第37話 嫉妬の生霊


 ジョアンに何かが取り憑いている。この影の様子では、恐らく生霊だ。それも、満たされない恋を嘆く霊。


 「六根清浄ろっこんしょうじょう急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう!」

大きく息を吸い、俺は唱えた。


「何? 何、怖いよ、シグ」

「君に何かが取り憑いている。じっとしてろ」


 ジョアンに言い置いて、再び呪文を口にする。


「六根清浄、急急如律令!」


 ふと、耳元でため息を聞いた。ぞくっとした。俺はこの吐息をよく知っている気がする。

 いや、騙されちゃだめだ。生霊の奸計に乗せられるなぞ、もってのほか。


「急急如律令! 急急如律令!」


「シグ?」

不安そうなジョアンの声。

「生霊だ。ジョアン、君、誰かにひどく嫉妬されてるぞ。一体何をやらかしたんだ?」

「俺は何もしてないぞ」

「信じられない。物凄い嫉妬だ。ええい、ジョアンから離れろ。悪霊退散!」


 叫んで俺は、左手をぐっと突き付けた。

 ジョアンにまとわりついていた影が、粉々に砕けた。地面に落ち、まるで質の悪い虫のように、もぞもぞと四方に這っていく。


「六根清浄、急急如律令!」


 最後にもう一度叫ぶと、虫はもがき苦しむかのようにキリキリと舞い上がり、宙に消えた。


「もう大丈夫」

茫然としているジョアンに言った。


「生霊だったの? 俺、取り憑かれてたのか?」

「うん。物凄い嫉妬だったよ。もう、人の恋人を盗るのは止めなね」

「だから違うって……」


言いかけてジョアンは、俺の顔をじっと見つめた。

「シグ、まさか君、恋人ができたなんて言わないよな?」


 胸がつきんと痛んだ。でも、違う。俺には一時たりとも恋人なんていたことはない。


「それとこれと、どういう関係があるっていうのさ?」

むしろ反抗的に尋ねた。


「できたのか?」

「何が」

「恋人」

「怒るぞ。そんなのいない!」

わざと乱暴に答えた。


 ジョアンの顔に安堵が浮かんだように見えたのは、気のせいだろうか。


「いずれにしろ、君に取り付いた霊は祓っておいたから。今夜はよく眠れるよ」

 保証してやった。


「なんだか急に腹が減ってきた。……凄いな、シグ。君の浄霊は一流だ。やっぱり君は、浄霊師に戻るべきだ」


 前にもそんなことを言っていた。その結果が、カルダンヌ公の覚醒だ。俺のキ、……。

 力いっぱいむっとした。


「いやだっていったろ」

「でもその実力、こんなところで埋もれさせておくにはもったいなさすぎる!」

「これが俺の分相応というものだ」

「過小評価もいい加減にしろよ、シグ」



 「あのう。お二人の話が聞こえちゃったんだけど」

 ドアの陰に、誰かが立っていた。大家の孫のシュテファンだ。

「俺もこの頃、寝つきが悪いんだ。もしかして、俺にも生霊が?」


 透かし見ると、確かにジョアンと同じ影が見える。いったいどうしちゃったっていうんだ?


 シュテファンは大家さんが可愛がっている孫だ。大家さんには随分世話になっている。

 ジョアンと同じように、シュテファンに取り憑いた生霊も祓った。


 体が軽くなった二人は、腹が減ったようだ。戸棚に突進し、俺の秘蔵の揚げ菓子をむさぼり始めた。


 それにしても、いったいどうしたというのだろう。ジョアンとシュテファンは同じ女性に恋をしたとでもいうのだろうか。その女性に執着していた彼女の別の恋人が、嫉妬のあまり生霊となって、二人に取り憑いたとか?


 「やっぱりあんたもか、甘やかされた大家のガキめ」

「ガキじゃない、孫だ。あんたこそ黙って手を引きやがれ」

「なんだと? この放蕩ボンボンが」

「うるさい、ビンボー兵士!」


 油で手と口の周りをべたべたにした二人が、罵り合いを始めた。口論はすぐに、取っ組み合いに発展した。


 せっかく悪しき魂を祓ってやったというのに、なんてことだ。二人は今、浄化の桃源郷にいるはずなのだ。心は清く、どこまでも澄んでいるはずなのに。

 まったくもって、わけがわからない。


 ふと、首筋がもじょもじょするのを感じた。

「げ」


 さっき成敗した虫……生霊の残滓……が、俺の首筋を伝い、襟の間から服の中へ潜り込もうとしているところだった。

 慌ててそいつをひっつかみ、引きずり出した。


「いやらしい生霊め!」

 言いながら足で踏みつぶした。







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