KAC20244 ♪ころんだ日の後のささくれ

扉を開けて

　カランカランという古いカウベルの音で彼女は

まどろみから覚めた

あら　いらっしゃ……　

ごめんなさいね　ちょっと古い知り合いに似てたから

そんなわけないわね　お客さん全然若いもの

若いわよ　３６なんかで「もう」って言われたら

私なんかどうしたらいいのよ

ごめんね　若い子いなくって　

ここもねえ　この先の炭鉱が閉山するまでは賑やかな温泉街でさ

若い子もいっぱいいたし　芸者さんだっていたのよ

水割りでいい？

そんな事ないわよ　私はここに流れ着いた時には３０出てたから　

おばはんって最初っから言われてたわよ

まあ　だからこんなところに３０年も居られたんだわね

私？　還子　還暦の還よ　

６０になった時に　このあたりの古いお客さんがね　お祝いしてくれた

ついでに　もうすみれちゃんでもないだろうから　還子にしろって

じゃあ　そうするから　古希子になるまで全員通って来いよって

あれから　もう二人死んじゃった

ごめんなさいね　うっとうしい事いっちゃって

はい　煮込み　お通しよ　

ええ手作りよ　乾きものってなんか嫌じゃない？

えっ　お腹すいてんの？　焼うどんか焼きそばか　おむすびならできる

わかった　ねえ　そんなカウンターのすみっこにいないで

こっちにおいでよ　今日はもう　誰も来ないから一人でも遠慮しないでさ

あっ！！　ごめんなさい！　カウンターささくれてた？　

袖引っかけた？　上着大丈夫？　ごめんね！

このカウンター　先代のママの時代からだから７０～８０年かしら　

もう水分抜けてカッサカサなのね　私と一緒よ　　

本当に袖　大丈夫？　ここガムテープ貼っとくわね　もう一つ席ずれて座って

ああその焼け焦げはね　タバコをそこで消してから灰皿に捨てる癖の悪い

客の跡　大目に見てあげるからそこしか座っちゃダメって言ってたの

もう　死んじゃったけどさ

やだ～　辛気臭い話バッカごめんね　

あら！　お客さん水割りの氷を指で突くの？　お父さんの癖なの　そうなんだ

私もね　昔の知り合いにいたわ　そういう人

はい　ごめんね　私おむすび三角に握れないのよ　丸くても味は一緒よ

作り置きのおかず　あっためるね　いいのよこれはサービス

お客さん　昔不義理した人に似てるから　その人の代りにお詫び受けて

私　その人のところから逃げて　夢追いかけて走ったんだけどさ

上手く行く訳ないよね　ただただ　心の中がささくれただけ

あら珍しい　外に人が来たみたいよ　えっ　警察？　

さっき電話してたの警察だったの？　自首？　そうか

ううん聞かない　お客さんも私の不義理を聞かないでいてくれたから

心の中のささくれなんて　しゃべって消えるもんじゃないしね

でも待ってるよ　私が古希子になる時には　きっと来てね

入ってきた男たちと少し話して　男は店を出て行った　

カウベルの音に重なって「待っててくれよ」という声が聞こえた