ダマスカスの箱

駄伝 平 

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 1月のイスタンブールは9度と寒かった。

 佐藤繁は、背の高い細い身体にパタゴニアの黒いビジネスコートに身を包み、昼間の旧市街の露天市場を途中で買ったケバブを食べながらメインストリートをぶらぶらしていた。

 旧市街の谷間から遠くにある新市街の高層ビル群が見えた。中東と西洋、ノスタルジックな旧市街と近未来的な新市街が入り混じり不思議で気持ち良い雰囲気に浸っていた。

 佐藤がトルコを訪れたのは二日前のことだった。貿易会社の鈴木商事に勤める彼は、商談のために3日間入国することになった。


 今回の商談相手は、初めての会社だった。若干の緊張をした。というのも、以前にトルコと貿易をしていた会社が倒産してトルコとのパイプが途絶えてしまったからだ。

 トルコの食材と雑貨は貴重だ。単価が安くて、輸入雑貨店でも人気がある。なので、会社は新しい取引先を探して急遽、出張する羽目になった。

 取引先の会社は新しい会社で、アラタイ商事という名前だ。日本とはまだ取引をしていなかった。主に扱っている商品はチョコレート、インスタントコーヒー、ワイン、乾燥パスタ、オリーブオイル、オリーブオイル石鹸だ。

 うまくいくか不安だった。アラタイ商事は新市街の高層ビル群の10階にあった。新市街はまるで、東京とあまり変わりないくらい発展している事に驚いた。話には聞いていたがこんなに発展しているとは想像していなかった。

 ビルに入るとエレベーターで10階を押してエレベーターのドアが開くと、まるでベンチャー企業のように、開けた空間でぬいぐるみや、おもちゃが壁に飾れていて、壁は水色とポップで、若い社員たちが私服でビーズクッション型の椅子に座りラップトップパソコンで作業をしていた。とても貿易会社とは思えなかった。内心、会社を間違えたかと思ったが、受付嬢に確認するとここで間違い無いと英語で言われた。

 しばらくすると社長が出迎えてくれた。社長はバリスという名前で佐藤より若く、長い前髪をオールバックにしていて、薄い褐色の肌に、目は綺麗な緑色の目をしていて、綺麗に切り剃られた髭を蓄え、グレーのダンヒルのスーツに身を包み、時計はロレックスをしていて、ジョンロブの革靴を履いていた。佇まいは、育ちの良さが滲み出ていて穏やかな雰囲気で、佐藤が緊張しているのがわかったらしく、終始笑顔で対応してくれた。まるで、ビジネスマンの鏡のような人物だ。

 それに比べて自分は、アオキのスーツに、Apple Watch、ABCマートでどこのメーカーかわからない紐の黒い革靴を履いていた。少し、恥ずかしくなった。商談なのだからもっとファッションに気をつければ良かったと思った。給料が上がらないのでファッションにお金をかける事ができないが。

 商談はとてもスムーズに終わった。こんなに早く、しかもお互いに納得のいく形で終わるのは初めてだった。バリスは時折冗談を言ってはその場の空気を和ませてくれた。商談が終わると、バリスが食事に誘ってきた。佐藤はバリスに連れられて、どう見ても高級な佇まいのトルコ料理店だった。

 佐藤はトルコ料理の知識がないためバリスにメニューを任せた。

 どれも、知らない料理ばかりだった。トルコ産のワインで乾杯し、ワインはとても飲みやすく美味しかった。それからイスケンデル・ケバブという、ケバブにトルコヨーグルトがかかった料理が出された。さすがに、肉とヨーグルトは合わないのではないかと思ったが、ヨーグルトの酸味と肉の相性は抜群で今までに食べたことのない味で美味しかった。

 バリスとはワインを片手にいろんな話をした。佐藤はバリスを金持ち出身だと思っていたが違った。元々は露店街の家系で生まれ、小さな時寂れた店を手伝いながら学校に通い、高校を卒業してから、商社に入って身を削って夜通し働き、10年働いたのちに独立して今の地位にいるらしい。その話を聞いて佐藤は恥ずかしくなった。中流家庭に育ち、なんとなく生活して周りからは仕事のできない奴とレッテルを貼られていたからだ。佐藤はバリスの話を聞いて自分もこれからは、いつも以上に頑張ろうと思った。

 最先の良いスタートだ。これで、上司の桐谷に嫌味を言われずに済むだろう。


 そして、残りの1日を観光に費やすことにした。

 バリスから観光スポット教えてくれたので助かった。

 旧市街は観光客が沢山いて賑わっていた。露店に並び、トルコ人の他に、白人、黒人、アジア人たちの観光客が、お土産を買い物したいり、カラフルな水色やピンクといったポップな色で塗られた建物が並ぶ街並みをスマホで写真を撮っていた。とても活気のある街だ、と佐藤は思った。

 佐藤は、お土産を探していた。会社の同僚にはトルコ名物のお菓子であるターキッシュディライトとオリーブオイル石鹸を選んだ。

 ターキッシュディライトは砂糖を煮詰めて澱粉で固めて中にナッツが入っている、とても甘いお菓子だ。佐藤には甘すぎるので食べても2個で胃もたれするが、同僚からは好評だ。

 オリーブオイル石鹸は特に女子社員に人気で、佐藤がトルコに向かう際に何人かが直接とオリーブオイル石鹸を買ってきて欲しいとと頼まれたくらいだ。佐藤はオリーブオイル石鹸を使った事があるが、他の石鹸と何が違うのか全くわからなかった。

 次は佐藤の恋人である木本真希へのお土産探しだ。トルコのお土産で有名なものといえば、トルコランプ・モザイクキャンドルがあるが、真希の友人が数年前にトルコを訪れた時にトルコランプをお土産に貰ったので、すでに家にあった。2つもトルコランプはいらないだろう。


 佐藤と木本が付き合い始めたのは18歳の時だった。もう17年も経つ。大学時代に軽音楽部で知り合った。同じバンドに所属して佐藤はベースを弾き、木本はキーボードを弾いていた。

 佐藤が初めて木本を見たときに恋に落ちた。木本は、切れ長の目をしていて、唇がぼってりしていて、色白で小柄。耳には大きなピアスを4つもつけていた。服は常にパンクバンドのTシャツを着ていて、どこか斜に構えた雰囲気を醸し出していた。友人たちは「止めておけ」と言ったが、佐藤は木本と話せば話すほど好きになっていった。

 佐藤が木本に告白したのは、出会ってから1ヶ月後のことだった。1度はフラレたが、3回目の告白でどうにか付き合う事ができた。それから大学卒業後、二人は阿佐ヶ谷の2LDKのマンションで同棲をしている。両親、同僚、友達からは「そろそろ結婚したら」と頻繁に云われるようになったが、二人は一度もその話になったことはなかった。

 個人的に結婚を考えていた時期もあったが、結婚した途端に関係性が崩れるカップルを沢山見てきた。

 佐藤は、そうはなりたくなかった。今のままでちょうど良かった。おそらく、木本も同じ考えだろう。もし、結婚するとしたら、子供ができたら考えればいいと、佐藤は思っている。


 そんなことを考えていたら、旧市街のはずれに来ていた。観光客はいなく、どことなく、どんよりとした雰囲気がした通りだ。

 これ以上進むのはマズイと感じた。どこの国もそうだが、人気のない場所は危険だ。もちろん、人気の多い場所でもスリにあったりすることがあるが。

 とりあえず、踵を返して、さっきいたメインストリートに戻ろうとしたその時、露天のテーブルに置いてある箱が目に止まった。

 トルコランプ、スカーフなどが並ぶテーブルに、太陽の光が反射して表面が輝く箱だった。表面が赤、青、黄色、ガラスで中東の雰囲気を醸し出した装飾をしている。

 佐藤は立ち止まり、箱を手に取った。

 直径はだいたい20センチ。深さは10センチ。5角形をしていた。ずっしりと重たく、何か入っているのかと思った。表面はモザイク柄のガラスが埋め込まれていた。木で出来ていて、側面に、黒く錆びた鍵穴と反対側の側面に蝶番があった。

『買うのかい?』と、店主の男がトルコ訛りの英語で話しかけてきた。

 店主は佐藤とあまり歳が変わらない感じで、色白で短いヒゲを貯えていて、目はきれいな茶色をしていた。黒いダッフルコートに身を包み下は青いジーンズに青いハイカットのコンバースのオールスターを履いていた。

『迷っているところだ』と佐藤は英語で答えた。箱自体はとても魅力的な装飾が施されたキレイな色合いをしていたが。派手すぎる気もした。だが、独特の魅力を感じていた。

『プレゼントかい?』

『まあ、そんなところだ』

『なら、とても良いプレゼントになるだろう』

『なぜだい?』

『それは、幸運の箱だからさ』

『幸運の箱?』

『そう、その箱を手に入れると幸運が舞い込んでくる』

『どんな幸運だい?』

『想像を超えた幸運だよ』

『お守りみたいなものかい?』

『まあ、そんなところだ』

 佐藤は箱を開けようとする。鍵がかかっているらしい。

『鍵はないのかい?』

『鍵は無い。オブジェと思え』

 佐藤は納得いかなかった。箱なのに、開かないなんて意味がない。だが、オブジェとしてみれば確かに魅力的だ。きっと、木本も喜んでくれるだろう。彼女はこういったオリエンタルでカラフルな物大好きだった。前に、インドに行った際にカラフルなインドの民族衣装をお土産でプレゼントした時に彼女はすごく喜んだのを今でもおぼえている。

『それでいくらだい?』

『400リラだ』

 日本円に換算すると2500円くらいだ。鍵の無い箱に2500円を払うのは高すぎる気もした。だが、佐藤は、この箱になんともいえない魅力を感じていた。なぜだか分からないが心の奥で、この箱が欲しくてたまらなかった。

『どうする?買うかい?』

『わかった。買うよ』

 佐藤は尻ポケットから黒い合皮でできた財布を取り出し、400リラを渡した。

 店主は箱をビニール袋に入れて佐藤に渡した。

『これで、あんたは幸せになれるよ』と店主は笑顔で言った。


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