深夜の食堂にて

和辻義一

妖怪「ササくれ」

「オヤジぃ! ササくれぇ、ササ!」


 だいたいが日付が変わって二、三時間ぐらいがたつ頃、その客はやってくる。いわゆる「丑三つ時」ってやつだ。


 うちの店は主に繁華街で働く連中を相手にした、小汚い小さな食堂だ。脱サラして店を始めて、もうそろそろ三十年ぐらいがたつだろうか。


 客層が客層だから、営業時間はだいたい深夜零時頃から明け方まで。メニューはライスと豚汁、瓶ビール、日本酒以外は決まっていない。その日ある食材で適当に作れるものを作って出す。


 当然、値段もその時に応じて決めている。我ながらずいぶんといい加減な商売だと思うが、それでもここまで続いているのは自分でも大したものだと思う。


「あら、”ササくれガンちゃん”の登場ね」


 カウンターでかなり遅い夕食をとっていた近所のバーのママさんが、何やらうれしそうに笑って言った。


 ガンちゃんと呼ばれたおっさんは「エヘヘ」と笑いながら、いつものようにカウンターの隅っこへ座る。


 ヨレヨレのスーツ姿、小太りで髪の毛が薄く、絵に描いたような中年オヤジから「オヤジ」と呼ばれるのは、毎回少し引っかかってはいるのだが。


「へい、おまち」


 ガンちゃんのカウンターに、いつもの品を出す。一杯のコップ酒と、がんもどきの煮物。


「うめえ」


「うめえ」


 ガンちゃんはいつものように「うめえ」を連呼しながら、チビチビとコップ酒を飲み、チビチビとがんもどきの煮物をつつく。


 ガンちゃんが来るなりバーのママさんが笑った理由の一つは、これだ。ガンちゃんは場末の居酒屋で出しているようなコップ一杯の日本酒を、それはもう美味そうに飲む。そして、業務用スーパーで買ってきたものを適当に煮たがんもどきを、それはもう美味そうに食べる。


「なんだよ、って酒のことかよ」


 最近ちょくちょく顔を出すようになった、繁華街の若いホストのにーちゃんが、つまらなさそうに軽く口を尖らせる。


「今どきの若い子には、意味が分からなくても当然よね」


 ママさんがにこやかに笑う。まあ確かに、今どき酒のことを「ささ」という人間は、かなり限られてくると思うが。


「ごっそさん、また来るわ」


 ガンちゃんはそう言って、カウンターに一枚の五百円硬貨を置き、真っ赤になった顔でご機嫌そうに笑いながら店を出て行った。


「ちょ……酒一杯とがんもどきで、今どき五百円なのかよ」


 ホストのにーちゃんが、再び口を尖らせてこっちを見てきた。


 ガンちゃんの背中を見送っていたママさんが、にーちゃんとこっちを交互に見ながら笑う。


「ガンちゃんはあれでいいのよ、ねえ?」


「へぇ」


 ママさんの言うとおり。ガンちゃんはこの店を始めて間もない頃から、ずっとコップ酒とがんもどきだけを頼んで、貰う料金は五百円なのだから。


 なぜなら――


「それにしても」


 ママさんはこっちにだけ聞こえるように、こっそりと言った。


「ガンちゃんったら、昔から全然変わらないわよね……まあ、元気そうで何よりだけれど」


 そうなのである。ガンちゃんは


 もうずっと昔のこと、ガンちゃんが珍しくコップ酒一杯で大酔いした時、全身が妙に毛深くなって目の周りが黒くなり、頭の上からひょっこりと獣の耳が出た時があった。


 その時店にいた客――その中には、まだ若い頃のママさんもいたのだが――は一様に唖然となり、一斉にこっちを見てきた。


 ベロベロに酔っ払ったガンちゃんが、毛むくじゃらのまるまっちい手でカウンターに置いた五百円硬貨を確かめてから、言った。


「まいどあり」


 その時もガンちゃんは、ご機嫌そうに笑いながら店を出て行った。


「あの、えっと……良かったの、?」


 当時の客の一人から尋ねられたので、答えた。


「へぇ」


 今までに一度だって、五百円硬貨が木の葉に変わったことはない――うちの酒とがんもどきをあれだけ美味そうに飲んで喰ってくれて、支払う金が本物だったら、別に相手が人間だろうが化け狸だろうが、うちには関係のないこってさぁ。


 しかし、酒のことを「ささ」と言う辺り、ガンちゃんが一体いくつなのかは少し興味があるところだな。あと、どうやって金を工面しているのか、とか。


 ちなみに、ガンちゃんの本名は聞いたことがない。いつもがんもどきを食べるから「ガンちゃん」――そう言えば、前言撤回だ。がんもどきだけは、うちの定番メニューの一つだった。

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深夜の食堂にて 和辻義一 @super_zero

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