第15話
最近、小さい頃の夢を見る。
幼くてひ弱な僕から片時も離れず、僕を守る咲の夢だ。
「……ん、どした? お腹減ったのか?」
「だいじょうぶ」
僕が首を振って見せると、咲は仏頂面を崩して笑った。
「そっか。じゃあ、このオモチャをやる。そこで拾ったキレイな石もだ」
「ありがとうね、咲ちゃん」
「……うん、いいんだ」
最初の頃の咲は、少しおっかなびっくり。
「しんどくなったら、ちゃんと言わなきゃダメだぞ? 我慢してたって、何もいいことなんかないんだ」
「うん……」
僕は頷いて、前を行く咲の袖を掴んで歩いた。
ぐんと胸を張って、獰猛な視線を辺りに振り撒く咲は、精一杯の虚勢で、僕の分まで強く見せようとしているようだった。
◇◇
ぎらぎらと暑い夏の日のことだ。
炎天下の日射しに焼かれた僕は目を回し、その場にしゃがみ込んだ。
「……どけ! 悠希っ、悠希!」
人混みを押し退け、やって来た咲が僕を軽々と持ち上げ、壇上で偉そうに語っていた校長先生に吠えた。
「話が長過ぎんだよ、馬鹿野郎!」
身体から吹き出る汗は妙に冷たくて、視界はTVの砂嵐みたいにぐちゃぐちゃだった。気持ち悪くて、とてもじゃないけど立っていられない。
その僕を抱いて、咲は風みたいなスピードで保健室に向かって走った。
「……ごめん、ちょっと遅れちまった……」
僕は返事をするのも億劫で、咲の首に手を回し、小さく頷くことで応えた。
「……いつだって、あたしを呼んでいいって言っただろう?」
大きくて強い、僕の幼馴染。
◇◇
水島くんが入院して、一週間が経った。
「……大袈裟なんだよ。こんな所に一週間も縛り付けやがってよ」
そう言って、水島くんは右目を覆う包帯を乱暴に外すと、その下のガーゼまで毟り取った。
「水島くん……!」
「……」
水島くんは一度動きを止め、くりくりと周囲を見回したあと、大きく鼻を鳴らして僕に向き直った。
「……どうだ?」
水島くんの右目は、白目の部分が赤く何やらグチャグチャしていたけど、問題なく存在している。
「……見えるの?」
「ああ、問題ねえって言っただろ」
水島くんは二本の指を突き立て、僕との間を行き来させたあと、『瞳』の部分を指差した。
「潰れたけど、潰されちゃいねえ。分かるか?」
「……機械の身体?」
「そうそう、999号に乗ってだな……って何でそうなるんだ!?」
水島くん曰く、『眼球』ってのは思っているより強い器官で、主要部位を破壊されなければ、潰れても再生するらしい。
「インパクトの瞬間、『瞳』を逸らした。見ていればアウトだったろうな」
ボクシングをやっていて動体視力に優れる彼だからこその芸当だろう。
「見た目ほど酷くねえよ。大袈裟に騒ぎやがって」
「……ちゃんと見える?」
「ちょっと霞むけど大丈夫だ。後は放っといても――」
その直後、病室に入って来た看護師さんと目が合って、僕らはとんでもなく怒られた。重傷であることには変わりなくて、安静にするのは予後の回復の為に必要なことらしい。
◇◇
激怒した看護師さんは、水島くんを半ミイラ男にして去って行った。
その後、一服いれたいって言う水島くんに付き添って、僕らは入院病棟の屋上に向かった。
水島くんは咥え煙草で難しい表情。
「……んで、沢田はどうなった?」
彼には聞く権利がある。僕は頷いた。
事件を重く見た片桐さんが警察に通報したことを告げると、水島くんは考え込む風に左目を細めた。
「……そりゃ知ってる。俺んとこにも警察が事情聴取に来たからな。捕まってないんだって?」
「うん……逃げてるみたいだ。僕の所にも警察が来たよ」
「……」
事情を確認しても、水島くんは渋い表情を崩さない。
「…………沢田んとこの親が謝りに来たけど、なんつうか……ちょっと、おかしかったぞ……」
水島くんは険しい表情で首を振った。
「金で済むことなら幾らでもって感じで……まだ逃げてる沢田のことは一言も触れないでよ……」
「……うん、知ってる」
僕の返事に、水島くんは顔をしかめて何も答えなかった。ここら辺が彼の繊細なとこだ。咲に対する憎しみや嫌悪みたいなものは感じられない。
「……片桐とは、どうだ?」
「片桐さんなら、よくしてくれてるよ。野球部の二人を連れて、毎朝ウチに僕を迎えに来てくれるんだ」
「相馬と若竹か?」
「……誰それ?」
僕が首を傾げると、水島くんは困ったものを見るように目尻を下げた。
「お前、その癖直した方がいいぞ……?」
「……何が?」
水島くんは笑いながら煙草を踏み消し、眩しそうに空を見上げた。
「……片桐はよくしてくれる。そうか……」
「……」
「はっきり言って、俺はアイツも勧めねえぞ?」
「うん、それはよく分かる」
片桐さんは、僕の為ならなんでもする。平気で嘘だって吐けるし、人を陥れることだってする。
「そうか。なら、俺はもう何も言わねえ」
「うん、ありがとう」
僕らは男同士だ。自分のことは自分で決める。お互いの裁量を侵さないのは、繊細で不器用な彼らしい思いやりの形だった。
水島くんは、ニッと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「今夜、狩りに行かないか?」
僕らがよくやるゲームの話だ。
「……いいね!」
真面目なお話はおしまい。
「どうしても欲しい素材があってよう……」
僕らは笑いながら、その場を後にした。
◇◇
決定的な敗北から一週間。咲は、まだ捕まってない。片桐さんは時間の問題だって言っている。
咲は、今頃どうしているんだろう。強くて大きい僕の幼馴染。彼女との思い出は優しすぎて――
眠れない夜を数える。
水島くんの事件があって、咲の両親は離婚した。 事件を経て、僕とのいじめに似た関係や、他の色々な出来事が明るみに出て、それが引き金になった。
ウチには、咲のお父さんが謝罪に来た。
平身低頭。咲のお父さんは、ウチの玄関で頭を下げたまま動かなかった。
「……教育を間違えました。申し訳ありません……」
僕と咲は幼馴染。でも、僕の父さんと母さんが咲のお父さんと会うのはこれが初めてだ。ウチの父さんと母さんは、苦い表情で謝罪を受け止めた。
「悠希くん。君は……」
咲のお父さんが僕を見つめる目は、なんだろう……奇妙だった。粘るような、全身に絡み付くような不気味さがあった。何か言いたそうにして、口ごもる。取れない引っ掛かり。そんなものを後に残し、闇を溶かしたような黒い乗用車に乗って帰って行ったのが酷く印象的だった。
「……咲ちゃんの親に少し問題があるってことは、薄々分かってたけどな……」
父さんは苦々しく述懐して、それ以上咲の両親について言及することを避けた。
◇◇
事件から一ヶ月が経ち、咲はまだ逃げ続けている。誰かが死んだ訳じゃないし、水島くんも今は復学しているから、警察の追及もそれなりなのかもしれない。とんと関係が薄くなってしまった僕に、咲のその後のことは分からない。
そして、ここからは誰にも言えない秘密の話だ。
眠れない夜を数える僕の携帯電話に、一本のメールが入った。
――会いたい。
それ以外には場所の指定があるだけ。発信者は、咲。沢田咲。時間の指定はない。
夜更けになり、父さんたちが寝入ってしまうのを待って、僕は家から脱け出した。
指定された場所は近所の公園。そこに向かう間、頭の中は無茶苦茶だった。
こんなこと、片桐さんや水島くんには絶対に言えない。誰にも言えない。でも、最後は僕が決着を着けなければならない。そんな気がして――
時刻は午前二時を過ぎ、消灯された公園で、咲は一人、所在なさそうにブランコに揺られて待っていた。
欠けた月。星明かりの眩しい夜だった。大きくて強いはずの咲の背中はちっぽけで、とても頼りなさそうに見えて……
瞬間、僕の全身を強い衝動のようなものが駆け抜けた。
音を立てず、ちっぽけな咲の背後に忍び寄り、思い切り突き飛ばしてやった。
「……!」
咲は油断していたのか、つんのめるようにして地べたに転がった。
そのまま馬乗りになり、驚いた表情で見上げる咲に、僕は大振りのビンタをお見舞いした。
「こんなとこで、何をやっているんだ……!」
灯り一つない深夜の公園で、僕が咲を打つ音は、嫌になるくらいよく響いた。
一切手加減せず、渾身の力で打ったけど、咲は抵抗することなく受け入れた。
何度叩いたか分からない。打った手が痺れ、咲の破れた唇から出た血が辺りに飛び散って、そこで僕は漸く殴るのをやめた。
せいせいと荒い息を吐きながら、襟首を掴んで引き寄せると、今にも泣き出しそうな歪んだ表情の咲と目が合った。
「何をやっているんだって聞いたんだよ……!」
僕の幼馴染。
「何か言えよ……!」
圧し殺した声で質問を繰り返す僕に、咲は答えない。釣り上がった形しか見たことのない眉は八の字に下がっていて、以前のような凶暴さは微塵も感じられない。
「何か言えって……!」
すっかり小さく、弱くなってしまった咲を見て、僕は。
打ちのめされ、怯えた表情の咲が浮かべたのは、誤魔化しのような愛想笑いだった。
「あ、会いたくて……あたし、ただ会いたくて……」
その言葉を聞いて、僕は。
「うぁ……」
泣いてしまったのは僕の方だ。
「ねぇ、咲。今、どうしてるの? 何でこんなことになったの、ねえ……!」
「…………」
咲の腫れ上がった顔を、僕の涙が濡らして行く。
「今、何処にいるの? 学校は? 元気にしてるの? 大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
「…………」
咲は驚いた表情で、瞬きすらせず僕の言葉を聞いていた。
「叩いて、ごめんねえ……」
僕は泣きじゃくり、その涙を受け止める咲の顔からは全ての険が抜け去り、何処か穏やかさすら感じる笑顔が浮かんでいた。
◇◇
真夜中の公園。
地べたに胡座をかく格好で身体を起こした咲に馬乗りになったまま、僕は泣くことしかできずにいた。
遠くで夜の虫が鳴く音と、僕が吐き出す嗚咽だけが、真っ暗な闇の中に唸って聞こえる。
「……」
咲は泣き止まない僕の頭を撫でたり、背中を擦ったり。
暫くして、ポツリと呟いた。
「……やっぱり、会いに来てよかった……」
その能天気な言葉に頭に来て、僕は握り拳で強く咲の胸を叩いた。
「……って、痛いっての」
咲は少し咳き込んで、それから僕を抱き締めて――
「好きだ」
僕は頷いて、強く咲を抱き返した。
「大嫌いだ」
咲は笑った。
「あは、超ウケる。信じらんないし」
僕も笑った。
「冗談じゃない」
心配するのも、大目に見るのもこれが最後さ、僕の幼馴染。
「いつだって僕を踏みにじる、お節介な君が本当に嫌いなんだ」
最後は、笑って言った。
「これでサヨナラだ」
僕の幼馴染だった人。
もしかしたら、僕の初恋だった人。
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