第2話

 片桐さんの勝利宣言から、明けて一日経った。


 ゆるゆると昇る朝陽に急かされ、僕は寝ぼけ眼をごしごし擦る。

 おかしい。いつもなら、もう来ているはずの咲がいない。静かな朝なんて、いつ以来だろう。


 いつものように歯を磨き、顔を洗ったところで、僕はようやく異変に気付いた。


「おはよう、父さん」

「ああ……」


 毎朝、無駄に明るい父さんが、今朝に限って塞ぎ込み、険しい表情で新聞に読み入っている。


「父さん、どうしたの? 何か暗いよ? ……母さん?」

「おはよう、悠希」


 母さんとは普段通り挨拶したものの、その笑顔はいつもより少し固いように感じた。


「二人とも、変なの」


 僕は席に着き、用意された朝食をやっつける。いつもなら隣に用意してある咲のコーヒーがないのが、何だか不思議だった。

 不意に、父さんが言った。


「悠希……お前、咲ちゃんをどう思ってる」


 僕は口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。


「何? 藪から棒に……」

「いや……」


 父さんはもごもごと口ごもり、それきり黙り込んだ。


「咲は? 今朝は珍しいね。来れないって連絡あった?」


 その問いに父さんは眉を寄せ、母さんはあからさまに厳しい表情になった。


「ん、どうしたの? 咲に何かあったの?」

「……」

「何もないわよ」


 父さんは沈黙を守り、代わりに答えた母さんは、何故か少し怖かった。

 その後の僕は、そそくさと朝食を済ませ、早々に自室に帰った。




『 完全 勝利 』




 何故かよくわからないけれど、片桐さんの勝利宣言を思い出した。

 そして訳知り顔の水島くんにソウルマンと右肩上がりの男のバッテリー。

 夕焼けの片桐さんの告白の後、僕は咲との約束をすっぽかして帰った。

 だって、片桐さんと恋人同士になったんだ。その片桐さんを放って、咲との約束を優先させる訳に行かない。


 その後は片桐さんと仲良く手を繋いで帰った。

 僕はもう、火が点いたんじゃないかと思うくらい顔が熱かったから、とんでもなく赤面していたと思う。

 はっきり言って、いっぱいいっぱいだった。片桐さんを退屈させまいと、余計なことを言ったような気がする。

 片桐さんは、そんな僕を微笑ましそうに見ていた……。


 そう、これが黒歴史。


 そして、これから咲に会わなければならないと思うと更に鬱な気分になった。

 咲はきっと、僕と片桐さんの交際を許してはくれないような気がする。

 気を強く持たなくてはならない。

 咲は、はっきり言ってうざかったし、やり方は極端だったけれど、全然、世話になっていないと言えば嘘になる。

 片桐さんとの事をどう伝えればいいのだろう。


「委員長と付き合うことになったから、もうウチには来ないでね」


 言葉にしてみると、とんでもなく酷いやつになった気がした。

 詰襟に着替え、学生鞄を引っ掛けると部屋を出て玄関に向かう。


「行ってきまーす」


 何故か心配そうな父さんと、ひどく物言いたげな母さんに見送られ、家を後にした。


 う~ん……咲にはどう言ったものだろう。

 きっと無茶苦茶怒るだろう。けど、これは言わなきゃならないことだ。

 そんなことを考えながら、いつもの通学路を行く。


 少し歩いたところで、無駄にでかい咲の背中が見えた。

 咲は、何故か電信柱の影に身を隠すようにして辺りを伺っている。眉が泣きそうに八の字に寄っていて、挙動不審だった。


 ……今日は、よくわからないことばかりが起こる日だ。


 様子のおかしい父さんと母さんに、こそこそする咲。

 しばらく様子を見ていると、咲は僕を見つけたようだ。


 う、と僕は一歩後ずさる。

 結局、片桐さんとのことをどう咲に説明したものだか思い付かなかった。

 マックに行く約束を反古にしたのもまずい。久しぶりに殴られるかもしれない。


 咲が一歩こちらに歩く。

 僕は更に一歩退いた。


 咲は立ち止まり、くしゃっと顔を歪め、泣き笑いの表情になった。


「ま、待って……説明する。するから……」

「……?」


 咲が泣くのを見るのは幼稚園のとき以来だ。


 咲がまた一歩、確かめるように歩を進める。

 これは何かの罠かもしれない。僕は用心深く、また一歩退いた。

 咲は立ち止まり、それ以上、僕を追おうとはしなかった。


「……咲? 本当に泣いてるの?」


 くしゃくしゃになった表情を更に歪め、咲は今度こそ本当に泣き出した。

 どうやら罠でないようだ。

 見たところ、咲は竹刀を持っていないようだし、間違いないだろう。


「ごめん、今まで、本当にごめんなさい……」


 咲は泣きじゃくり、身を小さくして謝罪する。

 思った。


 ――いいよ、もう。とっくに愛想なんて尽きてるし。


 そんなこと言ったら殴られる。

 咲が、すっと手を伸ばして、僕の手を掴んだ。

 ずっ、と鼻を啜る。


「話を聞いてほしい……」

「うん……わかった……。僕も話があるし……」


 それから少し二人で歩いた。

 咲はいつもの通学路を逸れ、近くの公園の方へ歩いて行く。

 僕もその後に続いた。

 学校は遅刻することになりそうだけど、それはもうしょうがない。

 ベンチに腰掛けるなり、早速、僕は朝から感じている違和感について尋ねる。


「今朝、ウチに来なかったよね。父さんと母さんも何か変だった。それと関係ある?」


「……!」


 咲は、あからさまにギクリとして固まった。

 それから視線を落とし、膝の上に重ねた手を、じっと見つめる。


「……そう……おじさんとおばさん、何も言わなかったのか……そうだよな……」

「……何のこと?」


 咲は再び黙り込んだ。


「よくわからないんだけど、怒らせたの?」

「……」


 咲は一つ頷いた。


「あたしは、悠希に相応しくないって……おばさん……もう、来るなって……」

「え? 母さんが!?」


 ますますわからない。

 母さんは咲を信頼していた。何せ、十年以上の付き合いがある。咲のことならオムツを履いてた頃から知っている。その信頼度は、そこらの女の子とは比較にならない。その母さんが……


「おじさんは……なんか、すごく困ってた。言葉もないみたいだった……」


 あ、うん。それは父さんらしい。

 父さんは咲のことを気に入ってる。


「娘にするなら咲ちゃん以外考えられない!」


 そんな妄言を吐いているくらいだ。しかし……


「咲、一体、何をしたの?」


 そこで、咲の顔が再びくしゃっと歪んだ。


「待って……ちゃんとする……するから……!」

「?」


 本当に、よくわからない。

 わかるのは、咲が出禁を宣言される程のとんでもない何かをやらかしたということだけだ。


「……」


 咲は下唇を噛み、俯いたまま、考え込むふうだった。


 ◇◇


 僕はひたすら待った。


「…………」


 黙り込み、頭を抱えるようにしている咲は固く瞳を閉じていて、何だか過去を思い出しているようにも見える。


「……」


 ちょっと手持ち無沙汰になった僕は、ベンチに腰掛けたまま、足をプラプラさせてみたり、意味もなく下唇を引っ張ってみたり。

 長い沈黙の後、咲が呟くように言った。


「……が……悪い……」


「え、何?」


 咲はボソボソと小さい声で、しかも僕の方を向かないで話す。よく聞き取れない。

 仕方なく距離を詰めたその瞬間――


「おまえが全部悪いって言ったんだよ!!」


 咲に襟首を掴まれ、ぐっと引き寄せられた。


 ――うん、いつもの咲だ。


 凄い剣幕だ。頭に血が昇って、完全に見境を無くしてる。固めた拳を振り上げ――


 ――ああ、これはグーで来る。


 咲に叩かれるのは慣れてるけど、握り拳は初めてだ。

 咄嗟に僕は目を閉じる。


 瞬間、左の頬に強い衝撃が突き抜け、堪らず僕は膝を着いた。

 口の中に血の味が広がり、鼻の奥がつんとして、涙が溢れた。

 それでも咲は怒りが治まらないようで、続いて、蹲った僕の鳩尾を蹴り上げた。


「クソが! おまえがいつまでも煮え切らないから!」


 僕は身を丸め、ひたすら嵐が過ぎ去るのを待つ。

 そのとき――


「やめなさいッ!」


 急いでやって来たのだろう。悲鳴にも似た制止の声には息切れと焦りの色が滲んでいて――


「貴女という人は……!」


 片桐さんの声だ。


「眼鏡女……?」


 咲は拳を振り上げたままの姿勢で動きを止め、訝しげに眉を潜めた。


「悠希くん!」


 片桐さんはやって来た勢いを止めることはせず、そのまま突っ込んで来た。

 咲を突き飛ばし、強引に割って入ると僕の身体を引き寄せる。


「ごめんなさいごめんなさい……私はとんでもない馬鹿者です。全てを読みきったつもりでいました。本当にごめんなさい……!」


 熱い水滴が降り掛かってきて僕の頬を濡らす。

 片桐さんは全身で包み込むようにして僕を抱き締めた。


 咲は――

 突き飛ばされ、尻餅を着いた姿勢で大口を開け、ぼんやりとこちらを見つめていた。


「な、なんだよ、これ……どうなって……」


 突然のことで、咲は理解が追い付いていないようだった。そして、ハッとして辺りを見回し、それから抱き合う僕と片桐さんに視線を向けた。


「片桐さん……今は危ないから……下がってて……」


 僕はなんとかそれだけ言って、片桐さんを押し退けようとするけど、片桐さんはイヤイヤと身体を揺すって離れない。それどころか、更に力強く僕を抱き締めた。


 その光景を瞬きもせずに見つめながら、咲はガリガリと額をかきむしっていた。


「えっ、と……コレ、あたしがやったんだ……」


 咲は心ここにあらずといった様子で、額をかきむしることを止めない。


「ちょっと、えっ? 不明だな。悪役みたい……」


 肉が破れ、血が滴っても、咲は額をかきむしっている。


 目が合った。


 ぞわっと背筋に寒気が走り、粟立つような感じがした。

 咲は口元を引き吊らせ、ぎこちない壊れた笑みを浮かべた。


「あハッ、ごめん、悠希。痛かった? 悪い悪い。もうしないし。ちょっと……うん、ちょっとだけ間違えた」


 そして――

 咲は、道端に転がる石ころを蹴飛ばすような気軽さで、片桐さんの脇腹の辺りを蹴飛ばした。


「ぐっ……!」


 身体を打つ鈍い音がして、衝撃に片桐さんが呻いた。


 ――二度。


 ――三度。


 続けざまの衝撃にも構わず、片桐さんは僕を抱き締める腕の力を緩めない。確固足る決意が感じられた。

 その決意を踏みつけ、咲は笑っていた。


「おまえだ。おまえがやったんだろ。あの手紙と作り物のゲスな写真。全部、台無しにしやがって……!」


 片桐さんは答えない。ついさっきまでの僕と同じように身を丸め、ただ堪えている。


 よくわからない。

 一体、何が起こっているんだろう。

 でも、片桐さんが痛め付けられるのは、ひたすら辛くて……


「あああああああぁ! ああああああああ!」


 気が付くと、僕は全身で悲鳴を上げていた。


「ちょっ、悠希――」


 困惑した様子の咲を遮って。


「あああああああぁ!」


 壊れた玩具のように。


「やめろって、これは――」

「あああああああぁ!」


 ただ、叫ぶ僕。


「あああああああぁ!」

「だからこれは、眼鏡女が――」


 早く、終われ。


「あああああああぁ!」


 そして――



「そこのキミ! やめなさい! 何をやってんだ!!」



 場所が公園ということが、ここで漸く発揮された。

 子連れの主婦が、通りすがりのサラリーマンと思わしい背広姿の男性を連れてやって来る。

 僕は、力一杯、咲を睨み付けてやった。


「あ……」


 見つめ返す咲は、もう殆ど泣き出しそうなくらい眦を下げ、ひたすら困惑していた。


「だから、違うって……」


 咲の言い訳には耳を貸さず、僕は片桐さんを抱き寄せた。

 胸のなかで片桐さんは、ひゅうひゅうと切れた呼気を漏らした。顔色は青白く、唇は衝撃を堪えた際、噛みしめたのか、血が滲んでいる。


「……ごめん、片桐さん、ごめん……」


 僕の謝罪に片桐さんは僅かに笑みを返す。

 その光景に、咲は呆然として、ぽつりと呟いた。


「なに、それ……」


「何をやってんだ!」


 返事を返したのは、サラリーマンの男性だ。抱き合う僕と片桐さんを一瞥して置いてから、咲の肩を掴み強引に振り向かせると、険しい目付きで向き直った。


「なんなんだ? 痴話喧嘩か? それにしても一方的だったじゃないか!」

「……」


 咲は返答せず、僕をじっと見つめ続けている。その表情は、あらゆる感情が抜け落ちてしまったかのように平淡で、生気というものを感じない。


「おいっ、なんとか言ったらどうなんだ!?」


 反応を返さない咲の様子に焦れたのか、サラリーマンの男性が声を張り上げた。


 僕はもう、それらのやり取りには構わず、苦しそうに息を吐く片桐さんの背中をさすり続けた。

 その僕に、子供連れの主婦の女性が心配そうに歩み寄って来る。


「大丈夫、キミ?」

「は、はい……僕の方は……」


 女性は片桐さんを見た後、今度は怪訝な表情で咲を見つめた。


「あの子……」


「……僕の幼馴染みです」


 女性は気遣わしげな表情で首を振った。


「いや、そうじゃなくて……」

「……?」


 厳しい表情で、言った。


「あの子には、気を付けなさい」

「……」


 僕は、この事態を収拾せねばならなかった。

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