胃カメラとサーフィン
九畳ひろ
第1話
大学院での2年の研修から戻ると、職員室に僕の居場所はなくなっていた。スーパーエースと持て囃されたわずか700日前はすでに今昔。僕のアイディアに目を瞠る者はもうどこにもいなかった。
僕は自分のプレゼンスを回復せしめるために足掻いた。電話は誰よりも早く取り、生徒が職員室に来たら立ち上がって笑顔で出迎えた。大学院で得た知識を活用して頻繁に校内研究会を開催し、金曜の夕方には、手帳に1週間の振り返りを書いた。そして次週の目標を高らかに書き込むのだ。そんなマッチョな教員生活は久しぶりである。
マッチョに仕事をして8ヶ月。次年度人事考課の時期が来た。それにともない、ある夜僕は突如腹痛を発症した。とにかく腹が痛い。地面に引きずり込まれるようなこの痛みは、夜中でも決して容赦をしてくれない。僕は幾度も痛みで目を覚まし、自分の体に絶望した。もちろん病院には行った。セカンド、サード、フォースオピニオンまでクリニックを漫遊し、多種に渡る薬の内服を試みたが効果はない。
ついに僕は胃カメラを飲むことになった。もうこうなったら、結局胃の中を見てみるしかないのである。
冬のある朝、僕が予約時間通りにクリニックで受付を済ませると、切れ長の目が麗しい看護師さんが登場し、ニッコリと僕を奥の部屋に手招きした。
看護師さんが笑みを浮かべながら聞いた。
「元気?」
「ええ、まあ」
僕は答えた。親密な空気だった。今から一緒に波乗りをする仲間みたい。僕はサーフボードを抱え、サーフシャツ姿の彼女と一緒に海辺で波を見つめる景色を想像した。とても素敵な時間だ。この間0.02秒。
「飲もっか」
彼女はおちょこみたいなカップを僕に渡しながら言った。白っぽい液体が入っている。僕は飲み下す。ヨーグルトと納豆を混ぜたような味。胃カメラで「ゔぉえーーーっ!」ってならないための睡眠導入剤だろうか。前に別の病院で胃カメラ飲んだときは確か、睡眠導入剤だか安定剤だかを摂取した。薬を飲んだのか、注射だったのか忘れたが。
さらにスプレーで喉に麻酔薬をかけられ、ベッドで横になるように言われた。切れ長目の看護師さんは一旦どこかにいく。このまま僕は眠りこけ、やがて医師が検査をし、目覚めたときには全てが終わっているのだろう。
一向に眠くならないまま10分が過ぎ、再び切れ長さんが現れた。僕は少し心配になって聞いてみた。
「あのー、睡眠導入剤みたいなものは打つんですか(てか、打って欲しい)」
「えっ⁈ 寝ながらってこと?」
「あっ、いえっ(汗)、いいんです」
僕は慌てて打ち消す。どうやらサーファーの世界では胃カメラごときで睡眠導入剤を打つなどというチキンなことはしないようだ。僕は覚悟を決めるように試みる。こうなったら瞑想だ。胃カメラの間、瞑想状態で呼吸を整えれば「ゔぉえーーーっ!」ってならないかも。ここで「ゔぉえーーーっ!」ってなるのは避けたい。そんなカッコ悪いことになったら、切れ長の彼女がサーフィンに誘ってくれなくなるではないか。
「ゔぉえーーーっ!」、「ゔぉえーーーっ!」。「げぇぇぇっぷ」「げぇぇぇっぷ」。壮大にえずき、咳き込み、ゲップをし、涙を流し、切れ長さんに背中をトントンされながら、検査が進んだ。切れ長さんと一緒にサーフィンをする計画がガラガラと崩れ落ちるなか、はっきりと目覚めているのだから、胃カメラの画面が自分にもはっきり見える。分け入っても分け入ってもパーフェクトピンク。この一ヶ月、病気を疑って散々Googleで調べたいかなる病変も認められない。素人目にも分かる、完全無欠の健康体である。
胃カメラのあと、ピロリ菌の検査もして、最後は診察。
医師は宣言した。
「(あなたの胃は)100点満点です。おそらくピロリもないでしょう」
……どうやら、人事考課のプレッシャーでポンポン痛なった、というのが腹痛の正体のようだ。
僕は帰宅後、自分に呆れながら、靴を磨いた。胃カメラのために絶食した効果なのか、夜にかけ腹痛はゆっくりと治っていった。
胃カメラとサーフィン 九畳ひろ @kujohiro
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