第一章 入果見参
(1)入果見参
「私、結婚しようと思うんだけど」
その言葉で、口元まで運んでいた箸がテーブルに落下し、安っぽい音を奏でた。
「……はい……?」
結婚、他人同士の男女が契約を結んで一つ屋根の下で共に暮らし、愛を育んで家庭なるものを築いていくあの結婚のことだろうか。
「どう……かな、緒羽途?」
椅子に腰をつけたまま地蔵のごとく体を固めてしまっている一人の少年、名前は
こちらの反応を窺うような眼差しになっているスーツ姿でショートヘアの女性は
「どうって……? え? 結婚……。うん……ケッコンねえ……」
普段と変わらない夕食の席でいきなり投げかけられた深淵なる問いにどう答えるべきか思案する。
結婚って……あれだよな……姉さんが結婚すんだよな……え? 誰と……?
困惑の羊が緒羽途の脳内で走り回る。
ひょっとして……。
この姉は、昔はよく自分をからかっておもちゃにしていた。またぞろなにかのサプライズで自分をだましているのではと、木乃香の目を凝視した。
戯れの色はない、瞳は真剣そのもの。
いい加減返答をしたほうがいい、と判断した。
「マジ……?」
「うん、マジ」
窓から野良猫の遠吠えが聴こえた。
「ふーん……。姉さんが結婚……。それで、えっと……」
まだ肝心要なことを聞いていない。
「だ、誰と……?」
「仕事で知り合った人、名前は栗駒地誠司さん。四才年上で電設会社に勤めてるの。うちにも一度来たことあって、緒羽途も会ってるんだけど覚えてない?」
クリコマチという名前を頭のストレージから引き出そうとするもうまくいかない。
「去年、クーラー変えたでしょ? その時にちょっと手伝ってくれた人なんだけど」
ようやく思い出してきた。
「あ、ああ……あの人……ね……」
顔はよく思い出せないが、さわやかで朴訥そうな青年といった印象の男性だったことを想起した。
木乃香からは友人と言われていたのでそれ以上の認識はなかったが、いつのまにか結婚を考えるほどに関係が深化していたことに当惑の念を隠せないでいる。
「それで、どう……?」
「どう、と言われても……」
本題に立ち返る。今、木乃香が自身になにを問いかけているのか。
緒羽途と木乃香は二人暮らしである。親は緒羽途が九才の時に、事故で他界した。それ以来、緒羽途の養育は木乃香によって行われ、緒羽途にとって木乃香は姉であると同時に母のような存在となった。
そういう関係にあるからこそ、木乃香は緒羽途の同意を結婚の条件に据えているのかもしれない。
「……」
ならば緒羽途としても迷うようなことはない。
「うん、いいんじゃない。おめでとう、でさ」
動揺をかみつぶすように味噌汁を口に含んだ。
「そう……」
目を閉じる木乃香、一山超えたといった印象を受ける。
「……いつ結婚すんの?」
「うん、そのことなんだけど、まずお互い一緒にくらして慣らしていこうと思ってて」
同棲から始めると解釈する。
「うちで……?」
「ううん、誠司さんの家、船越区にあるマンションで」
堂場邸があるこの宿宮区の隣にある区である。
「ふーん……」
「ただちょっとね……」
木乃香が視線を下げた。姉がこんな弱気な表情になるのは見たことがない。
「何か問題でも?」
「問題ってわけじゃ……あ……いや、まだわからないんだけど」
「なに……?」
テーブルに肘を置くと、木乃香が大きく息を吐いた。
「誠司さん、娘さんがいるの」
味噌汁を吹き出しかけた。
「な、なにそれ⁉ バツイチってやつ⁉」
「ううん、今回が初婚よ」
「な⁉」
開いた口がふさがらないとはこのことである。
「意味わかんねえよ! 結婚したことないのに娘がいるって……! それ……!」
とんでもなく女性にだらしのない人間なのかと疑念が沸き起こってきた。
混乱する緒羽途をよそに木乃香は落ち着いた様子で水を一飲みしてみせた。
「それについてはちゃんと説明してもらってるから、緒羽途は心配しなくていいよ」
「で、でも……!」
「それでね、緒羽途も一緒に来ないかって」
「へ?」
「だから誠司さんの家で一緒に暮らさない?」
「……なにを馬鹿な……」
固い沈黙が訪れた。
「行くわけないだろ……」
姉との別離を意味するのを承知して上で述べた。
「そう……」
木乃香が視線を落とす。
「……姉さんさ……俺を捨てて行くみたいに思ってるなら見当違いだって言っておく」
「……」
「俺はもう一人でやっていける。それにいい機会だとも思う。姉さん、もう三十手前だろ。この話を逃したら……きっと後悔する、と思う。その栗駒地さんって人がちゃんとした人ならだけど」
父母が残した遺産と生命保険金の半分は緒羽途の個人口座にも振り込まれている。普段の生活費はほとんど木乃香が負担するためほとんど手つかずではあるが、一人暮らしになっても金銭的な問題はない。
木乃香は九才の頃から育てた弟を置いて結婚することに躊躇の念を抱いていたのだと、ようやくわかってきた。
「なんにせよ今度誠司さんと会ってもらえる? 彼も緒羽途とも話し合いたいって言ってるし」
「別にいいけど……。その娘さんもいるんだよね?」
「うん」
「その娘って何才」
「十五よ」
眉間にしわが寄った。
「今、中学三年生、ちょうど緒羽途の一つ下ね」
「……なら決まりだ。やっぱり俺はここに残るよ」
「ならってなにが?」
真っすぐに姉の目を見据えた。
「十五ってめちゃくちゃ難しい時期だろ。そんな年齢に近い年頃の男が転がり込んできたら絶対荒れるよその子。最悪不良になるかも。いや、もう俺なんか蛇蝎のごとく忌み嫌われるね」
「まだそうなると決まったわけじゃ……」
「いいや、絶対そうなる。保証する」
そんなギスギスした生活環境になっては婚姻の話そのものが破談になりかねないと改めて心を定めた。
「それに父さんと母さんが残してくれたこの家空けておけないだろ。どっちかが残って管理しないと」
木乃香が目を閉じてなにかを思案するようにした。
「今度の日曜、空けておいて」
「……わかった」
その日にご対面という段取りだろう。
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