初恋はおしまい
佐治尚実
1-初恋
高校二年目の六月、朝から雨で教室は薄暗かった。今日もクラスは賑やかで、一時間目のチャイムが鳴る前なのに静まる気配を見せない。
「やっぱりてっこちゃんの絵が削れてる」
朝好は確認するようにつぶやく。自分でも引くくらいに声が沈んでいた。
全国でも無名に等しい『てっこちゃん』はこの街で長い歴史を持つ和菓子屋が考えた、町の名産物でもある豆大福をモチーフにしたご当地キャラクターだ。
朝好の独り言が聞こえたのか、隣の女子がこちらを見て笑う。
「平井くん、てっこちゃん好きなんだ」
「うん」
素直に言うと、女子は物珍しげな目で朝好を凝視した。
「変態だね」
女子の言葉に、朝好の無防備な心が傷ついた。
「てっこちゃんはかわいいよ」
「よくわからない生物、豆大福を擬人化した全国で不人気のキャラ、それでも?」
朝好は誰かの付けたレッテルなんて興味なかった。
「もちろん、正に大福みたいな白くて丸いフォルムはかわいらしいし、このつぶらな瞳を見てよ、本当にふっくらした黒豆みたいだ、てっこちゃん見てると元気が出るんだ、すごいお腹が空いてくる」
朝好は勉強で落ち込むとき、てっこちゃんの笑顔に癒やされた。
「なんかすごいね」
「うん、てっこちゃんはすごい」
いや平井くんが、と女子が苦笑いする。それもチャイムが鳴ると同時に教師が入ってくると、女子は前を向いた。口をきつく結んだ朝好は、机の横に鞄を掛けて、いそいそと教科書を開いた。
一時間目が終わって小休憩に入った。朝好はてっこちゃんに触れようと背をかがめた。不意に熱量のある眼差しが、朝好のひんやりとした頬に触れた気がする。
朝好は視線の在りかを探すと、仲間に囲まれてはしゃぐ
不思議なことに、それから何度も修司と視線を交わらせた。修司を見たら、高確率で彼と目が合う。朝好が笑いかけたら彼は伏し目がちに視線を落とす。その繰り返しだった。朝好は最初こそ己の自己肯定感の低さで、修司と目が合うなんて偶然だ自意識過剰だ、とチクチクと刺さる視線を意識しないようにした。
修司は生来色素が薄いのか、茶色の瞳、茶色の髪をしていた。噂によれば、修司は一度だけ教師に指導を受けたそうだ。そのあと教師に地毛を認めてもらい無罪放免となったところまで、朝好は耳にしていた。
それに彼の美貌は校内でも有名だ。その高い鼻、細い顎、切れ長の双眸、ニキビ一つない肌は、百八十五センチもある逞しい体つきと相反して、どこかアンバランスな魅力があった。更にバスケットボール部のエースときた。だからこそ修司は誰よりも人目を引いた。
規律を重んじる運動部が関係しているのか分からないけれど、修司の背中はいつ見ても真っ直ぐに伸びている。修司のブレザーとスラックスはアイロンを掛けたみたいにパリッとしており、清潔感のある所が彼の魅力をより引き立てていた。どの季節でも修司は袖口と襟元のボタンを留めている。教室が暑くても、修司がネクタイをゆるめたところを見たことがない。服の身だしなみ一つ取っても、まるで修司の正しさを表すためにだけにあるみたいに思えてくる。
成績優秀で運動部でも才能を発揮する彼は優しい人柄で、彼を嫌う人を見たことがない。どこにでもいるような自分とでは、修司と住む世界が違う。だからこそ朝好は疑問に思った。なんで人気者の修司が自分なんかに、と修司が見えると挙動不審になってしまう。
そもそも万年帰宅部で地味を体で表すような朝好が、バスケットボール部のエースである修司に軽率に話しかけられるわけがない。自分は教室の隅にいる存在であり、いつもクラスの中心にいる修司に接触でもしたら笑い物だ。
それでも修司の視線はしつように追いかけてくる。まるで、
――もっと俺だけを見ろよ。
そう言っているみたいだった。修司の眼差しは言葉よりも饒舌だ。学校のどこにいても、修司の眼差しが朝好を追いかける。彼の目は、誰にも悟られないよう巧妙に動く。遠くを見る振りをして、視界の隅で朝好を見る。そこで漸く、朝好は修司を意識するようになった。気味の悪さが先行した。が、いつからか優越感すら覚え始めていたのも事実だ。
三年に進級した朝好は、それは憂鬱な日々を送っていた。修司とは三年でも同じクラスで喜ばしいことなのに、その他の存在が朝好の平穏な生活を邪魔した。
朝好の通う高校はバスケットボールの強豪校で、全国大会の常連であった。スポーツ推薦で大学が決まっている部員もいるくらいだ。
そこでだ、バスケットボール部の四人が文系を選択し、組み分けを決めた教師の配慮からか、その全員がC組に集結した。朝好は運悪くも彼らと同じクラスになった。
彼らはそれはもう、うるさいし朝から汗臭いしで、毎日が地獄絵図だった。彼らは女子の前でも平気で下ネタを言うし、筋肉美だと上半身を見せびらかしてくる。ここは共学なのに、まるで男子校みたいだった。そんな中、修司だけが規律を守った。
「うるさいぞ」
修司が発言すると、クラスが静まり返る。
修司はこのグループの中心人物でもあった。彼は特に騒いだり周囲を威嚇したりしないで、三人のゴリラが騒ぐ横で一人、雑誌を開いていたりイヤホンで何かを聴いていたりする。修司は三人に同調せず、クールな態度を徹している。それでもグループで孤立せず、むしろ孤高の王として君臨していた。なんで修司が彼らのグループにいるのか、同じバスケットボール部だからだろうけれど、朝好は不思議でならなかった。
「そうだな、悪い」
「調子乗ったわ、乗るのは腰の上だけにしろってな」
「くだらねえな」
修司はふざけた下ネタを一蹴する。
「そうか?」
「振るのはボールくらいにしろよ」
「上手いこと言ってんじゃねえよ」
彼らの中で爆笑が起きた。そのレベルで笑うのか、と朝好は絶句した。
冬休みが終わって、これから進路の大詰めだと言うときになってもC組は騒がしかった。バスケットボール部は冬の全国大会を有終の美で飾った。それが関係しているのだろう、彼らの態度は一国の王様のようにヒートアップしていた。騒ぐ彼らを除いたクラスのほとんどがこれ見よがしに耳を塞いでいた。それは朝好も例外ではなかった。
「今日もすごいね、抗議する?」
朝好が近くにいた女子に聞いた。
「そうだね」
「高校最後の三年をゴリラの集団と過ごすとは思わなかった、私の輝かしい高校時代を返して」
そう不満を言う女子達に朝好も混ざり、他の男子も結構いた、彼らに文句を付ける。しかし、二進も三進も行かない状態になってしまった。
「この学校が全国的に有名なのも、冬に大会優勝した俺達のお陰だろうが、誇らしく思えよ」
そうだそうだ、とゴリラみたいにむさ苦しい彼らが机を揺らし、朝好達を威圧して蹴散らした。そのまま胸を叩けば、動物の威嚇行動そのものだ。
自分は動物園かジャングルに紛れ込んだのだろうか。早くここから脱出したい。バスケットボールが嫌いになる。いや、もうバスケの単語を聞くだけでノイローゼになっている。テレビでバスケットボールの話題になったらチャンネルを変えるし、街で広告を見たら曲がれ右だ。入試が近付いているのに、最近ではてっこちゃんのつぶらな瞳を見ても気持ちが穏やかにならない。
それでも、荒れ果てたクラスには、砂漠に突如現れたオアシスのような存在がいた。
「お前ら、静かにしろ、推薦がなくなるぞ」
一人でファッション雑誌を読んでいた修司が冷たくつぶやく。全員が一斉に美しい容貌の彼を見た。
「そうだ、やばいやばい」
彼らはあっさり言い、修司にうながされて着席した。こちらへの謝罪はなく、彼らは漫画をのぞき込んでわざとらしい小声で話している。
「野崎くんがいて良かった」
率先して先頭を立った女子が呆れ声を出して、自分の席に戻った。
「そうだね」
と、朝好も賛同した。朝好が男子達と顔を見合って着席したら、修司が楽しそうな声で笑った。何が彼の興味を引いたのだろう、と朝好が修司を見たら、彼と目が合った。
「修司、どうした」
近くの男子が修司に話しかけたからか、彼は「なんでもない」と言い、雑誌に目を落とした。
現代文の授業で、朝好は斜め後ろの席から、前方の席で例文を読み上げる修司の横顔を見つめた。
――かっこいいな。
朝好は修司の声が好きだ。彼が朝の教室に入って来るときの「おはよう」や、友人とファッション雑誌を回し読みしている時の、「この服さ高すぎ」と悩ましげに愚痴っても、修司の声だけは圧倒的な力強さがあった。修司は誰にも媚びず、人の色に染まらない。それを気高さと言えば、彼本来の魅力が伝わるはずだ。
「野崎、ありがとう」
教師に言われた修司が、着席する際に朝好を見た。彼の強い眼差しを浴びた朝好は、甘く思い酩酊間に襲われた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます