第2話

 何処まで引っ張るつもりだ、と彼は一つ二つと開けられ閉ざされる障子を眺めながら、引っ張られるままに、この広い屋敷の奥まで連れて行かれる。

 あかり取りの窓以外、外界に通じる場所はないような奥の座敷の障子を閉めると、はるはくるりと彼の方を向き、にやりと笑った。


「な、何だよ」

「何だよやないで」


 笑みとは言え、いつになく、厳しい表情がはるの上にはあった。

 そしてそのまま、立ちすくんだままの彼の前にはるはゆっくりと進みよる。

 くっ、とあごを持ち上げ、はるは笑みを満面にたたえたまま、彼を見上げ、視線を無理矢理にも合わさせる。どうしても、この視線からは逃げられない。自分のことも相手のこともあまり知らない彼だが、それだけはよく知っていた。


「言うてみ。 あん人にお前何して見せた?」

「あん人?」

「隣の隣の隣の山田さんや」

「へ? 別に何も」


 すかさずびしゃ、と何かが音を立てた。 いて、と彼は自分の額を押さえる。


「嘘つくな」


 そして相手は彼にぐっと近づく。


「嘘なんて…… だいたい俺、あの人のこと知らないぞ?」

「ふん。お前が知らんでも、お前に隙があったかもしれん」

「俺に隙? ある訳ないだろ!」

「そぉかな?」


 避ける間も無かった。

 尤も、判っていても避けることはないだろう。

 はるの両の手がすっと彼の頭に伸びると、ぐっとそれは押さえ込まれるように下を向かせられる。次の瞬間、はるの唇が彼のそれを塞いでいた。

 む、と声を喉の奥から出すのは一瞬である。差し込まれる舌の柔らかな、ただそれだけの生き物であるような動きが自分の中で起こった時、彼の頭の中に小さな爆発が起こった。

 唇を離した相手は、やや呆れたように、腕を回し、彼の背にあるものにさわさわと触れている。

 それは羽根だった。確かに羽根でしかない。どう勘違いして見ても、羽根以外の何物でもなかった。

 形は蝙蝠のものと似ているだろうか。折り畳めば畳めてしまうような骨組みを取っているようにも見える。

 だがそこについていたのは、蝙蝠のような表皮の延長線ではなく、鳥の持つそれだった。鷲や鷹を思わせる、大きな、黒い羽根が、その表面をびっしりと覆っていた。普段は何処に隠されていたのだろうか、広い座敷にも関わらず、それはその部屋のかなりの部分にまで広がっていた。


「誰に隙が無いって?」

「……」

「だぁれが俺以外にお前のこんな姿、見せていいなんて言った?」

「……」

「こぉんなに大きくしてもってなぁ」


 そしてまた、やや上目づかいに、はるは彼を見上げる。こうなってしまってはたまらない。

 彼は誘われるままに、相手を抱きすくめ、そのまま畳の上に転がった。


「したいのは自分のくせに……」

「何か言いたいことあるんか?」


 無いです、とまだ何やら広がりたがっている羽根をいじる相手に向かって、彼は消え入りそうな声で言った。

 …ややあって。

 広げたまま、しまうことも忘れた黒い羽根にも力を無くし、両手両足もだらんと伸ばし、ぐったりとうつ伏せになりながら彼ははぁぁぁぁ、と大きくため息をついた。

 全くよお、と彼はつぶやきそうになる。

 だが、そのつぶやきを、彼のその羽根の下からのそのそと起きあがっては、何ごとも無かったような顔で煙管に手を伸ばす。

 奴に聞かれてはたまらない。これ以上何をされるか判らない。

 いや別に先刻までのことが気持ち良くないとかそういう訳ではない。ないのだが。

 着物の乱れも直さぬまま、まだやや上気したまま煙管をくわえ、紫煙をくゆらすその姿は、黙っていれば、あの土蔵にあった絵と同じくらい、いや動かない絵なんかよりずっと美味しそうに見えるのだ。

 なのに。

 ……そもそも出会い方がいけない、と彼はあまり多くない記憶を整理する。

 出会ったのは、幾つか前の春だった。

 と言うか、彼の記憶はそこから始まっていると言ってもいい。

 それより以前にも確かに自分は存在していた、と思うのだが、それ以前の記憶が、霧でもかかったようにひどく曖昧なのだ。

 何処かから自分は飛び出してきたのだ。そして桜の樹の下で、この年齢不詳の美人な若年寄と出会って、本能がどう知らせたのか、襲いかかったら、どうやら返り討ちにあったらしい。

 それもはるがそう言うからそう思うだけで、果たして自分が本当に「襲いかかった」のかも、彼にはよく判らない。まあ単純に、人間の生気を食いたかったのだ、と考えればそれはそれであり得ることだった。

 彼の記憶が鮮明になるのは、春先の薄墨色の空の下、まだ肌い風が花びらを散らすこの家の庭先からだった。

 自分に巻き付くその白い細い腕と、背筋が寒くなる程、目だけが笑っていない笑顔。 その相手の部分が接触し、自分の中に入り込んだり、自分の部分が相手の中に入り込んだ時、身体の中の何かが逆流した。背中についてはいたが、閉じていた羽根が、大きく広がった。

 飛ぶための、羽根だ、と奇妙にその時認識した。

 だがそのかわり、どういう具合か、それまで彼が取っていた形は、一見人間に見えるようなものに変わっていた。

 変わったのだ、と彼は思う。自分の元の姿は鏡で見たことが無いから判らないのだが。

 羽根と尻尾くらいは頻繁に出るが、それ以外の部分は、よほど意識しない限り、元の姿に戻ろうとしないようである。

 そして白い細い腕の持ち主は、今度は目にも極上の笑みを浮かべて、彼を呼ぶ名前をつけた。桜の樹の下で俺はお前を拾ったからお前の名はさくらだ。

 安直だ、と彼は思った。だが本当の名が思い出せない以上、それを駄目だという理由もなかった。駄目だと言ったら最後、果たして自分がこの相手にどうされるか判らない。

 そしてずるずると、それから幾つかの春を過ごしている。ずるずると、何故かこんな関係が続いている。

 こいつは一体何者だ、とさすがに彼も思わなくもない。だいたい妖が単純に見えるだけでも普通ではないのに、それと住んで、こんなことまでしている。おまけに未だに彼はこの相手が何歳なのかも知らなかった。少なくとも、人間ではないとは思う。だが、妖の気配はしない。

 だから何かひどく、困る。何が困るのか、彼自身よく理解できないのだが、ひどく、困る。

 とりあえずは、彼はこう切り出してみる。


「あの掛け軸だけどさ」

「ん? 何か気になるんか?」


 はるは何やら満足げな笑顔をたたえつつ、ふっと煙を吐き出した。


「あれをどうするつもりだ? 何かお前、気に入ってるみたいだけど」

「んー…… 何か面白いと思ってな」


 あれがか? と彼は眉を強く寄せ、ゆっくりと上体を起こす。

 羽根もまたざっ、と彼の動きにつれて動いた。


「あのまま預かったままにしておくのか?」

「何、お前嫌なん?」

「嫌と言うか何と言うか……」

「やったら俺の言うことに文句つけるんやないで」


 はるはことん、と音をさせて煙管を台に置く。そして半分起きあがったはいいが、まだ脱力状態の彼の頭を抱え込むと、頬やら額やら首筋やらを実に楽しそうについばむ。何だかなあ、と思いつつ、彼はそれを素直に受けていた。


「で、どのへんがお前、気に入ったんだ?」

「あん? あの何かなー、ふかふかしてそうやん。羽根とか」

「お前そりゃ燐粉……」

「触角もええで? ぼわぼわしてなー。何か猫じゃらしみたいやん」


 そう言うはるの手の中に、不意に「緑色のぼわぼわ」が出現した。ああこいつまた「引き寄せ」たな、と彼は思う。

 はるはそれで彼のまだぐったりしている黒い羽根をぼわぼわと撫でた。


「ちょ、ちょっと止めろよ…」

「感じるんやなーこんなとこも」

「ったりめーだっ!!神経通ってるんだっ…… おいやめろって」

「切ったら痛い?」


 無造作なその問いに彼はふと身構えた。


「な、何考えてる?」

「いや別にー」


 だったらその笑顔はよせ、と彼は無意識に身体がひくのを覚えた。


「ま、切ったら後が面倒やし、勘弁しとこか」


 だからそうにこやかな顔で言うなよ、と言いたかったが、さすがに彼には言えなかった。

 そしてああもう好きにして、と相手の手の中の猫じゃらしが自分を思う存分なで回すのを彼は眺める。

 だがそれにもやがて飽きたのか、ぽい、とはるはそれを投げた。

 猫じゃらしはそのまま何処かへ飛んでいったらしく、座敷のどこかに落ちた気配も無い。


「だってなあ。同じ匂いがするやん」


 不意にはるは言った。ああ掛け軸の話の続きか、と彼も頭を抱え込まれながら気付いた。


「何の匂いだって言うんだよ」

「出所に決まってるやん。お前俺が判ってへんと思うたんか?」


 何だ判ってたのか、と彼はようやく力が回復してきたのを確認すると、相手の身体を軽く押しのけた。


「だいたいあいつは何だよ?」

「あいつ? ああ隣の隣の隣の山田さん」

「あんなの、手に入るなんて、確かに骨董商だって言うけどさ…… お前のとこに預けようなんて、ただ者じゃないだろ」

「お前人のこと言えるの?」


 どっちがだ、と彼は思う。

 見られてはいた。それは知っている。だがそれは羽根を出したところではない。この相手と出会ってから普段はずっと取っている人間の形で、だ。

 広い庭の中でも、隣家に面したあたりには夾竹桃の木が植えてある。ちょうどその花が盛りの頃で、彼は近くの槙の木の実を口にしながら、その赤い花と白い花を何気なく見比べていた時だった。

 隣家の住人と話をしている着流しの姿が、そこにはあった。

 話をしながらも、さりげなくこちらを伺っていた。

 彼がこの場に出現した時にはまだこの隣の隣の隣の山田青年はいなかった。


「ま、たまには居る類やろ」


 再びはるは煙管を手に取った。彼もまた、解放された手で、髪を煩そうにかき上げる。相手はようやく着物の前を合わせ始めた。何やらひどく満足そうな顔は、やはり実に美味しそうだ。

 食ってやりたい、ときっとあの時自分は感じたのだ、と彼は思う。だから、とっさに飛びかかったのだと。

 それは生気でもあり、肉体そのものに対してとも言える。全身から生気を吸い取りたいと考えたのかもしれないし、この白く小さく柔らかそうな身体を頭から貪り食ってやりたいと考えたのかもしれない。

 だが実際はこの様だった。捕らえたと思ったら、結局は捕らえられたのは自分の方だった。

 確かに何やら訳の判らない行為にふけっている間、心地よいのは事実なのだが、その反面、何やら自分が生気を取られているような気もしなくはない。

 そういう時、確かにこいつは人間じゃねえな、と彼は考えずにはいられないのだ。だがあまりそういう奴があちこちに居るのは勘弁してほしかった。


「たまに居る類?」

「何か?」


 そして彼はとりあえず訊ねてみる。


「目が悪いけど、何か見える奴」

「まあ俺にも今さっきは別にお前の羽根は見えんかったからなあ。見えたんやろ。きっとあん人には」

「ちょっと待て」


 何や?と問いながら、彼の反論が来る前にはるの両手は彼の両頬を掴んでいた。


「へっほうほひうな、かのほっぺた」

「あにやってるんやにやーっ!!」


 少なくとも、煙管をくわえた口と、ほっぺたを掴まれた口で会話をするものではない。

 さすがにその状態だと自分も話ができないということを悟ったのか、はるは手を離した。


「あんだよ」

「何にしろ、あれが出たとゆうことはなあ…」


 頬をさすりながら彼は訊ねる。


「あかんなぁ……」

「何だよお前、実はお前があれに心当たりがあるって言うのか?」

「まあな」


 しれっとした口調ではるは言った。


「そうすると、奴にちょっと聞いてみんとなぁ……」

「奴って…… 奴?」

「そぉ。奴や」


 言いながら、ちゃっちゃと着物の前は合わされ、帯も巻かれていく。何となくその帯を一気に解いてやりたいような衝動に彼はかられた。


「俺ちょっと奴は苦手なんだけど」

「そらまあ、お前は奴は苦手やろな」

「判るのか?」

「そらまな。だって奴は俺のこと好きやもん」


 どう関係があるんだ、と言いたかったが、さすがにそれを言うのは止した。間違いではないのだ。



 玄関の扉ががらりと音を立てて開いたのは、それから数時間後だった。


「こーんにちはーっ」


 度を越した明るい声が、玄関の土間に響く。


「もし、もーし! 誰もいないんですかあっ!!」


 出たくない、と彼は思った。が。背後でアルマイトのお玉を振り回し、たすき掛けなんぞして厨房に立っている奴が、お前が出ろと言うから仕方がない。


「よぉあんたか」

「お、相変わらず口が悪いなぁ」


 ポケットに手を突っ込んだまま、にこやかに、実ににこやかにその訪問者は彼に向かって話しかけた。その口から漏れる言葉には、はると何処となく通じる関西のなまりがある。


「何やってんねん! 上がってもらわんか! 俺が呼んだんや!」

「や、はるさん久しぶり。相変わらず綺麗やね」

「相変わらず口がへらんなあ、てっちゃん」


 厨房の大きなのれんから顔を出してはるが怒鳴る。彼は肩をすくめると、苦い顔になりながらも、こっち、と訪問者を手招きした。

 訪問者は勧められもしないうちから勝手知ったる、とばかりに居間へと進むと、座布団を引き出して座卓のそばに置き、その上に胡座をかいた。彼もまた、部屋の隅の柱にもたれて、大きく足を投げ出した。

 てっちゃんと呼ばれたこの訪問者が哲ちゃんなのか鉄ちゃんなのか徹ちゃんなのか、彼は知らない。ただいつもそう呼んでいるから、そういう名なのだろう、と何となく思っている。

 名前なんてものは曖昧なものだった。自分がそうだったように、そう呼ばれたら、そうなんだろう、と彼はつい思ってしまう。


「おい座ってないでちゃっちゃと働かんかい!」


 はるの声が飛ぶ。彼は慌ててその場を立つ。

 ボロ布を裂いて編んだ鍋敷きが座卓の真ん中に置かれ、その上にまた大きな鍋が置かれた。そして大きな皿が三つ。よ、と彼はその脇におひつを下ろした。よし、とはるは言うと、それを開け、もわりと立つ湯気に満足げに笑みを浮かべた。


「や、何か久しぶりやな、はるさんのライスカレーも」


 ふふん、とはるはそう言う訪問者に笑みのまま顔を向けた。訪問者はいつの間にか、帽子を取り上着を取り、ネクタイを緩めていた。


「昔はよく台所借りてやりましたよなぁ……ああ懐かしき学生時代よ」


 この訪問者がはるの学生時代の友人だったらしい、ということは、来るたびに漏らすこういう一言で知れるというものである。


「ああ…… 懐かしいよね」


 だがはるは案外その話には乗らない。それに気付いているのかいないのか、訪問者はその手の話題を来るたびに振る。何やらまだ戦争が始まるかどうか、というあたりの旧制の高等学校で、同じ寄宿舎に暮らした仲間、ということらしい。言葉が言葉だけに、同郷と思ったのだろうか。

 終戦の年、二十歳だったということだが、理系の大学に籍を置いていたということで、徴兵からは逃れたらしい。なのに、現在ときたら、理系とは全く縁もゆかりも無いような、雑誌の記者をしているという。

 彼も時々、はるが暇つぶしに見ているその訪問者の在籍している出版社の雑誌を見ることがある。わざわざ買ってきたのか、とはるに訊ねると、律儀にも毎月きちんと送ってくるのだという。

 何だかなあ、と彼は思わずにはいられない。


「それではるさん、俺に聞きたいことって何やの?」


 スプーンを口に運びながら、時々その熱さに四苦八苦しながら、訪問者ははるに訊ねる。


「んー。てっちゃんやっぱ記者だし事件に詳しいやろ?」

「事件事件って言いましても色々あるけど」


 スプーンを止め、何かあったの? と言いたげな視線で、訪問者ははるを見る。


「んーまあ。ちょっとした疑問があってなぁ。……何か最近、全国各地で、妙なことって起きてない?」

「その言い方、ずいぶんと抽象的やないか?」

「そらまあそぉだな」

「も少し具体的に言ってくれへんか?」

「あーじゃあ、絵の中のばけもんが飛び出したとか」


 さらり、とはるは言った。聞き流してしまいそうな口調だった。

 だがその時、訪問者の表情は露骨に変わった。

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