第3話

 訪問者の表情は露骨に変わった。そこを間髪入れずにはるはつく。


「なぁ、何かあるんやろ?」

「はるさん…… そういう言い方は反則やで?」

「ほな、何かあるんやな」


 んー、と訪問者はからん、と皿の上にスプーンを置き、腕組みをする。


「あると言や、あるんやけど」

「言うてくれひんの」


 すかさず彼は問う。ああ可哀相に、と思わずこの訪問者が苦手な彼ですら思ってしまう。こういう言われ方をして、この人物が黙ったままでは居られるはずがないのだ。

 だが彼自身は、とりあえず構わずにライスカレーを口に運ぶ。

 確かにそうそう食べられるものではない。人間の生気も美味いが、このライスカレーも捨てたもんではない。それに、はるはこれを作る時には妙に凝るのだ。なので滅多には作らない。そういう滅多にない事態を、むざむざ逃がす手はなかった。


「なぁてっちゃん。俺聞きたいんやけど」


 詰めに入っている、と彼は思った。 ひどく困ったような顔ではあるが、ちらりと訪問者は視線をはるの方へと向けた。


「なぁはるさん、他言無用やで? まだネタの段階なんや」

「そら無論。俺がいつてっちゃんとの約束破った?」


 ……数知れない、とライスカレーを口にしながら彼は思ったが、無論それは、言葉にはしない。


「あちこち」


 そして再び、訪問者もカレーに口をつける。


「実はなあ、結構最近、そうゆう話をあちこちで聞くんや」

「それもこの東京だけやなくてな、全国津々浦々なんや」

「へえ」


 感心したようにはるはうなづく。


「それもなぁ、何っか脈絡が無くってなぁ…… 何か伝奇的な要素とか、宗教がどうのとか、そうゆうがあるなら、その線から記事にしても面白いなぁ、と俺も編集長に相談したんやけど」

「やけど?」

「どぉもそのあたりで一つ、これ、っていう決めが無いんや」

「その辺りは曖昧にして出すのがカストリの王道やないか?」

「はるさんもうカストリの時代はほとんど終わったんやで? あん頃のざらざらした紙に、裏に広告四本も載せなくちゃなんない程紙が無い時代やないし」

「そらま、そぉやな。てっちゃんのとこは『猟奇』や『りべらる』よっか『ホーム』や『ロマンス』に近い感じやったっけ」

「あんたそんなんまで読んでたんかい。うちのは違うで。も少し、真実を…」

「ああ、『實話』とかそっちかいな」


 もう少し「堅い」 雑誌の名を出してはるはそのあたりを締めくくる。まあそおやけど、と訪問者はややふてくされた表情になる。

 そしてぶつぶつと口の中で、色んな雑誌を一緒にせんで欲しいなあとかつぶやく。

 訪問者のそういう所を見ると、彼もまた、スプーンをくわえながら、実に面白いなあ、と思えたりするのだが、それはそれこれはこれである。


「で、例えばどうゆうのがあんねん?」

「例えば、仙台で、踏切近くの巨大な石に亀の化け物が出たとか、名古屋で多数の人が、巨大なうなぎの化け物を見たとか……今のとこ、東京ではあまり大きなことは聞かへんけどな」


 ふうん、とはるはやや目を細める。


「仙台、名古屋 てっちゃんそれって、もしかして、関西方面の方が多くないか?」

「あれ、よく判ったなぁ」


 判った、ね。彼は皿に残ったごはんつぶがなかなか上手くスプーンで取れないのに格闘しながら思う。


「なあ」

「そぉそぉ。確かに関西や。うちの辺りも結構そのへんやし、今度一回取材兼ねて帰ろかな、とか思うてるんやけど」


 そぉやな、とはるはうなづく。


「何、またはるさん、何かに足突っ込んでるの?」

「足突っ込んでるって。人聞きが悪いで、てっちゃん」


 ええけどな、と言って再び訪問者はスプーンを口に運ぶ。仕方ないな、と言いたげな表情は、だけど、この旧友が言い出したら聞かないことを知っているようだった。

 彼ははるがこの訪問者と同じ学校だった、という時のことははる自身からは聞いたことがない。それに、何かいつも、この訪問者の語る「その頃」のはるの姿は、自分の知るこの綺麗で意地悪な、でも人間じゃない奴とは別の者のように聞こえて仕方がなかったのだ。

 それが彼のこの訪問者が苦手な理由だった。


「ま、言うてもぅたからな。何か心当たりがあるなら、俺にも何か言うてくれや? でないと割があわへんで」

「いつも悪いなぁ」


 そしてにこやかに笑う。穏やかで、そこには自分に見せるような、意地悪で楽しげな表情は無い。


「はるさんのライスカレーを久しぶりに食べられただけでよしとしよか」


 その後はその話は食事の中には出ず、はるが「てっちゃん」と呼ぶ訪問者は明日も仕事があるから、とさっさと切り上げて行った。

 勢いよく出る水が、人造石の切り出しの流しに跳ねる。彼はその水しぶきをうまく避けながら皿を洗わされていた。

 俺作る人、お前洗う人、というのがはるの言だが、まあ仕方ないだろう、と彼は大人しく、傍らに湧かした湯を使って、亀の子タワシで汚れを洗い流す。


「なあ」


 彼は土間と座敷の境にある段差に腰掛け、柱にもたれるはるに向かって、後ろ向きのまま声を投げる。何や、とんは面倒くさそうに答えた。さっきまでの客への愛想いい態度とはうって変わって、何やら実に機嫌がかたむき始めているようだった。


「あれだけでお前、何か判ったのか?」

「まぁな」


 低い声が、短く答える。


「そぉやったわ。蛾が蛾の形しとるからなあ……」


 そして何やら、意味不明のことを言う。


「俺にも判るように言えよ」

「あん?」


 かた、と土間を降りる気配がした。すのこを渡ってくる気配がする。彼はだがまだ手を放せない。手は石鹸の泡だらけである。

 背後に嫌な予感を覚える。

 だが、意外にも、ちらりと振り向いた視線の先のはるは両手を袖に突っ込んだまま、難しい顔をして、黙り込んでいる。そして冷蔵庫に背をもたれさせると、軽く右の親指の爪を噛んでいる。

 珍しいことだ、と彼は思うが、とにかく作業だけは終わらせないと、と水で流した皿を湯につけ、ざっとそれを素手で取り出す。どうもこの作業がはるは好きではないから自分にやらせるらしい。熱湯につければ殺菌になるし早く乾くし、と言いつつきゅ、とさらしのふきんで彼は皿を拭き、棚に置く。

 そして何とか無事に済んだ、と思って背後を振り向くと、まだはるは難しい顔をしたままだった。

 手をふきながら彼が声をかけると、はっとして顔を上げる。

 本当に珍しいこともあるものだ、と彼は思った。


「終わったぜ?」

「ああ。ちゃんと拭いたか?」


 ああ、と答えてから、彼はゆっくりと氷冷蔵庫にもたれたままのはるに近づいた。


「蛾や」


 ちょい、とはるは指招きすると、彼の頬を指で挟む。だが彼はいつもと違って動じない。つまらん、と言いたげには手をぱっと離す。

 彼は腕を伸ばし、冷蔵庫の氷を入れる段の扉に手をつく。そして相手の顔をのぞき込む。はるは不機嫌そうな顔のまま、しばらく無言でその視線を合わせていたが、やがて口を開いた。


「封じた時は、卵やったんや」

「峨の卵?」


 彼は目を丸くする。するとはるは言葉が足りなかったのにすぐ気付いてか、補足する。


「お前新聞読んでるわりにものを覚えんな? 蛾は完全変態やから、卵で幼虫でさなぎで成虫になるんや」

「いやそういうことを聞いてるんじゃなく……」

「だから、俺がアレを封じた時には、まだ卵やったんや」


 は? とさすがに彼は口を閉じるのも忘れた。濃い眉が、寄せられたまま、戻ろうとしない。はるはそんな彼に構わず、ふっと視線を天井に上げる。裸電球の透明な光が、そこには広がっている。


「どのくらい前やったかな。俺がこの国に来た頃やから……」


 はるは指を折って数えだし……やがて、手を握りしめた。


「とにかく、結構前や。お前を見付けるずっと前で…… ここに来るずっと前や。ちょうどその頃、あちこちでみょーなものが居ってなあ」


 その妙なものが何であるのか、どうにも彼は聞くのが怖いような気がしていた。背中がむずむずする。


「別に俺はどぉでも良かったんやけど…… 何や知らんが、俺に襲いかかってきたからなぁ」

「ちょっと待て、じゃあそれは」

「妖ではあったんやけどなぁ。まだ俺も若かったから、その頃はちゃんと退治する方法知らんくてなぁ……」


 首を傾げて、腕を組む。ん?とふと彼もまた別の意味で首をかしげる。


「で、とりあえずその妖の時間を戻して卵にまで戻して、ついでにそこいらにあった掛け軸に封じ込めたんやけど……」

「は」

「まさか、掛け軸の中で孵化して育ってしまったとはなぁ……とすると、何をあれは喰ってきたんやろ」


 独り言の様に、はるはつぶやく。


「そういや、お前さっきてっちゃんの言ったこと覚えてるか?」

「え? 奴が? 何なに」

「ああ」


 とっさに問われて、彼は戸惑う。あの訪問者が言ったこと……

 饒舌な訪問者の言ったことなど、多すぎてなかなか判らない。


「ほれ、あちこちで起こった事件のことや」


 そう言えば、その話は終わり、と一応打ち切った後にも、訪問者は食事の間に間に、無意識だろうか、口が軽いのだろうか、そのことについて喋っていた。

 あれは確か。


「……確か、その妙な化け物の出た家は、元々あまり運が良くなかったとか…」

「そぉや。病気がちの家系だったり、事故が続いたり……厄介やな……」

「どういう意味なんだ?」

「痛ーっ!!」

「鈍い」


 ばこん、と彼は自分の頭が音を立てるのに気付く。


「どうせ鈍いよっ!だからどういう意味なんだよっ」

「だから、奴らは、それを持った家の運を喰うんや」


 は、と彼は再び口を閉じるのを忘れた。だけど。だって。


「だからなー…しょーもないなー…蒔いてもおた種は刈らんと」

「阿呆か」


 判らない。


「だけどお前、俺は閉じこめなかったじゃないか」


 はるはそう言って彼の頭を抱え込み、唇を重ねた。

 む、と彼の喉から声が漏れる。

 だいたいこういう行為にどういう意味があるのかさえ、彼には判らない。

 尤もそう思っているのは判ったのか、はるは軽く何度か繰り返した後、一度深くそれを重ねた。彼はやや苦しそうに目を細めた。

 かたん、と足を乗せていたすのこが平衡を崩して音を立てた。

 どのくらいそうしていただろうか? 離れると、はるはこんなことを言う。


「お前の生気は美味いからなあ」


 こういうところが、人間じゃない、と彼は思うのだ。



 ……さて。

 この「人間じゃねえ!」 二人が、果たして仲がいいのかどうなのか本人達にもさっぱり判ってるのかどうか判らない行為を繰り返している頃、ふらり、と庭先に忍び込む影があった。

 やや伸びかけた髪の毛は、月影にも確実に数日、櫛を入れた様子は見られない。あまり大きくはない目、丸顔で童顔、だが長身である。そしてやや痩せている。

 元は白かったのだろう、洗濯板の上でごしごしと洗濯と洗濯と洗濯を繰り返したようなシャツに、色のあせたジャンパー、そして所々が擦れて光っているようなズボン。やや足首が見えている。

 侵入者はそっと入り込んだにも関わらず、この家の庭の木々に一瞬見とれる。それは月の光と、奥の部屋から漏れてくる灯りの両方に透けて、ひどく綺麗だった。

 穏やかな夜だった。月の光の透明な色はあたりを冷たく、だが静かに包んでいる。風はない。凪いでいる。あたりに落ちた木の葉が揺れる気配すらない。

 さて、と侵入者はそうっと靴を脱いで、縁側へと上がり込んだ。

 この侵入者が、その様子を見たのは、昼間だった。

 朝はいつもの朝だった。だが、授業のある昼過ぎ、本を抱え、いつものように大学へと向かおうとして上着に手を通すと、ポケットが軽いことに気付いた。

 慌ててその中に入っているはずの財布を取り出し、ふたを開けて振ってみる。……出てくるのは、ほこりばかりだった。

 嗚呼! と悲嘆したところで始まらない。勤勉なる学生たるこの侵入者は、いつもだったら都電に乗るところを、徒歩で行くことにした。

 穏やかな日だったのが幸いした。そうなると、いつもは使わないが、たまには通ってみよう、と狙いを定めていた道へと足も向く。

 と。ふと道を、着流しの、自分よりやや年かさに見える青年が通って行った。今時、こんな時期に珍しい格好を、と思いながらその青年が出てきた店に目をやる。 焼き板に太い筆で右から左に「雪広屋」と書かれた看板が、その入り口に掛かっている。店構え自体は戦後出来たものなのだろうか、新しいものだったが、どうやら看板はずいぶんと昔からのものらしい。

 よく見ると、ショウウインドウに、日替わりなのだろうか。

 茶碗と生け花が飾られている。ちらり、と視線をそこから店先に移すと、薄暗いその中には、何やら色々と物が置かれていた。

 大きな像も見えるし、また、その奥には額縁に入った絵もあるらしい。

 骨董屋だ、と学生は思う。

 こんなところにあったのか、と今更のように学生は感心した。

 そして着流しの青年は、何かを手にしたまま、とことこと道を進んでいく。学生は何処まで行くのだろう、と思いながら、つい授業に遅刻するということも忘れ、着いて行ってしまう。

 尤も、この日どうしても行かなくてはならないのは一単位しかないのだが……

 やがて視界に、大きな桜の樹が飛び込んできた。

 理系の学生は、思わずぼう、とその樹を見上げていた。それは彼が見た中でも大きな方だった。学校の桜は、たくさんはあるが、一本の大きさがこれだけのものはない。きっと春になれば、大きく高く手を広げたこれらの枝は、空を覆い尽くすよう

 に花を咲かせることだろう。

 想像して、このロマンティストな理系の学生は、一瞬ほう、とため息をつく。

 と。ふと学生は、追いかけていた相手の姿を見失っていたことに気がついた。だが道はまだ途切れる所も曲がるところもなく長く真っ直ぐに続いている。

 すると。学生は理系の頭で推理する。理系の学生は、物事を樹形図的に考える訓練ができている。AだからB。BだからC…… だからあの着流しの青年は、この家に入って行ったのだろう。

 ちょいとごめんよ、とその足はふらりと門の中に入り込んでいた。静かだった。騒ぎ立てる犬の姿もない。

 入り込んでみると、割合その中は雑多としていた。

 木のそばに雑草は無造作に生い茂り、特に刈ろうとしている様子もない。生えるにまかせ、枯れにまかせようとしているようだった。

 ふと、話し声がした。その方向を見ると、石造りの蔵がそこにはあった。

 蔵と言っても、さほど大きな訳ではない。 明治か大正か……とにかく御一新後に作られたのであろう。ややハイカラな趣味の洋館めいた蔵がそこにはあった。

 屋根は瓦葺きなのだが、壁の石と、窓についた曲線めいた格子が、その作られた時代を物語っているかのようだった。

 やがて、その蔵の中から人が出てきたので学生はさっと樹の陰に身を隠した。三人だろうか。

 一人はつけてきた青年。そしてそれより小柄な、何処か日本人離れした顔立ちの端正な……青年だろう。おそらく。そしてもう一人は、そろそろ朝晩は冷えるというのに、物好きにも袖無しに裸足の、いい身体をした青年。 何だろう、と学生は思う。

 何やら好奇心は火がついてしまったらしく、どうもこの学生は、自分が見知らぬ人をつけて、さらには不法侵入をしているという意識が薄れてしまったらしい。

 彼らは縁側に陣取り、茶など飲みながら、何やら話をしている。どうやらあの青年が持ち込んだのは掛け軸らしい。この家の主らしい小柄な青年は、それをわざわざ日陰に持ち出して見ている。慣れているようだ。

 だがその話の中身ときたら。

 どうやら曰く付きらしい。そしてどうも、この持ち込んだ骨董屋の青年は、にこやかに、だが手放したがっているようにも見える。

 学生は、ふと自分の中で、むくむくと出来心がわき上がるのを感じた。

 手放したがってるものだったら、もしかしたら、無くなったとしても、笑って済ませるのではなかろうか?

 ポケットの中の財布はカラ。あいにく故郷の関西からの仕送りは、もう少し後だ。ねーさんの結婚式も済ませたばかりだし、そうそう電報で「カネタノム」と送る訳にはいかない。かと言って、今すぐバイトをしたところで、手に入るのはまた後だ……

 とりあえず、あれを質草にできないだろうか。

 学生の出来心は、やがて形を取り始める。樹形図的思考が、ああしてこうして、と枝をめぐらせ始める。

 まあそうは言ったところで、結局は行き当たりばったりなのだが。

 夜の静かな空気の中、みし、と縁側の張り板が、微かな音を立てた。

 それは案外たやすく見つかった。

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