予感

 



 子どもの二人が寄りそって眠っていた洞穴は、成長したネロとシェルにはいよいよ窮屈になってきた。

 

「引っ越しだーっ!」

 

 寝相が芸術的に悪いシェルの尾びれで引っぱたかれ、しあわせな夢から叩き起こされて、イライラしながらネロは叫んだ。

 

「この洞穴じゃ、さすがにもうムリ!」

「ぼくは、せまくても別に」

 

 寝癖でもさもさした髪をゆらして、シェルがあくびしながら何か言いかけたけれど、ギロッとネロに睨みつけられて、口を閉じて肩をすくめた。

 

 


 

 新しい巣穴探しは、びっくりするほど難航した。

 ただの洞穴ならすぐに見つかる。

 なにしろ海は、成長したネロやシェルの尾びれでも泳ぎつくせないほど延々と果てがなくて、岩場やサンゴの下には最低でもひとつ、ふたつ、良さそうな穴がぽっかり空いているものだから。

 けれどそういう穴は大抵が二人で棲むには小さすぎたり、潮の流れが強すぎて入り口がすぐ砂に埋もれてしまったり、逆にちっとも波が来なくて穴のなか全体が何となくよどんでいたり、狩り場から遠すぎたり、近所に棲んでいる人魚たちがいけ好かなかったり……

 

「なぁ、シェル。あの穴は?結構良さそう」

 

 通りかかった大きな岩礁の底のほうに、ぽっかり口をあけた洞穴を発見して、尾びれを蹴って泳ぎ寄っていこうとしたら、シェルがあわててネロの手を引っぱった。

 

「待って、ネロ!もう棲んでる人がいる!」

 

 シェルが指さした窓辺には、たしかに巻き貝のポットをならべてピンク色のイソギンチャクが植えてあった。入り口から見える奥の部屋にも、海草で編んだクッションだの沈没船から拾ってきたらしい陸の地図だのが飾られている。

 またこれ。

 ネロたちが良さそうだと目をつける穴は、どれもこれも、すでに埋まってしまっている。いい加減ウンザリするくらい。

 

「あー、面倒くせぇ。もう追い出しちゃえばいいよ。オレがちょこっと睨みつけて歯ぁ剥いてやれば、すぐ尾びれ巻いて逃げてくもん。荷物外に捨てちゃおーぜ。オジャマシマース!」

「ネロったら!」

 

 奥へ泳いでいこうとするネロを尾びれを掴んで引きずり戻して、シェルがネロを睨みつけた。

 

「ダメって言ってるでしょ!だれかを無理やり追い出した家になんか、ぼくはぜったい棲まないからね!」

「じゃあどーすんだよ!朝からもう何百万クジラぶん泳ぎまわってると思ってんの?このままじゃ日が暮れちゃうっての!今夜もシェルに蹴っとばされたら、オレはシェルの尾びれ噛みちぎるよ!」

「もうちょっと探してみよう、ね?」

 

 ネロの手をとって、シェルがなだめるように覗きこんできた。

 長い睫毛の下から、ちょっと上目遣いでネロを見上げて、思わず見惚れてしまうほどやわらかい笑顔で。シェルのそういう顔にネロが弱いことをわかっててやってるんだから、最近のシェルはタチが悪い。

 

「この丘のむこうを見てみようよ。上の方ならまだ空いてるかも」

「上ぇ?」

「ほら、行こう」

 

 シェルに引っぱられて泳いでいった丘の上は、海面がいつもよりずっと近くで煌めいていて、別世界のように明るかった。……ちょっと、明るすぎるくらい。

 頭が痛くなるほど極彩色に煌めくサンゴのあいだを抜けて、目がチカチカするようなカラフルな小魚たちが泳いでいくのをきらきらした目で見つめて、シェルが嬉しそうに笑った。

 

「すごくきれいな所だね」

「そーお?」

「それに波が甘くておいしい。ぼく、ここ気に入ったな。ぴったりな家が見つかるといいんだけど」

「どーかな」

 

 しばらく泳ぎまわってシェルが見つけ出した家は、真っ白いサンゴと真っ白い岩でできた、何もかもが真っ白な洞穴だった。

 

「サイコーだよ!」

 

 真っ白なリビングの真ん中でくるっと尾びれをひるがえして、シェルが嬉しそうに笑った。

 

「広さも充分だし、波も気持ちよくて陽当たりもいい。まだ空いてるのが不思議なくらい」

「ユーレイでも出るんじゃねーの」

 

 ネロは窓をあけてバルコニーに首を出してみて、降ってきそうなほど近い海面の眩しさにびっくりして、あわてて海草のカーテンをきっちり閉めた。

 

「見て、ネロ。こんな所に落書きがある。家族で棲んでたんだね。狭くなったから引っ越したのかも」

「なー、シェル。ここもいいかもだけどさぁ、もうちょっと他も――」

「ネロ、こっち!」

 

 シェルに手をつかまれて引っぱりこまれたのは、寝室らしかった。

 そのあまりの真っ白さと眩しさに目をパチパチさせていたら、ぐいっと引きずり倒されて、やわらかい砂のうえに転がっていた。明るいと思ったら天井に大きな穴が空いていて、きらきらゆれる海面から陽の光が射し込んでいるのだった。

 となりに寝そべったシェルがうっとりと尾びれをゆらしながら、ネロを見つめて笑った。

 

「ぼく、ここがいい。すごく気に入っちゃった」

「えぇー……」

「ねぇ、ネロ。だめ?」

 

 長い睫毛でまばたきして、ゆるく細めた青い目がネロを映して煌めいている。白い頬をほんのり染めて、やわらかそうな唇をゆるくひらいて、本当に、嬉しそうに微笑んでいるから。

 ドキドキした。

 耳に響く鼓動がうるさくて、呼吸が浅くなって、頭のなかまでこの洞穴と同じくらい真っ白になってしまったみたいで、自分を見つめて微笑んでいるシェルの姿から目がはなせなくて、ほかのすべてのものが波に流されてしまったように、ただ、シェルの笑顔しか見えなくなった。

 

「…………しょーがねえなぁ」

「ほんと?」

「試しにね。3日だけ。問題があったらすぐ別の穴を探すよ」

「ありがとう、ネロ!」

 

 シェルが飛びついてきて、ネロを砂に押しつけるようにぎゅっと抱きしめた。

 その身体が重たくて、重なりあった肌が温かくて、自分の尾びれに触れる彼の尾びれがぞくぞくするほどなめらかで……いつもみたいにシェルを抱きしめ返せなかった。だってオレ、オレ、いまシェルを抱きしめたら、そのまま砂の上に押し倒してサイテーなことしちゃいそう。

 行き場をなくした両腕を水中にただよわせて、ネロはすっかり困り果てているのに。そんなことにはちっとも気づかずシェルはネロに抱きついたまま、嬉しそうに歌を口ずさんで、ゆらゆらと尾びれをゆらしていた。

 

 


 

 真っ白い洞穴での暮らしは、3日も続かなかった。


 洞穴が悪いというよりも、ネロの体質の問題だった。

 身体が大人に近づいて、しなやかな尾びれが黒っぽい青からより深い黒に変わってゆき、背びれの棘と爪の鋭さが増していくほどに、ネロは夜目が利くようになってきた。けれど暗闇をより遠くまで見通せるようになればなるほど、明るい光を鬱陶しく感じるようにもなっていた。

 じいちゃんはよく、銀色にきらめく海面を忌々しそうに睨みつけて、明るい上層へ泳いで行きたがるちっちゃなネロをつかまえて言い聞かせた。「覚えておけ、あの光は毒だ」と。じいちゃんがなぜ薄暗い谷の底から出たがらなかったのか、今のネロにはよくわかる。


 ここの光は強すぎる。


 眩しくて、目が痛くて、その容赦ない明るさが、だんだんうるさくなってくる。

 洞穴いっぱいの貝殻をガチャガチャ鳴らされ続けているみたいで、頭がガンガンして気分が悪くなって吐き気がしてくる。

 逃げるように目を閉じたところで、やっぱりまぶたを透かして明るい陽の光がネロをギラギラ照らしていて、見えない手でずっとウロコを逆さまに撫でられているようにゾワゾワして一瞬も気が休まらなくて、ようやく夜になって落ち着けるとホッとしても、寝室の天井にぽっかり空いた穴からは巨大な鏡みたいな真ん丸な月がピカピカとネロを見下ろしているのだった。

 となりに寝そべっているシェルは「月を見上げながら眠れるなんて夢みたい」と嬉しそうに尾びれをゆらしているから、「あのクソみたいな穴を今すぐ塞いで!」とわめきちらすのも可哀想で、ネロはぶ厚いケルプを頭までかぶって、ぎゅっと目を閉じて丸くなる。けれど夢のなかですら、凶暴な光があっちでもこっちでもギラギラかがやいて、ネロをやさしい暗闇から追い立てて、明け方まで逃げ回ってぐったり疲れきったネロがようやく眠りに落ちた途端、また眩しい陽の光が容赦なく射し込んできて、ネロを極彩色の光のなかへ引きずり出すのだった。

 

「ネロ、大丈夫?」

 

 この真っ白な洞穴で唯一陽の光のとどかない本棚の裏の暗がりに逃げ込んで、ケルプをかぶってうずくまっているネロを、シェルが心配そうに覗きこんで、海藻の束を寄越してきた。

 

「食べて。頭痛に効くよ。こっちの巻き貝は齧るとよく眠れるようになる。それからこっちの」

「……シェル」

「うん、なにか欲しい?」

 

 じっと覗きこんでくる青い目を、ネロは悲しい気持ちで見上げた。

 ごめん、シェル。おまえは、あんなに嬉しそうだったのに。

 

「オレ……ここ、ダメだ……」

 

 自分の口から出たとは信じられないほど、弱々しい声だった。

 ネロを見つめる青い目がハッと大きくなって、シェルがほんの少し、悲しそうな顔をした。

 

「うん、わかった」

「ごめん……」

「ネロのせいじゃないよ。きっと、もっといい家が見つかるよ。出られそう?ちょっと狭いけど、今日はいままでの洞穴でゆっくりしよう」

 

 

 

 

 明るすぎる巣穴は、もうこりごりだった。


 三日三晩寝込んでようやく寝床から這い出したネロは、もっと深い場所を探してみようと、シェルの手を引いて下へ下へと泳いでいった。

 シェルはずっと浮かない顔をしていた。ネロには何も言わないけれど、あの真っ白な洞穴が恋しいに違いなかった。


 まだ昼前だというのに辺りが薄暗くなってきて、水が肌寒くなってきた頃。下のほうから流れてくるゆるやかな波に、ネロは懐かしいにおいを感じた。


 ああ、このにおい。


 ひんやりしていて、ちょっとカビ臭くて、やわらかい泥のようにすべてを覆い隠す、深い、深い、闇のにおい。

 ワクワクした。

 冷たい水が尾びれの先まで染みわたって、まだまぶたの裏でチカチカしているうるさい光の幻覚を洗い流してくれる。

 じいちゃんと暮らしていた深い谷底へとつづく崖まで泳いでくると、ネロの後ろを恐る恐るついてきていたシェルが、目に見えて怯えはじめた。

 

「ほら見て、シェル。この崖の壁」

「ネロ」

「このあたりの壁には横穴が多いし、棲んでる人魚も少ねーから、空いてる穴がいっぱい見つかると思う」

「ネロ」

「あっ、あそこの穴どう?すげー良さそうじゃねえ?」

「ネロ!」

 

 手を繋いだまま下へ泳いでいこうとするネロに首をふって、尾びれで必死に踏ん張って手を振りほどこうとしていたシェルが、突然、崩れ落ちるように座り込んだ。

 尾びれと片腕で岩にしがみついて、目の前にぽっかり口をあけている崖と、底の見えない暗闇を血の気のひいた真っ青な顔で見下ろして、シェルがまた、首をふった。

 

「ネロ……ぼくここ、怖い……」

「大丈夫だって。たしかに凶暴な連中もいるけどさ、そういう奴らが棲んでるのはもっとずーっと深い場所。この辺りまでは来ねーよ。それに、万が一襲ってくる奴がいてもオレが」

「ネロ」

 

 岩にしがみついたまま、シェルが首をふった。

 ネロを見上げた青い目から硝子玉のような涙がポロポロ溢れだして、岩のうえを転がって、崖の底の真っ暗な闇へ落ちていった。

 

「……ほんとに無理?」


 ネロを見つめて力なくうなずいて、ぎゅっとつぶったシェルの目からまた涙がこぼれた。

 

「わかった。戻ろう」

 

 岩の上から動かないシェルを腕をのばして抱き上げたら、震えている身体はぞっとするほど冷たかった。同じなんだと気づいた。オレと同じ。オレがあの光がダメだったように、シェルは暗闇がダメなんだ。

 いやな予感がした。

 

「……ごめんね」

「いいよ。シェルのせいじゃねーって」

 

 ぼんやりした予感だった。

 濁った水のむこうで、チラッとひるがえる尾びれのような。

 思考の隅をちらつくそれを頭から追い払うように、ネロはシェルを抱きしめたまま尾びれを蹴って、明るいほうを目指して泳ぎだした。

 

 

 



 


 

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