忘れていい痛み

月井 忠

一話完結

 指先がじんじんと痛む。

 私は左手を目の高さまであげて、それを見る。


 やっぱり、ささくれだった。


 人知れずため息をつく。

 満員電車の中で、私一人が落胆していることを気づかれないように。


 痛みは私がここにいる証拠になってくれる。

 だけど、決してありがたいことじゃない。


 流れていく景色の中に自転車に乗る子供を見つけた。


 そう言えば、子供の頃、自転車で転んだ時、派手に顔から突っ込んで怪我をしたことがあったっけ。

 多分、顔面傷だらけになっていた。


 とても痛い記憶はあるのだけど、その傷を見ていない。

 顔の傷だから鏡を見ないと、その傷は見ることができない。


 なぜかわからないけど、傷のついた顔を覚えていない。

 一度も鏡を見ていないなんてことはないから、きっと見ているはず。


 でも、覚えているのは、その後にプールの授業があって、顔がとってもしみたという記憶だけ。


 私が覚えているのは傷ではなくて、痛みだけ。


 電車はトンネルに入る。

 眺めていた窓は暗くなって、鏡のように私の顔を反射した。


 ふと後ろにいるお爺さんの顔が気になった。

 天井を見上げて、口をきつく結んでいる。


 苦しいのだろうか。


 でも、すぐに真正面を向くと普通の顔に戻った。


 良くわからない。

 何かを思い出していたのかもしれない。


 痛みというのは、思い出せる未来がなければ意味がないと思っている。

 このお爺さんは私より、未来が少ない。


 私だって急に死んでしまう可能性はあると思う。

 でも、普通に考えたら、やっぱり彼の方が早く死んでしまう。


 死を考えると、その直前の痛みを思ってしまう。


 その時の痛みを思い出す未来はない。

 その痛みはどこに行ってしまうのだろう。


 ガタッと大きく電車が揺れる。

 隣の男が私に倒れかかり、私は手すりに体を押し付けられる。


 どうでもいいことかも知れない。

 私の痛みがどこに行こうと、この世界に変化はない。


 それでも、一度はそんな世界を見てみたい。


 私は左手をまた、目の高さまで持ってくる。

 このささくれを引っ張ると、痛みとともにその世界への扉が開くのかも知れない。


 薄皮一枚を隔てたその世界はきっと、空虚だろう。

 今の私みたいに。


 ささくれの下には指輪がある。


 ささくれは左手の薬指にできている。


 結婚式はもうすぐだ。

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