第8話 刀と鞘

 時は、前日に遡る。新左衛門が半蔵に返り討ちに合い、布団の上で五右衛門に言伝を預かった後、三太夫が威勢を誇る、対面所に足を運んだときのことだ。

 すでに五右衛門の父・白百合色の左螺旋は三太夫の前に座っている。

 新左衛門は二人の顔が見える位置に座り、半蔵に含みのある挨拶をした。

「半蔵殿、初めまして。我が名は新左衛門。遥々、年若い我を打ち負かしに、ご苦労様です」

「っ……! ああ、悪かったな」

「それで、半蔵殿のご依頼とは?」

「半蔵。説明を頼む」

「──依頼内容を話す前に、まず服部家と主君・松平元康まつだいらもとやす様について説明させてもらいたい」

 服部家は松平家の家臣だ。そして松平家は現在、今川家に仕えている。半蔵の主君・元康は、今川の人質という立場にある。

 今川の人質になる前は、織田家の人質だった。

「元康様が六歳のとき、人質として駿府へ移送中の出来事だ。もう十年以上も前の話。新左衛門殿とそう変わらない年齢のころか──護送する今川の家臣が裏切ってな。そのせいで元康様は今川ではなく、織田の人質となった。幸運にもな……」

 一三三八年、室町幕府が開かれた。公家が政治を執り行い、寺社が精神的に国を護り、武家が武力で護ることでバランスよく領地運営を行っていた。

 家臣は、公家、寺社、武家などに身も心もささげて仕える対価として、土地の支配権をもらうことができる。命をはって領地を守る理由が、支配権という対価だった。

 一四六七年。室町幕府八代将軍・足利義政のとき、応仁の乱が始まる。これにより将軍の権威は地に落ちた。

 このころの将軍や大名の多くは、権威のみで武力がない。唯一残っていた権威まで失うことで、武家を制御することができなくなった。つまり、領地を守ることも、人民を支配することもできない。

 こうして下の者が頼りない上司に代わって、権力を手にする行為、いわゆる下克上が多発した。

 多くの大名が没落し、乱世という社会風潮を巻き起こしたこの事件は、戦国時代という新たな台風を膨張させて、京都を赤い竜巻で覆いつくした。

 身も心もささげる殊勝な家臣は絶滅危惧種。戦いに勝つため、生き残るため、動物的な価値観を持つ侍や武士という名の獣がうごめく時代に移り変わった。

 裏切りの汚名を着るのが当たり前。忠義・忠誠・仁義だけあっても、弱い大名は悪とされた。

 松平家も織田家も弱い大名の中の一つ。しかしながら信長の価値観は異端といってもいいほどに他者とは大きくかけ離れていた。

 公家や寺社だけにとどまらず、下剋上によりのし上がった武家に対してすら、価値を見出していない。

 上下の関係性を認識しない信長は、人質だった元康を自分勝手に連れまわした。

 そののち、色を失った元康の瞳に灯を与えることになる。それ故に、元康にとって信長は特別な存在だ。

 信長にとっても元康は、数少ない救いだった。信長の相棒として生まれたかのように相性がよく、唯一無二の理解者だ。無謀にも、暴れるだけの信長に目的を与えたのが元康である。

 その目的の一つが松平家の独立計画。

「元康様と信長殿が歩む道は、自然と交わっていた。気が付けば同じ方向を向いていたようだ。そして、天の時がくるまで耐え忍び、地の利を活かして今川家に勝利するという、孫子の兵法に忠実な作戦を立てられた」

「その時が今、というわけですね。では、信長がうつけという話は、他家の目を曇らせるためという事になりますね?」

「俺には何とも言えんが……。うつけにも見えるし、鬼才と感じることもある。俺たち左螺旋が人間に驚くことなどそうそうないが、信長殿には驚かされることの方が多い」

「信長という人間の先見性は理解しました。しかし子供の頃の約束。本当に織田家は動くのですか? 何らかの謀の可能性は?」

「……裏切りが常の世の中だからなぁ。若さに関しては理由にはならん。元康様も当時六歳。新左衛門殿もまだ五歳だろ?」

「……秩序を暴走で破壊する刀とそれを制御する鞘の出会いですか」

「うまいこと言うな。まぁ、そんな感じだから心配はいらねぇよ。人質生活が長い元康様の瞳は未だに澱んでいない。その一番の理由が信長殿だ。俺にとってはそれだけで十分、信じるに値する」

「……今川の侵略を待ち続けていたとのことですが、いつ頃と予測されますか?」

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