第30話 雇用
「霜下りる月も終わるというのに、今年は随分と温かいな」
後ろを歩く俺に、ヴァーツァのつぶやきが聞こえて来た。
「ご覧。まだダリアの花が咲いている」
太陽の光は暖かかった。空気は澄んでおり、青く高い空には、雲一つない。
ヴァーツァはオレンジ色の花に触れた。不意にいたずらっ子のような顔になった。
「君はまだ、霜下りる月のこの暖かさが、俺のせいだと考えているのかい? 例年と違う、明らかな異常気象を」
「……いいえ」
だってヴァーツァからは、何の悪意も感じられない。生霊にしろ死霊にしろ(彼は生きているが)、彼は誰にも祟っていない。
青空に向かってうーんと大きく、ヴァーツァは伸びをした。
「そろそろ王都へ行こうと考えている。アンリ陛下に拝謁し、俺がこうして元気でいることをご報告申し上げなくてはならない」
そんな気がしていた。これは、ヴァーツァからのお別れの言葉だ。
寂しい。でも、仕方がない。王都に行けば、選択肢はたくさんある。ヴァーツァほどの人が、俺なんかを選ぶわけがない。
「ん、どうした、シグ?」
「なんでもありません」
「そうか。なんだか顔色が悪いけど。だが、王都へは行かなければ。人々を恐慌に陥れた霊障は、俺の仕業ではないことも証明しなければならないからな」
「ヴァーツァ。ニンニクってある?」
「あるだろ。コックに聞いてみろ」
「少し貰っていい?」
「構わないが、ニンニクなんて持っていくな。トラドが困惑する」
そのトラドから身を守る為に、ニンニクが必要なのだが。だってヴァーツァが俺を手放したら、即座にトラドが吸血鬼一族へ勧誘に来る。
こんなに美しい人と、いつまでも一緒にいられるわけがないんだから。
立ち止り、ヴァーツァが俺の目を覗き込んだ。紫色の目が眩しい。
「来週、俺は王都テュイルへ行く。もちろん、君も一緒だ」
「なんで!」
当然俺は、家に帰るのだと思ってた。あのごみごみとした下町の長屋に。
「なんでって。俺がいる場所が君の居場所だ。それ以外の説明が必要か?」
説明ならたくさん必要な気がする。だが、ヴァーツァには解説する気はなさそうだ。彼は俺が一緒に王都へ来ると決めつけ、何の疑いも抱いていない。
「いや、でも、僕、ほら、そろそろ働かないと」
これ以上、ヴァーツァと一緒にいるのは危険だ。彼から離れられなくなりそうで怖い。彼の前で、醜態をさらしたくない。
「仕事?」
ヴァーツァが眉を吊り上げた。
「ラブレター書きか?」
「ラブレターの他も書いてます!」
脊髄で反射してからはっとした。
「なぜ知ってるの?」
「調べたから」
一片の疚しさもなく、さらっと言ってのけた。
「君に関することは、大方、調べておいた。貧乏長屋に住んでいることも、大家に可愛がられているのはいいが、その孫がやたら顔を出してくることも……全くけしからんことだ……、ちょくちょく訪れる友人の男がいることも。これはもう、許すことができん」
そのうちに、とか聞こえた。けれど、小声でぶつぶつ言っているので、最後の方はよく聞き取れなかった。
「ひどい。勝手に人のことを調べるなんて」
「なんで? 滞納していた家賃、払っといてやったぞ」
「ありがとうございます」
思わず礼を言ってしまう自分が悲しい。全て貧乏が悪いと思う。
ヴァーツァは嬉しそうだ。くふんと鼻を鳴らした。
「あんなボロ家、本当は解約しちまおうと思ったんだ。だって君は、俺のとこで暮らすんだから。でも君はあの部屋を随分気に入っているようだから、そのままにしておいてやった」
もっと感謝しろとばかりに胸を張る。
「でも僕は、貴方と暮らすわけにはいきません」
「なんで?」
「だって僕は、
四角ばって主張する。このくらいの虚勢は張らせてほしい。貴方と離れたくないなんて言えない。
ヴァーツァが首を傾げた。
「真逆でもないと思うぞ。悪霊を祓うか使うかの違いにすぎないだろ?」
言われて考えた。真逆でなくても、大分違うと思う。
「それに浄霊の方は開店休業状態だろ? 今の君の仕事は、ラブレターの代筆だ」
「公文書作成も請け負ってます!」
「なら、俺が雇おう」
「は?」
ヴァーツァがぽんと手を叩き、俺は呆気にとられた。
「王都に行けば、提出しなければならない書類が山ほどあるんだ。戦争の報告書もまだ出してないし」
「そりゃ、まずいですね」
アンリ陛下は几帳面な方だと聞く。報告が遅れたら怒るだろう。
わが意を得たりとばかり、ヴァーツァはにっこりと笑った。眩しい。
「君が書くんだ」
「え?」
頭がついていかない。ヴァーツァが一人で話を進める。
「そうと決まったら、早速書斎に戻ろう。特に、戦争の報告書は急がなくてはならない。なにしろ、もう一年もほったらかしにしてたわけだからな!」
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