第8話 ガラスの口づけ


 「誰?」


 前を向いたまま尋ねる。答えを聞くのが怖い。或いは、何も聞こえないことが。

 それに、答えならわかってる。ただ、これが正答だと認めることは難しい。


「君は俺を知っているだろう? ヴァーツァ・カルダンヌ。君の最愛の恋人だ」


「俺の最愛の恋人?」

我を忘れて振り返った。

「いったい、何の権利があってそんな風に名乗るんだ?」


 無理やり首を捻じ曲げ、そして気がついた。アメジストのように輝く紫色の二つの瞳が自分を見つめていることに。

 そうだ。今までこの人の瞳の色を知らなかった。だって死んだ男は、固く目を閉じていたから。


「君は、あんなに熱い眼差しで俺を見つめていたじゃないか。俺の髪に手を差し入れたいのだろう? 頬を撫で、抱きしめたいのだ」

「ち、違う!」


 反射的に否定した。

 音を立てて頬に血がのぼっていくのを感じる。


「君は俺に口づけをしたよな。ガラスにだけど」

「黙って! お願いだから!」


 全てバレてた? 俺の気持ちなんてお見通し?

 羞恥でどうにかなりそうだ。


「だってその通りだろう、シグモント・ボルティネ」

「どうして俺の名を?」


 恥ずかしさに身悶えしながら問うと、ヴァーツァは、目線で倒れ伏している強盗達を指し示した。口の端が歪み、おかしそうだ。


「君が彼らに名乗ったのを聞いていた」


 言いながら、腕の中の俺の身体をぐるりと回す。

 改めて顔と顔が向き合った。


 やっぱりこの男は美しい。だが、さっきまでとはがらりと印象が変わっている。生き生きとした眼の光は、静かな美しい男を別人のように変えてしまった。

 瑞々しい生命力と躍動感。今まさに生きているのだという、傲慢なまでの存在感。


 全然違う。瞳を閉じて棺に横たわっていた時と。

 静謐さは消え失せ、荘厳なまでの美しさは影を潜めた。代わって精彩に満ちた躍動感に満ち溢れている。


 かろうじて横目を使い、棺を確認した。

 台の上のガラスの柩の蓋は、大きく横にずらされていた。白い絹の褥には寝た後があり、濃厚な薔薇の香りが鼻を衝く。

 印象は変わったが、俺を抱きしめているこの男が、さっきまで中で横たわっていた死骸であったことは間違いない。


 ようやく呪文が効いたのだと思った。悪霊が死骸に帰ってきた。

 そうだった。この男は悪霊だ。


 ……杭!


 銀の杭は、台の下に落ちていた。

 俺は思いきり頭を上げ、ヴァーツァの顎に頭頂部をぶつけた。


「っ!」


 声なき悲鳴が聞こえた。そして俺の頭も痛かったけど、それどころではない。素早く銀の杭を拾い上げ、振りかざした。


「アイン イーヒィ アン アジン」

「何?」


 怪訝そうな表情をしている。自分に靡かない者はいないと思っているやつの、傲慢な顔だ。俺の最も苦手とするタイプ……の筈だ。


「アイン イーヒィ アン アジン、アイン イーヒィ アン アジン」

 必死で唱え続けた。……悪霊払いの聖なる呪文を。


「何を言っているのか全く理解できないが、せっかくこうして起き上がったのだ。君の願いを叶えてあげる。さっきはガラスに邪魔されてできなかったからな。さあ、続きをしよう」


 悪霊払いの呪文を浴びたにもかかわらず、ヴァーツァは消えるどころか揺らぎもしない。全然苦しそうじゃないし、それどころか俺に向かって手を差し伸べてきた。


「アイン イーヒィ アン アジン!」


 唱えつつ銀の杭を降り上げた。

 胸に。胸を狙うのだ。

 生き生きしていようが、生命感躍動感に満ち溢れていようが、俺は騙されない。悪霊は悪霊だ。

 恋とか愛とか……、いいや、俺はエクソシストだ。悪霊を祓い、生者の世界を守るのが、俺の役目だ。








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