第3話


 不思議なことが多すぎると、それに逆らおうなんて気がしないものだ。

                          サン=テグジュペリ 



 * * *

 目の前には白い建物がいくつも並ぶ。若い男女が楽しそうに喋りながら通過して行った。まるでパンフレットのような風景……。

 うん。また夢だな。

 親友の吉野よしのも心配しているし、昔のことは考えないようにしようと思っているのだが、夢は意図せず見てしまうもの。今回も目覚める様子はない。


「ああ、君。私のゼミの生徒だよね?」

 声を掛けてきたのは、ぼさぼさの白髪に口髭、黒縁メガネを掛けた教授っぽい人物。


浦舟うらふね教授? どうかしたんですか?」


「この前の授業で課題を渡し忘れてしまってね。申し訳ないけど君、ゼミのみんなに渡してくれないか。提出期限は月末までだからね」

 と言って、課題のコピー用紙をグイッと押し付けてきた。こちらの都合はまるでお構いなしだ。渡したら即座にどこかへ行ってしまう。

 昔から変わらないな、この教授。いや、昔に戻っているんだから『昔から』と言うのはおかしいか。なんだか時間の感覚が分からなくなってきた。


 あてもなくキャンパスを歩いてみる。すると前方から同級生の卯月うづきそらが歩いてきた。彼女も同じゼミを受講している。りんとした顔立ちは、まさに美人と称するに相応ふさわしい。入学した当初から、近くを通るたびに目で追っていた。

 課題を手渡すために呼び止める。浦舟教授から託された話をして、課題のコピー用紙を取り出そうとした。だが、指先が冷たくて、上手く用紙が取れない。


「これが浦舟ゼミの課題……。痛っ!」

 指先を、紙で切ってしまった。


「あっ、血が出てるよ。絆創膏ばんそうこうあるから貼ってあげるね」


「平気だよ、これくらいの傷」


「いいからここに座って」


 桜の下に置かれたベンチに二人並んで座る。ほのかにフローラルな香りが漂ってきて鼻腔をくすぐった。彼女はバッグから絆創膏とハンカチを取り出す。傷ついた冷たい手を掴むと、切り口をハンカチで優しく拭い、指先に絆創膏を貼ってくれた。

 そんな一連の所作と、桜色のマニキュアが塗られた指に釘付けとなり、只々ただただじっと見つめていた。


「ありがとう。ハンカチ汚してごめん。新しいのを買って返すよ」


「そんなこと気にしなくていいよ」


 その優しい温もりが伝わったのか、冷えていた指先も温かくなっていた。

 もう少し一緒にいたいと思ったが、近くを彼女の友達が通りかかり、一緒に歩いて行ってしまう。

 ひとりベンチに座ったまま、絆創膏が貼られた指をじっと眺める。

 夢をずっと見続けるなんて難しい。夢は断片的で、理解できないことも起きる。この目に見えているものは、記憶なのか、幻影なのか……。




「おーい陽翔はると! 起きろよ」

 吉野の呼びかけで夢から覚めた。いつのまに眠ってしまったんだろう? 長い夢を見続けると、脳がずっと働き続ける状態になるという。熟睡できず、睡眠障害でも起き始めているのかな。


「また昔の夢でも見ていたんだろう?」


「ち、違うよ。ちょっと疲れが出ただけだ」


「本当か? まあいいや。近いうちに大学の同窓会をやろうと思うんだ。俺が幹事をやるんだけど、一人じゃ大変だから手伝ってくれよ」


「同窓会? わかった。手伝うよ」


 同窓会には彼女も出席するのかな? またあの時のように、楽しいひと時を過ごせるといいな……。そんな妄想を膨らませていたら、またウトウトと眠気に襲われる。



 * * *

「あった?」

「ううん、見つからない」

 廊下にしゃがみ込み、何かを探している女子二人。卯月天と、もう一人は同級生の永田ながたみなみ

 永田南はTVに出ていそうなアイドル系の可愛らしい容姿で、誰からも「みなみちゃん」と親し気に呼ばれる愛されキャラだ。そしてこの二人も、俺と吉野同様にとても仲が良い。

 一体、何を探しているんだろう?


「テンちゃんのイヤリングがひとつ無くなっちゃったの」

 ”テンちゃん” というのは卯月天の愛称だ。本来は『天』という字を ”そら” と読むのだが、親しい人たちは皆 ”テンちゃん” と呼んでいる。


「残念だけど、諦めるよ、南」


「えー、だって大事なイヤリングだよ」


「どこで落としたか分からないし、小さいから見つけるのは無理だと思う」


「そうだ。学生課に落とし物として届いてないか聞きに行こうよ」


「そうね。行ってみようか……」


 大事にしていたイヤリングを、失くしてしまったようだ。

 さっきの絆創膏のお礼もしたいし、代わりのイヤリングをプレゼントしようかな。





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