初恋はおしまい

佐治尚実

1-失恋

 高校の卒業式が終わった。教室に戻る途中、階段の踊り場で特別な感慨を覚えたから、先を歩く同級生達の背中を見上げた。手を伸ばせば届く距離に、クラスメイトの野崎修司のざきしゅうじの真っ直ぐな背がある。見慣れた彼の存在でやけに呼吸が浅くなった。

 平井朝好ひらいあさよしは修司に声を掛けようと、なけなしの勇気を振り絞って口を開いた。


「野崎くん」


 朝好は、修司にだけ聞こえるように小さく呼んだ。

 奇跡的に修司が足を止めてくれた。

 他の同級生達は会話に夢中なのか、階段を上りきって姿が見えなくなる。一人残された修司は、ゆっくりとした動作でこちらを振り返り、背後の朝好を一瞥する。彼はその信じられないくらい美しい顎のラインを傾けて、切れ長の目で朝好を捉えた。

 修司とは二年から同じクラスなのに、そう頻繁に話すような仲ではなかった。それなのに、彼とは何度も視線を交わらせた。彼の視線は言葉よりも饒舌で、今思えば濃密な二年間だった。

 初めて修司の視線に気が付いたのは二年の梅雨頃だった気がする。休憩時間に自分の席でノートを見ていたら、ひんやりする頬に熱量のある眼差しを浴びた。その在りかを探すと、仲間に囲まれてはしゃぐ修司と視線がぶつかる。朝好が首を傾けたら、彼は一秒遅れて素知らぬ顔をさせて目をそらす。その時、朝好は気には留めなかった。

 しかし、同じ感覚を覚えたから修司を見たら、また彼と目が合う。朝好が笑いかけたら彼は伏し目がちに視線を落とす。その繰り返しだった。朝好は最初こそ己の自己肯定感の低さで、修司と目が合うなんて偶然だ自意識過剰だ、とチクチクと刺さる視線を見ない振りしていた。

 それも、学校のどこにいても、修司の眼差しが朝好を追いかけてくる。彼の目は、誰にも悟られないよう巧妙に動く。遠くを見る振りをして、視界の隅で朝好を見る。気味の悪さが先行したが、どこかで優越感すら覚え始め、見られていると意識するようになった。いつからかそれは彼に話しかける原動力となり、彼のまばゆいまでの威力が朝好の胸に点火して狼煙を上げさせた。


「なに」


 修司に薄い反応をされた。もっと喜んでくれるものかと思っていた。

 朝好は軽く動揺した。それも、懸命に笑みを作り、何と無しに場の空気を和らげようとした。いま修司の頭の中では、はてなマークが浮かんでいるのだろうなと推測する。彼に話しかけるのは最後のチャンスだから、と身の程をわきまえなかった。そんな自分が愚かなだけだから、朝好は表情を崩さなかった。


「少し話をしたかっただけ」

「それで」


 突き放すような冷たい声だった。

 彼の声が耳に残っている。近くに彼の匂いがしても、彼の息づかいを感じても、それらを甘受する権利なんて自分にはない。そう思うだけで、すうっと短く空気を吸って息を殺した。


 朝好は修司の声が好きだ。彼が朝の教室に入って来るときの「おはよう」や、友人とファッション雑誌を回し読みし「この服さ高すぎ」と悩ましげに愚痴っても、修司の声だけは圧倒的な力強さがあった。誰にも媚びず、人の色に染まらない気高さと言えば、彼本来の魅力が伝わるはずだ。

 修司は生来色素が薄いのか、茶色の瞳、茶色の髪、高い鼻、細い顎、ニキビ一つない肌、人目を引く容姿をしていた。背も朝好より頭一つ高く、ワイシャツのボタンを襟元まで留め、ネクタイが緩んでいないのも清潔感がある。成績優秀な生徒な上に優しい人柄で、彼を嫌う人を見たことがない。

 どこにでもいるような自分とは大違いで、住む世界が違う人間だ。


「早くしてくれないか」

「あっ、そうだよね」


 影の薄い朝好が次の言葉を選ぼうと、口をパクパクさせた。


「なんだよ、俺に告白でもしたいの?」


 修司は鼻の先でせせら笑う。


 そんな修司を前にし、朝好は目を開いて唇を震わせた。修司への思いは恋愛とは違う気がする。むしろ憧憬に近い。それに、彼のこんな人を見下すような顔を見たことがない。いつも彼を中心にして会話が回る。彼は人を飽きさせることがないし、決しておごらない。人を笑わすことはあっても、人を笑うような真似だけはしない男だった。そのはずだ。


「えっ」


 即座に肯定も否定もしないでいたら、修司に強い力で腕を掴まれる。彼はその長い足で、階段を大股で下りる。朝好も彼に従い、段差を二つ飛ばしで下の階に戻る。

 修司が乱暴に手を離すものだから、朝好は軽くよろめいてしまう。


「お前と話しているのを他の奴らに見られるの嫌なんだけど」


 と、素っ気なく言われた。


 頬を切るような鋭い声音だった。廊下は静まりかえっているのに、朝好の胸の中では悲痛な叫び声がこだました。修司の視線がいつも自分に向いたとしても、彼にとって朝好はただのクラスメイトだって、特別な存在ではないのだ。自分はなにか勘違いしていたようだ。自分は他の生徒とは違う、なんて少しだけ期待していた。

 窓の向こうで風が吹く。桜の花びらがひらひらと校舎の中庭で泳いでいた。それは一息吐く前にどこかへ吸い込まれていく。自分も、このうるさい心臓も、この沈み込む気持ちも、風に吹き飛ばされてしまえばいいのに。

 このまま口を開けば、きっと後悔する。情けない台詞しか出てこないだろう。

 だから、朝好は口をつぐんだ。


「そういう顔をするなよ、困るだろう」


 顔も見たくないのか、と朝好は頭を下げた。


「ごめん、でもこれだけは言わせてください」

「なんだよ」


 修司は口元に手を当てて表情を隠している。朝好が告白をすると思い、笑いをこらえているのだ。そんな彼に『また会おう』なんて言葉は場違いで、希望的観測に過ぎない戯れ言だ。もし口に出したら、自分が傷つくのは目に見えている。自分の気持ちを相手にぶつけて、それですっきりするなら、彼の顔色なんてうかがわない。一方的に喋り出している。

 朝好が確信できるのは、これから自分の進む先に修司はいないし、彼の歩む素晴らしい道とは一ミリだってかすりもしないことだ。奇跡的に彼と重なった道も今日で分岐点に入り、明日から彼はいない。朝好が出来ることと言えば、彼の背に向かい手を振り、お別れをすることくらいだ。

 これは恋愛とかはかない思いではない。自分は年を取っても、彼のいたこの二年間を忘れないだろう。だから、朝好はこの夢の時間と決別しなくてはならない。ここで彼に告げなければ、未練という呪いで一生引きずられることになる。


「野崎くん、さようなら」


 言い終えると、無性に泣けてきた。自分は勝手に一人で盛り上がって何をしているのか。

 修司は虚を突かれたみたいな顔をした。


「なんだよ、それ」


 朝好の一方的な言い様に苛立ったのか、修司は眉を寄せる。背が百八十センチもある彼に睨まれたら、顔も体格も平均的な朝好は否応なしに畏縮してしまう。それでも彼に弱いやつだと笑われないように、彼の目を見据える。


「もう、野崎くんとは会えないから、今までありがとうを伝えたくて」

「海外にでも行くのかよ」

「違う……」


 要領を得ない会話に、修司は艶のある髪をかきむしった。


「お前ってさ、本当にわけわかんねえの」

「うん、自分でも何を言いたいのか分からなくなった」


 朝好は制服のブレザーのボタンを意味もなくいじった。そう言えば、と修司の制服のボタンを見た。彼のボタンは全部外れていた。朝好のボタンを欲しがる人はいなかったからこそ、余計に彼が羨ましく思えてくる。彼の第二ボタンを欲しかったな、と朝好はぼんやりとした頭で考えた。


「そう物欲しげに見られても困るんだよな」

「そうだね、見過ぎてた」

「仕様がないな、ほら、これをやるよ」


 そう言って、修司はブレザーのポケットからアクリルキーホルダーを取り出す。地元キャラクターのキーホルダーが彼の大きな手のひらで光っている。彼はつくづく展開の読めない男だ。それでも、彼からの贈り物だ。無碍にしたら罰が当たる。


「いいの? うれしい」


 朝好は素直に喜んだ。自分はそのキャラクターが好きだ。鞄に柄の違うキーホルダーを付けている。


「女子にもらってさ、あんまりにかわいくなくて捨てようかと思っていたんだ、ゴミ箱よりもお前が引き取ったほうが少しはマシだろう」


 散々な言い草に、朝好はここで怒るべきか笑うべきか迷った。それでも修司が少しの間でも手にしたものを自分も実感でき、さらに保有できるのなら、それ以上の喜びはない。


「そうなんだ、僕はこのキャラが好きだから、うれしい……」


 朝好は目を伏せて、口元に笑みを作った。それは自然な表情ではなくて、無理にかたどった作り笑いだった。修司はかがみ込んで、朝好の顔をのぞき込んでくる。彼のきれいな顎が目に入ると、朝好は顔を上げて、至近距離で彼の茶色い目を見つめた。


「他に言うことはないの」


 修司はぐいっと手を差し出してくる。


「ありがとう」


 受け取るときに、修司の手に軽く触れた。そのゴツゴツした骨と湿った皮膚の感触に、朝好は軽く肩を揺らした。


「なんだよっ」


 修司は驚く程の速さで腕を引っ込めた。彼の激しい抵抗に、朝好の鼓膜がぷつんと小さな音を立てた。そんなに自分が嫌いなのか、そんなに嫌がらなくてもいいではないか。


 そのときになって朝好は、修司に自分の名を呼ばれていないことに気が付き、無性に悲しくなった。彼の自分勝手な眼差しはなんだったのか。そんなの無関心よりも傷つく。


「もう思い残すことはないから、これ、大事にするね、さようなら」


 朝好はか細い声で返した。もう一度、


「さようなら」


 と、言い捨てた朝好は、修司の顔を見ないように階段を駆け上る。


 開いた窓から風が吹き込む。その風が、火照った頬を撫でる。手のひらに存在するキーホルダーの角が肉をえぐる。そのときになって分かったことがある。


 自分は修司に恋をしていた。

 あんなに冷たい態度をされた。それなのに、あの熱い眼差しを思い出すだけで、涙が溢れ出しそうだ。やはり彼が好きでどうしようもなくて、これが初恋なのだと思うと、馬鹿みたいに胸が高鳴る。

 修司がクラスメイトの朝好の名を呼ばなかったし、彼とうまく話せなかった。それは自分が口下手だからだ。それだけが原因だと思いたい。いつも彼を中心に会話が回るのだから、朝好が彼に合わせたらいいのだ。冗談の一つも言えない自分を惨めに思うだけで、名無しの自分は救われるから。


 修司は、朝好の電話番号もアドレスも聞かなかった。社交辞令でもいいから、


『SNSはやってるの』


 なんて気の利いた言葉が出てくるのを、朝好は期待していた。それらしい答えだって用意してあった。修司に望んだのは、そんな小さな触れあいだった。


 一瞬だけ彼の頭に自分が存在するだけで、生きていたことも間違いではないと思える。それだけで明日は光に満ち、全てが特別なものに思える。相手の言動次第で生活が変わるなんて、自分がないと笑われそうだ。

 だけれども、初恋ってそういうものだろう。もっと独り善がりで、手探りで相手を求めるような思いだからこそ初恋なはずだ。絶対に交わらないからこそ、皆が揃って初恋は叶わないと言うのだ。そう考えないと、自分が惨めになるだけだ。明日から修司と違う道をどう歩いたらいいのか不安で、想像しただけで泣いてしまいそうになる。


「すごいな」


 初恋の原動力に感嘆するも、木っ端みじんに打ち砕かれたから、心のやり場に困った。そう、困るだけだ。それで死ぬわけがない。それでも胸の内をえぐれたような激しい痛みを覚えた。


 賑やかな教室の前で立ち止まり、窓の外を眺めた。これからの人生でおもしろおかしいことが起きるはず。きっとそうだ、と泡みたいに直ぐ消えてしまいそうな希望を抱いた。なんとなく涙が出た。

 修司の薄い唇で、一度でも自分の名を呼んでくれさえすれば良かった。朝好は初恋という呪縛に捕らわれることはないはずだ。今すぐ彼のいる場所に戻り、


『僕の名を呼んで、一度だけでいいから、見られているだけじゃ、どうしようもないんだ』


 そうしたら、しょっぱくて苦い初恋を忘れられるから、お願いだから。

 朝好を取るに足らないクラスメイトだと否定してもいい。その代わり、自分は絶対に修司を否定しないから、そのままの彼を守るなら、自分は何だってできる。そんな気がした。それを本人に伝えようとしても、ここに修司はいない。彼を探すことも、自分から動くこともできないでいる。


 廊下に人がまばらに出てきた。

 朝好はどうしてだか耐えきれなくなって顔を覆う。彼への思いで胸が膨らんで、いまにでも破裂しそうだった。

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