Octet 4 スプリンター
palomino4th
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虫だ、と思った。
ごくわずかな箇所に、鋭い痛みが右手の中指に走り、真島は手を引っ込めた。
それからたった今自分が手を置いて滑らせていた木製の手すりを見て、表面が壊れているのを知った。
庁舎の古い棟の、奥に配置されている階段の手すりはもう二、三〇年はそのままだが、現在同じ敷地の真横の新しい棟の完成と共に全ての部署が移動し旧棟は取り壊しになる予定なので、補修などもストップしている。
真島は自分の右手を顔の前で広げ、中指の先をじっと見ながら、棘になり刺さった木のささくれを引き抜いた。
それから手摺の表面を改めて見直した。
そこに何かが打ち付けられたものか、木材の繊維が逆立ち、そこを掴みながら昇っている最中に刺さってしまった。
真島は暗い憎悪の眼差しでそれを見て、それからそのまま……誰にも教えず……階段を昇り去った。
4階フロアーに上がり、地域振興課の自分のデスクに座り、午後からの業務を始めた。
が、ペンを持った右手、中指に明らかに違和感があった。
ペンを置き指を見た。
さっき木のささくれを取り除いた箇所が赤い円になったいる。
真島はじっと見て、皮の下に小さな黒い点を見つけた。
皮膚を突き破った先端はそのまま奥に潜り込んで残っていた。
単なる痛みではなく、指先の神経の繊細さ故なのか、不快さは大きい。
目で見れば些細な腫れなのに、厭な痛みは膨らみ、果実の種が入り込んでいるかのように思えた。
デスクの引き出しを開けカッターナイフを掴み刃を出した。
「真島さん何してるんですか」
隣のデスクの矢部が声をかけてきた。
エキセントリックな真島は職場では文字通り変わり者扱いで、同僚との付き合いもない。
仲が良いわけではないので、矢部にしても話しかけることは滅多に無いのだが、目前の様子のおかしさはさすがに見かねた。
「棘が。刺さった」
真島はそれだけ答えると、赤くなっている中指の腹に刃先を滑らせた。
薄く、皮膚の表面だけが切れたが、痛みの元には届かない。
「いやいや真島さん、よしてください。見てるこっちがたまらない」
矢部は自分のデスクの引き出しを開けて探ると、ピンセットを取り、ズボンのポケットから小銭入れを出し五円硬貨を摘んだ。
「この穴です。棘のありそうなあたりにギュって押し付けて。肉が盛り上がって棘も飛び出してくるんで、それをピンセットで摘むんです」
真島はカッターを置き、受け取った五円硬貨を人差指と薬指で挟み言われた通りに中指に押し付けてみた。
穴の中央で真っ赤になった指の腹が盛り上がり、黒い点がくっきりと見えた。
ピンセットでなんとか摘もうとしたが、左手に持っているのでなかなか上手く使えない。
しばらくやっていたが取り除けたわけでもないのに黒い点が見つからなくなった。
「どうです」
矢部に訊かれたが、真島は首を傾げた。
「ダメです」
礼も言わずにピンセットと硬貨を返され矢部はやや気分を害して睨んだが、元から親しい相手ではないと放っておくことにして自分の仕事に戻った。
真島も一旦中断し業務に戻ったが、気のせいか鈍痛が指の奥に潜り込んでいったように思えた。
不快な痛みは収まるどころか指そのものに広がっていった。
木のささくれの棘にすぎないものが自分の体内を、まるで声明を持って深く食い込んできたかのようだった。
真島はルーペで中指をじっと見たが、既に棘の痕跡が見つからなくなっている。
替わりに、奇妙な痛みは腕から肩にかけて広がっていた。
明らかに移動してる。
あり得ない。
真島はたまらずにうめいた。
終業時には痛みは胸の中央にきていた。
真島は帰路について駅の構内に入ったが、頭とは別に、馴染みないプラットフォームに足が向かった。
彼の自宅とは別の行先だ。
身体が麻痺しているわけでは無いのに、真島の意思で動かすことができなくなっていた。
夜間診療のある病院に行かないと、とは思ったが、彼の足はそれとは無関係な号線へと歩き、到着した電車に乗り込んだ。
私鉄沿線の駅で降りると、別人の意思で彼の身体は歩き、構内を出て暗い中、誰もいない更地の続く土地を歩いて行った。
その先の、開発があるのかどうか判然としないまま放置されたような場所を延々と歩き、舗装されてない土地に入った。
中頃まで来ると彼の身体は止まった。
周りには何もなく見ている者もない。
痛みは胸の中央を核にして全身に満ちていた。
強い風の中、彼はそのまま立っていたが、身体が奇妙な形で膨れ上がると人間の形が崩れ、内側から複雑な立方体が広がりその場に出現した。
見る者が見れば……旧庁舎の建物のミニチュアだと理解出来ただろう。
*
オナガバチは、木の幹に入り込んでいるカミキリ等の幼虫の身体に細い産卵管を通じて卵を産み付ける。
宿主幼虫の中で孵化したオナガバチの幼虫は、宿主を内側から喰い、そこから成虫になっていく……
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