返して西村はの携帯電話番号をボールペンで書こうとしたが指が震えていたのか思わず6が8になり、もう1枚名刺を取り出すと書き直して金魚に手渡した。指先は温かかった。



「金沢市内でのお迎えは30分前、加賀市でのお迎えは1時間30分前にお電話下さい。ただ、他のお客様を送迎している時は電話に出られません」

「うん」

「あと、予約が埋まっている時、2:00を過ぎた時はお断りします」

「うん」

「その時は北陸交通の本社に直接連絡して他のタクシーに乗って下さい」



 金魚はその名刺の”西村裕人”を桜色の指でなぞり嬉しそうに微笑んだ。



(そうしていれば可愛らしいのに)

「ねぇ、西村さん。これは何て読むの?」

「あ、あぁ。ヒロトです。西村裕人です」

裕人ひろとさん」

「はい」



 金魚は西村の名前をその小さな真っ赤な唇で噛み締める様に呟いた。



「それではお客さま、23,180円になります」

「はい」



 素直に30,000円を差し出し、西村はトレーに6,820円を乗せて返したが金魚は6,000円だけ受け取り、残りはチップだと言った。



「ありがとうございました」

「西村さん、またお願いします」

「はい、お休みなさいませ」

「おやすみなさい」



 座席右下のレバーを上げて後部座席のドアを開けると赤い尾鰭をひらひらさせた金魚は黄土色の壁の一戸建てに向かって歩いた。

 その玄関先には枯れた花が見苦しい園芸用のプランターが雑多に放置され、土で汚れた車のタイヤが4本積み上げられていた。物干し竿は錆び付き何年も使われていないようだ。穴の空いたプラスチックの青い簾がだらしなく傾いて垂れ下がっている場所が台所なのだろう。とても暮らしとは言い難かった。


 ところが驚いた事に金魚は玄関や勝手口ではなく、家の隣に車検切れで置かれているだろうメタリックグレーのハイエースのスライドドアを開けてその中に消えた。



(・・・・どういう事だ?)



 西村は運転席の窓から身を乗り出してその背中を見送った。


(まさかあの中で暮らしているのか?)


 訝しがっているとダースベイダーが西村を呼んだ。


(さーーーて、仕事、仕事)


 シフトレバーをドライブに切り替えるとウィンカーを右に下げる。カチカチと刻む夜の街角。西村の運転する106号車は片町繁華街のキャバレークラブに向かってエンジンを吹かせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る