泡になった初恋
最後に二人がたどりついたのは、緑色のサンゴの森の奥だった。
見上げるほど巨大で、頭上の海を覆い尽くすように枝をひろげた立派なサンゴの大樹の下。
朝は梢から陽の光がきらきらと射し込み、昼はやわらかな砂のうえに森の木漏れ日がチラチラゆれる。けれどサンゴの太い幹が落とす木陰はいつでもひんやりと薄暗くて、夜の闇が森をすっぽり覆うまで、ネロの隠れ家になってくれる。
この明るさが、ネロに我慢できる限界だった。
「うん、いい感じ」
木漏れ日のなかでふり返って、シェルが嬉しそうにふんわり笑った。
「波が気持ちいいね」
シェルの笑顔に目を細めて、ネロも木陰の暗がりから軽く尾びれをふり返した。
さざ波に白い髪をそよがせて、白銀の尾びれをゆったりゆらして黄金の木漏れ日のあいだを泳ぎまわっているシェルの姿は、ネロには少しまぶしすぎた。それでも目をそらせないほど、シェルはきれいだった。
ずっと見ていたかった。
楽しそうに泳ぐ姿を、自分だけに微笑んでくれる笑顔を。
オレはまだ、シェルの隣にいられる。
たったそれだけのことが、嬉しくて、しあわせだった。
けれどそのしあわせも、長くは続かないらしかった。
夕暮れが近づくにつれて、シェルはそわそわと落ち着きがなくなっていった。
サンゴの落とす影が白い砂のうえに広がって、森全体がうっすらと闇の底に沈みはじめる頃。ようやく自由に泳ぎまわれることが嬉しくて、ネロが尾びれをのばして思いっきり伸びをしていたら、となりへ泳いできたシェルが窺うようにネロを見つめた。
「ねぇ、ネロ」
「んー?」
「明かりをつけてもいい?」
「探しもの?見えねーの?オレが見つけてやろっか?」
「ううん、そうじゃないんだけど」
シェルがうつむいて、尾びれの先でもじもじと砂を蹴った。
あー、わかった。
本ね。
はいはい。
「穴のなかで読めよ。好きなだけランプつけていいからさ。カーテンは閉めろよ?」
「あー……うん。じゃあ、そうしようかな」
困ったように笑って、曖昧に返事をして、シェルはサンゴの太い幹にぽっかりあいた洞のほうへ泳いでいった。
なんだ今の。
へんなシェル。
入り口を覆い隠している海草のまえでふり返って、ネロ、とシェルが呼んだ。
「どーした?」
「一緒にきて」
「はぁ?ランプなら入り口にあるだろ?つかねーの?」
ううん、とシェルが首をふった。
「光る石はまだあるよ。でもこのランプは小さいから、奥のもっと大きいランプを探したくて。だから一緒に」
「もー、しょーがねえな」
オレが見つけてくるから、と入り口にシェルを残して奥の暗闇のなかへ泳いで行こうとしたら、シェルがネロの腕にしがみついてきた。ドクンと心臓が鳴った。
ネロの手を握って、うつむいたままシェルが首をふった。
「置いていかないで」
「……そのランプつけねぇなら、一緒に来てもいいけど」
反対の手にもったランプを見下ろして、シェルが困ったような顔をした。
「じゃあ、ぼくのこと抱きしめててくれる?」
「は、はぁっ!?」
「それならぼく、大丈夫だと思う。あの谷でしてくれたみたいにネロが抱きしめててくれるなら、ぼくランプをつけなくても平気。外でネロと遊べる」
「やっ、やだよ!オレにずーっとシェルのこと抱っこして泳げっての?ジャマくせぇ」
「じゃあ枝にランプをさげていい?小さいのでかまわないから。そしたらぼく」
「いいわけねーだろ。ほら、ランプ」
棚から大きめのランプを引っぱりだして押しつけたら、シェルがしょんぼりした顔をしてランプを抱きしめた。
「ネロ」
「なーに?」
「本を読んであげようか。ランプは小さいのにするから、ネロは隣で目をつむってて。そしたら」
「あのさぁ、オレは思いっきり泳ぎたいの。夕食も捕まえに行きたいし」
「ぼくがとってきた貝があるよ。海藻もたっぷり」
「魚が、食いたいの!オレは!」
まだ何か言いたそうなシェルを置き去りにして洞を飛び出して、気がすむまでサンゴのあいだを泳ぎまわって、適当に魚を捕まえて帰ってきたら、海草のカーテンの隙間からまぶしい光がもれていた。
ちらっと海草をめくって薄目でのぞくと、砂のうえいっぱいにぐるっとならべたランプの真ん中で、シェルが丸まって眠っていた。
その明かりを閉じ込めるように、ネロはカーテンをおろした。
ふと見上げると、サンゴの梢を透かして遠い月の光がきらきらゆれている。
その、ほのかな明かりさえ疎ましくて、ぼんやりと青い暗闇のとくに闇の深い木陰を選んで砂に寝転んで、二人で食べるつもりだった小魚をひとりで平らげてウトウトしていたら、やわらかく水をゆらして、となりに何かが潜りこんできた気配があった。
シェルだった。
ぎゅっと抱きつかれた腕に肌の温かさを感じて、自分の尾びれに絡みついてくるシェルの尾びれのなめらかさに、鼓動が速くなった。ドクンドクンと全身が脈打って、下腹部に今まで感じたことのない熱が集まってくる。
なにこれ、なにこれ。
どうしよう。
オレ、ヤバいかも。
「シェル、あっ、あのさ」
シェルの腕のなかから自分の腕を引き抜こうとして、ふと、シェルが震えていることに気づいた。
「……シェル?怖いの?」
ネロの腕にしがみついたまま、シェルがちいさくうなずいた。消え入りそうな声が、暗くて、とつぶやいた。
「けど、オレたちがずっと棲んでた洞穴だって、夜はおなじくらい暗かったよ?」
「わからない。でも気配がちがう。ここの闇はもっと濃くて、なにか……あの谷よりは、ずっとマシだけど」
「中にいれば?」
ふるふるとシェルが首をふった。
「おねがい、ネロ。明かりをつけてもいい?」
「だから中にいろって。ランプ並べまくって明るくしてあったじゃん。生け贄の儀式みたいに」
「ネロもくる?」
「いかない」
「じゃあ、ぼくもここにいたい。あのね、本当に一番小さいのでいいから、ね?」
ああ、なるほど。
突然バカバカしい気持ちになった。
シェルは結局、あの真っ白でピカピカ明るい洞穴が恋しいんだ。
あれを基準にするから、この程度のフツーの闇まで、とんでもなく真っ暗に感じる。目に見えないおぞましいものがあちこちで蠢いている幻覚にとり憑かれる。過剰反応。強迫観念。どこに行ってもおなじ。あの洞穴以外は。
「ねぇ、ネロ」
「しつけーよ!」
イライラした。
だって、オレはシェルと一緒にいたいのに。
ずっと、ずっと、シェルと二人でいたいのに。
たぶんネロたちの身体は、それを許してはくれない。きっと自分たちは、この海で最も遠い生き物。本当は決して交わらない二つなのに、うっかり出会って同じ場所にとどまっていただけ。波に流されてきた海藻がサンゴに引っかかっているみたいに。潮の流れが変わったのだ。もとの場所へ帰れと、波が二人に唸っている。
だけどオレは、シェルといたい。
シェルを離したくない。
だからオレは、オレにできる最大限の我慢をしてんのに。なのにシェルは、あの洞穴が忘れられねーんだ。オレよりも。オレなんかよりも、あのクソみてーな真っ白い洞穴のほうがずっと、ずっと、大切なんだろ!クソったれ!
「暗いのがイヤなら中に戻れよ!オレは明るいとダメなんだよ!頭がガンガンして具合が悪くなんの!シェルだって知ってるくせに!!ワガママすぎるんだよおまえ!!!」
シェルが大きく目を見開いた。
その目がきらきらゆれて、たちまち大粒の涙が溢れだして、砂のうえに硝子玉がいくつもいくつも転がり落ちた。
逃げていこうとするシェルにハッとして、ネロもあわてて飛び起きて腕を掴んで引き寄せて、背中からシェルを抱きしめた。
「……ごめん。怒鳴って悪かった。何を言いたかった?教えて」
ネロの腕のなかで肩を震わせて、シェルが黙って首をふった。
二人のしたの白い砂に、シェルのこぼす硝子玉が、ただ、ひっそりと積もっていった。
朝、ネロはまぶしい陽射しのなかで目を覚ました。
腕のなかにはネロの胸にしがみつくように丸くなって、シェルがいた。
昨日、黙って泣きつづけるシェルをネロが抱きしめてはなさずに、そのまま二人で眠ってしまったのだった。
目に染みるような陽射しのなか、自分の腕のなかで眠っているシェルの顔を見ていたら、ネロは昨日の自分がバカバカしくなった。
なんでオレ、あんなに。
いいじゃん。
ランプくらい。
シェルがつけたいって言うのなら、頭上の枝いっぱいにお祭りみたいにランプをぶらさげて、真昼よりも明るくしてやればいい。その明かりのなかでシェルが笑ってくれるなら、オレは頭が痛いのくらい、いくらだって我慢できる。
いいよ。
わかったよ、シェル。
しょーがねえなぁ。
シェルが目を覚ますのが待ち遠しかった。
きっとシェルは笑ってくれる。喜んで、ネロに抱きついてくる。オレたちはまだ一緒にいられる。ここでずっと、二人でしあわせに暮らしていける。
長い睫毛が震えて、シェルがパチッと目をあけた。
陽射しを浴びて、白い髪もやわらかい頬もまぶしい金色にかがやかせて、透きとおった真っ青な目がネロを見つめた。
目を丸くしてまばたきして、白い頬がみるみる赤くなっていく。恥ずかしそうに、ほんの少しうつむいたその顔が、夢のようにきれいで、愛おしくて……
ドクンと、心臓が跳ねた。
頭が真っ白になって、今すぐきつく抱きしめて、それ以上のことまでしたくなった。
それ以上?
それ以上ってなに?
ダメ、ダメ。ダメに決まってんだろ。そんなことしてシェルに嫌われたら、オレもう生きていけない。
「……おはよ、シェル」
「あ……うん」
おはよう、とネロの腕のなかでシェルが困った顔をした。
「ごめんね、ネロ。ぼく、あのまま寝ちゃったみたいで」
「よく眠れた?」
うつむいたシェルが、恥ずかしそうにうなずいた。
あのさ、と声をかけようとしたら、シェルが顔をあげてネロを見た。
「あのね、ネロ」
その青い目があまりにも、まっすぐだったから。
言われる前にネロにはぜんぶ、わかってしまった。
ああ、そっか。
オレはシェルと一緒にいたいけど。
シェルもまだオレと一緒にいたいとは、限らねーじゃん。
するどい爪で心臓をえぐられている気分だった。
バカだな、オレ。
ほんと、バカだな。
「あのね、考えたんだけど、ぼくたち」
「あーうん、わかった。おっけー、おっけー。わかってる」
シェルの口から聞きたくなくて、無理やり遮って、無理やり明るく笑って見せた。
「オレも、同じこと考えてたとこ」
「じゃあ」
「終わりにしよう」
え、とシェルの目がゆれた。
その青い目を見つめつづけるのがつらくて、ネロは思わず目をそらした。
「一緒に暮らすのは、おしまい。もう無理なんだ。おまえだって、わかってたんだろ」
視界の隅で、シェルの青い目が光って、まばたきの隙間から透きとおった何かがこぼれ落ちるのが見えた気がした。
もしかしたら、シェルが言おうとしたのは、別のことだったのかもしれない。
だとしたら?
もうわからない。
もう、遅かった。
「……うん」
わかった、と掠れた声でつぶやいて、シェルの身体がするりと腕のなかから抜け出した。
とっさに追いかけようとするネロの腕をすり抜けて、やわらかくくねらせた尾びれの先で、さよならを言うようにネロの頬を撫でて。
まぶしい陽射しのなか、波のむこうへ泳ぎ去っていく銀色の尾びれを見つめて、ネロは気づいた。
なんだ。
オレ、好きだったんじゃん。
シェルのこと。
親友とか、きょうだいとか、二人っきりの家族とか。
そういう気持ちもあったけど。
でも、そうじゃなくて。
オレはシェルに、恋してたんだ。
もう遅い。
ネロの尾びれで追いかければ、あの背中には追いつける。だけどたった今、なにか取り返しのつかないものが粉々に砕け散ってしまった。ネロにもシェルにもわかっていた。尾びれで叩き割ったのは、オレ。
明るい陽射しに背をむけてネロは泳ぎ出した。
切り立った崖のうえで、真っ暗な谷底から流れてくるひんやりした波に尾びれをゆらし、一度だけ、きらめく海面を見上げて。
深い、深い、暗闇の底へ、もう振り返らずに下りていった。
(完)
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