第31話 背中の傷
「ダメですよ。何もしませんからね」
書斎に戻ると最初に念を押した。ドアを閉め、足音を忍ばせて近づいてきたヴァーツァは、がっくりと肩を落とした。
「だって、君は俺が好きなんだろ?」
誰がそうです、なんて言うか。
「バタイユがすっ飛んで帰って来ます」
「だから、見られても平気だって言ったろ?」
「平気なのはあなただけです!」
「バタイユも平気だ」
俺はため息をついた。変態兄弟め。
「傷はもう、すっかりいいんですか? 熱が出たり、傷が痛んだりすることは、ないんですか?」
「心配してくれるのか? 嬉しいなあ」
「一番大きな背中の傷は? 本当なら致命傷になったんでしょう? バタイユがいなかったら」
何気なく言うと、ヴァーツァははっとしたような顔になった。
「背中の傷? 違う。一番大きいのは、胸の傷だ」
若干上ずった声で言い張る。俺は首を傾げた。
「胸の傷は完治していますよね? 最後まで貴方を苦しめていたのは、背中の傷だ」
この館でヴァーツァは、俺が見る限り、いつも横向きかうつ伏せで寝ていた。仰向けの寝姿は見たことがない。
それは、背中の傷が治らないからだ。
ガラスの柩、もとい、養生箱の中では、ヴァーツァの下には紫の薔薇が敷き詰められていた。バタイユの話では、紫の薔薇は奇跡の花で、養生箱の花々には、さらにバタイユの魔力が封じ込まれていたという。
ヴァーツァは仰向けで、薔薇を背中の下に敷いていた。傷口に魔力が最も取り込められるようにという配慮だったのだろう。
「胸の傷はもう、治ったんでしょ? 前に僕が貴方の胸を叩いた時、貴方は少しも痛がらなかったし、胸を庇おうともしなかった」
使用人からろっ骨を取る取らないで言い争った後、ヴァーツァは、そんなことよりもっと大事なことがあると言って、俺を抱きしめようとした。腹を立てた俺は、彼の胸を思いっきり叩いたわけだが、ヴァーツァは平然としていた。
「どうしていつもいつも、貴方は胸の傷ばかりを強調するのか、不思議に思っていました。痛いのは、背中の傷でしょう?」
「…………」
饒舌なヴァーツァにしては珍しく、口を噤んでしまった。じっと俺を見つめている。紫色の目が激しく葛藤しているのが見て取れた。
「あ、いいんですよ? 言いたくなければ無理していわなくても」
前に自分が言われたことを繰り返した。軍を辞めた理由を問われた時だ。あの時ヴァーツァの声は、とても優しかった。人には、踏み込んでいけない領域があるんだ。それは、守らなくちゃいけない。
「いや、」
ヴァーツァは首を横に振った。
「俺は嬉しいんだ。シグモント、君は、俺のことをとてもよく見ていてくれるんだね」
「べ、別にそういうつもりじゃ」
声が上ずった。本当にこのきれいな男は!
ヴァーツァは、俯き、それからすぐに顔を上げた。俺の目線を捉え、一直線に見つめ返してくる。
「だから、俺も正直に話すよ。もう、君を騙したりしない」
「騙そうとしてたんですか?」
ヴァーツァになら騙されてもいいけど、でも、騙されてばかりはいやだ。
「うーん、騙すは言い過ぎかな。恥ずかしかったんだ。背中の傷ってそういうもんだろ?」
「?」
「軍においては」
「ああ!」
……背中の傷は、後ろから襲われた証。勇気ある戦士なら、敵に後ろを見せたりしない。
「でも、そうとばかりは限らないでしょ。卑怯な騙し討ちだってあるし、敵に囲まれてしまった場合だってあり得る」
「確かに敵に包囲されてはいたが……。でも、背後を襲われたことに代わりはない」
「ちょうどいい。僕は、戦争の報告書を書くんですよね。その時のこと、詳しく話してください」
カルダンヌ公の戦死については、当時まだ王子だったアンリ陛下を庇って死んだ、ということしか伝わっていない。
……ああ、こうやって俺は、ヴァーツァの仕事を引き受けてしまうのだな。なし崩し的に彼の傍にいるわけだ。
ちらっとそう思った。
けど、後の祭りだ。もとい、本当は嬉しい。自分の希望ではなく、状況に強制されて彼の傍にいられることが。
ヴァーツァは、不安と希望の入り混じった顔をしていた。この人の心を少しでも軽くできたらいいな、と思う。
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