冬の精霊 春の精霊 〜この世界は俺が思うより君にやさしいのかもしれない〜
卯月二一
最果ての島
第1話 最果ての島
ここはヨーロッパの最果てイニシュモア島。イニシュモアとはゲール語で大きいという意味らしいが東京の杉並区くらいの広さである。アイルランドの西に浮かぶ島だ。
「こんなところまで来てしまった」
灰色の雲に覆われた空の下、岩壁に打ちつける白波を前につい言葉が漏れる。強く吹きつける寒風がこれ以上は進ませないと俺を拒絶する。
「寒いね、おじさん」
「ああ、ごめん。風邪をひいてしまうね、戻ろうか」
「うん」
俺は幼い少女の手をとり、ところどころ剥き出しになった石灰岩質の岩盤の上を歩く。
「カワセさん、戻りました」
「おじいちゃん、風がビューってすごかったよ」
ベッドに横たわる老人は僅かに目を開け、女の子に微笑んでみせる。
「雪は降らないんだね。ここに来てから窓から見えるのも雨ばかりだ……」
「そうですね。何でしたっけ、西岸海洋性気候とか学校で習った気がします。アイルランドがそうだったかは自信がないですけど」
カワセさんは雪景色を好んで描かれる日本画家だ。この数年フランスで娘夫婦と一緒に暮らしながら活動していたらしい。女の子は彼の孫だ。
「雪はもう見れないんだ。もう描く道具も気力もないし、いいんだけどね」
何言ってるんですか、とは言えなかった。
もう長くはないことは彼自身がよく分かっている。
「渡月橋の雪景色は良かった……」
「京都ですか、修学旅行か遠足かで行ったかもしれません。桂川かな? そこの有名な橋ですよね」
日本人があとどれだけ生き残っているのか分からないが、失われた祖国の話ができるのもこれが最後かもしれない。必死に曖昧な記憶を辿ってみるが、気の利いた言葉はその後出てこなかった。
火のついた暖炉からパチパチと燃える音だけがしていた。
「おじさん、お腹減った」
「ああ、そうだった。準備するね。待っててくれるかな」
俺はひとりキッチンを漁る。まだ前の住人が残した缶詰は残っている。あと何日持つだろうか……。並べた缶詰を見つめていると、突然声がする。
『サバの缶詰しかないよね。育ち盛りのあの子には辛い状況だな』
誰だ?
顔を上げると十代半ばくらいの外国人の少女が目の前に立っていた。
この空き家には俺たちしかいないはず、それどころかこの島には他に人は残っていないと思っていた。
『大きな声を出さないでくれるかな? あの二人にはボクの姿は見えないと思うから。気でも違ったと思われたらキミも困るだろ。それにカワセもキミにあの子を任せて安らかに旅立てなくなる』
そう言えば、日本語をこの少女は話している。それも流暢すぎる。カワセさんの知り合い?
「君は……」
『ボクは怪しい者じゃないよ。まあ、人ではないけどね。なんて言ったらいいかな……。そうそう、冬の精霊だ。昔はそう呼ばれてたはずだよ』
そう言われて納得してしまう。彼女には人ならざる不思議な美しさがある。完璧過ぎるんだ。編集ソフトで隅々まで手を加えられた雑誌の表紙みたいな微笑みは、彼女の精霊だという言葉に何も反論をさせてくれない。
「冬の精霊? 水とか氷とかそういうのじゃなくて?」
俺は何を聞いているんだ? もっと何かマシな質問もあるはずだが、気のきいた言葉が出てこない。
『たしかに季節の精霊って変かも。ちなみに夏の精霊も秋の精霊もいない。春の精霊はいるよ。ボクのとびっきり可愛い双子の妹なんだ。でも会ったことは無いけど……』
冬が去らないと春が来ないという設定だろうか。
「それで、その精霊さんが何故ここに?」
『なぜって、ここはボクのお家なんだけどな』
マジか。誰もいない空き家だと思っていた。この子はどこかに隠れていたのだろうか。彼女でなくても、たしかに不審者がやってきたら俺でも隠れる。
「そ、そうだったのか、すまない。緊急時だったんで……。あの、カワセさんのことを知ってるということは彼は君のことを、あるいはご両親か誰かを頼ってここに来たのだろうか?」
『いや、彼のことは知らないよ。名前は君たちの会話から推測した。それにボクは精霊だから、キミのいうような両親はいないよ。この家は自由に使ってもらって構わない。家主であるボクが許可する。秘蔵のウィスキーをキミが二人に隠れてこっそり飲んでいることも不問にするよ』
「あ、ああ……。すいませんでした」
『気にするな。世界のウイスキーの源流はこのアイルランドだからね。是非とも異国のキミには堪能してもらって、その良さを知ってもらいたいところだよ』
アイリッシュウイスキーはアイルランド独立戦争など様々な時代の不運が重なり、第二次世界大戦あたりでその姿を消した。近年、閉鎖されていた蒸留所も復活し始めて、日本では最近人気が出てきたところだった。俺は飲みやすくて好きだ。世界が大混乱に陥っているこの状況では酒は貴重品。大切に飲ませていただきたいものだ。
「カワセさんに君の存在を伝えたほうがいいよね」
『いや、今は孫娘との最期の時間を邪魔したくはないよ。精霊として分かるんだ彼はもう長くない。黙っておいてくれるかな』
「そうか……。ん?」
俺がサバ缶に目を落とした隙に彼女の姿は消えていた。またどこかに隠れてしまった。彼女は人見知りなのだろうか? とりあえずあの家主様のお気持ちを尊重するのが良いと俺は判断した。
翌朝、カワセさんが目を覚さないと泣くアデルちゃんに起こされた。
それは雪が静かに降る風の無い穏やかな朝だった。
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