序章:伯爵令嬢と侯爵令嬢は運命的な出会いを果たす①
南方に広大な領地を持つオクレール伯爵家の二番目の娘として、シャルロットは生を
オクレールは酪農や農業が盛んな地域だ。豊かな自然が広がっている。伯爵家の娘として生まれたシャルロットも広大なオクレールの地で伸び伸びと育った。
「私はこのオクレールの大地が大好きなんだ。愛してるんだよ」
父はシャルロットにそう語った。
伯爵の地位にありながら、シャルロットの父は名声や富や地位にほとんど関心のない人だった。
領地経営に全ての情熱をささげ、「新しい
領地のこととなると、他のことが目に入らなくなるところがある。しかし、シャルロットにとってはどんな欠点がっても、敬愛する父であった。
その日、シャルロットは一ヵ月ぶりにオクレール伯爵邸に帰ってきた。
ここ一年、シャルロットは領地の外れにある小さな村で子供たちに勉強を教えていた。そのために、数ヵ月単位で村に滞在し、一日二日だけ実家に帰るという生活を送っていたのだ。それが、ようやく村の子供たちの教育問題は一段落ついた。もうシャルロットがつきっきりで村にいる必要はなくなった。
そのため、シャルロットは子供たちに別れを告げ、「また落ち着いたら遊びに来るわ」という約束をして実家に戻ってきたところだった。
「ただいま」
懐かしささえ感じる我が家だ。
玄関をくぐり、帰宅を告げる。しかし、玄関ホールには誰もいない。
シャルロットは一度手に持っていた大きな袋を床に置く。村を出る際に村人から貰った野菜が入っている袋だ。
先に厨房に野菜を持っていくか、書斎にいるだろう父親に声をかけるか考えていると、階段上から父が現れた。
シャルロットは一ヶ月ぶりに再会した父に、笑顔を見せた。
「父様、ただいま。一ヵ月ぶりね! あのね、村の人がお礼にってお野菜を分けてくれたのよ。父様にも感謝していたわ。父様のおかげで村の農作業の効率もぐっと良くなって、たくさん収穫出来るようになってきたって」
シャルロットが笑いかけるが、父の反応がおかしい。
いつもなら「それは良かった」と満面の笑みを返してくれるのに、父の顔色は真っ青だった。
「どうかしたの?」
普段と違う父の様子にシャルロットは首を傾げる。
父は「シャーリィ」と愛称を呼びと、すごい勢いで階段を駆け下りてきた。あまりの勢いに思わず一歩後ろに下がったシャルロットの肩を、父が力強く掴む。
「今すぐ。今すぐ、王都へ行きなさい」
「へ?」
話が全く読めない。
シャルロットが不在にしていた一ヶ月の間に何かあったのだろうか。
「あらあら。それじゃあ、シャーリィがびっくりするじゃない」
階段上から声が落ちてくる。
シャルロットが顔を上げると、父に遅れて階段上に現われたのは母だった。母はゆっくりとした足取りで階段を下りてくる。
「母様、どういうこと? 何かあったの?」
シャルロットは状況を把握していそうな母に問いかける。母は頬に手をあてる。
「さっき、ベティから手紙が来たのよ」
そう言われ、父の手許に視線を落とす。右手には封筒と便箋が握られている。
ベティというのはシャルロットの十歳年上の姉、エリザベトのことだ。現在は王都のテシエ子爵家に嫁いでいて、定期的に手紙のやり取りをしている。
(姉様になにかあったのかしら)
そんな不安が胸をよぎる。
「姉様はなんだって?」
「ええ。『一体いつになったらシャーリィを社交界デビューさせるつもりなのか』って」
「――あ」
そう言われて、シャルロットも思い出した。
シャルロットはまだ十六歳だが、来月には十七歳になる。
一般的に貴族令嬢は十五歳、十六歳で社交界デビューをする。そして、社交界で結婚相手を探すのが通例だ。そのため、地方で暮らしている貴族令嬢もそれぐらいの歳になると一時的に王都で生活する。例外は元々婚約者がいる令嬢だけだ。
シャルロットには婚約者はいない。
そのため、早ければ二年前、遅くても一年前には王都で社交界デビューをしていなければならない年齢だ。
――しかし、シャルロットを含め、家族全員そのことを失念していた。
そもそも思い返すと、姉にも婚約者がいなかった。そのため、姉は十二年前に王都で社交界デビューをし、そこで結婚相手を見つけたのだ。
父は申し訳なさそうに言う。
「三年ぐらい前までは覚えてたんだが、ここ数年は治水事業の件で忙しかったからすっかり忘れてしまっていてな。本当に悪かった、シャーリィ」
「私もすっかり忘れていたわ。ごめんなさいね」
父が領地以外のことに関して忘れやすいのも、のんびり屋の母がうっかりするのもいつものことだ。
だからシャルロットさえ覚えていれば問題はなかった。しかし、シャルロットもここ一年、領地の外れにある村の件で頭がいっぱいだった。
確かに、村に行く前ぐらいには「そろそろ社交界デビューのことを父様に相談しないと」なんてことを考えていたような気もする。しかし、今の今まで、すっかり自分の社交界デビューの話を忘れていた。
どうやら、父親の熱中すると忘れっぽい欠点をシャルロットも引き継いでしまったらしい。
シャルロットは頭を抱える。
「どうしよう。社交界デビューって今からでも間に合うものなの?」
「大丈夫よ。何かしらの事情でデビューが遅くなるご令嬢もいるのよ。でも、出来るだけ早い方がいいわね」
母は、「貴方」と父と向き合う。
「シャーリィも今帰ってきたばかりよ。王都に向かう準備も出来ていないんだから、今すぐ出発なんて無理よ。急いで用意をして、終わり次第シャルロットを王都へ向かわせましょう」
「そ、そうだな。そうしよう」
こういう場面では動転することのない母の方がしっかりしている。父は「それがいい」と何度も何度も頷く。
「シャーリィ。本来であれば私も一緒に王都へ向かうべきなのだが……知ってのとおり今、治水工事が佳境でな。領地を離れるわけにはいかないんだ」
オクレールの北部に大きな川が流れている。
その水が豊かな自然を育む手助けにもなっているのだが、その反面上流部で大雨が降ると氾濫してしまう。治水問題は長年抱えるオクレールの課題であった。
父は現在、異国から招いた技術者の力を借りて、大規模な治水工事を行っている。
シャルロットも父が治水事業にどれだけ情熱を注いでいるかはよく知っている。川の氾濫がなくなれば、今まで何度も氾濫の被害に遭っていた周囲の領民たちを救うことになる。
シャルロットは胸に手をあて、満面の笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。王都には姉様もいるもの。私一人で王都に向かうわ」
「本当にすまない。エライユ伯爵は覚えているか? 昔、何度か遊びに来てくれただろう。代わりに彼に後見人を頼もう。きっと引き受けてくれるはずだ」
その日父は大急ぎで王都に住む親戚であるエライユ伯爵に手紙を書いた。母は仕立て屋を呼び、シャルロットが王都で着るためのドレスを注文する。
その数日後にはエライユ伯爵から後見人なることを了承する返事が返ってきた。
仕立て屋が大急ぎでドレスを完成させるのを待ち、その二週間後、シャルロットは王都へと旅立った。
王都のエライユ伯爵邸でシャルロットを出迎えたのはエライユ伯爵一家だけではなかった。
赤い華やかなドレス――曰く、王都では普通らしいが――を身にまとい、我が物顔で応接間にいたのは姉のエリザベトだ。
姉と実際に顔を合わせるのは四年前に一度姉が帰郷したとき以来だった。
「姉様、久しぶり。元気にしてた?」
シャルロットは久しぶりに対面に思わずはしゃいだ声で姉を呼ぶ。しかし、姉は四年ぶりに再会した妹を睨みつけた。
「アンタね! 大事な社交界デビューを忘れるなんてどうかしてるんじゃないの! 私が手紙を送ってなかったらどうなってたと思ってるの!」
エリザベトの発言にシャルロットは何も言い返せない。
姉は十二年前、自身の社交界デビューの際は自ら両親をせっついていた。かなりのしっかり者だ。
「父様と母様も娘の社交界デビューを忘れるなんて信じられないわ! シャーリィの将来がかかってるのに!」
姉の怒りの矛先は両親にも向く。
しばらく、姉の説教は続く。シャルロットはただひたすら姉の話に頷き続ける。姉は一通り言いたいことを言い終えると、ようやく四年のぶりの再会を喜んでくれた。
「それにしても、もうシャーリィも結婚する歳になったのね。時間が経つのは早いわ」
「エリクとソレーヌももう九歳と七歳でしょ? 大きくなったんだろうなあ。今度会いに行ってもいい?」
エリクとソレーヌというのは姉の子供たちのことだ。
「ええ、もちろん。でも、アンタの社交界デビューの話を進めるのが先よ。そのあたりはエライユ伯爵ともお話ししないといけないんだけど。――ねえ、シャルロット」
エリザベトは真剣な眼差しでシャルロットを見つめた。
「先に言っておくわ。アンタが
シャルロットは目を瞬かせる。
――なぜそんなことを言われたのか分からない。
シャルロットの心の内を読んだのか、エリザベトは呆れたように言葉を続ける。
「アンタいつも余計なことに首を突っ込んでは目的を見失うじゃない。今回だっていい例でしょ? 最初は子供に絵本を読んであげたのがいつの間にか子供十数人集めて、先生みたいな真似事をし始めちゃったんでしょう? その話聞いたときはびっくりしたわよ。それで社交界デビューのこと忘れちゃうなんてね」
「あはははは」
姉の言うとおりだった。
最初は絵本の読み聞かせがきっかけだった。
一年前、シャルロットは父の代わりに視察に行った村で一人の少女に出会った。少し時間が出来たシャルロットは彼女とお喋りをし、仲良くなった少女はシャルロットに絵本を読んでほしいとせがんだ。
そこは本当に小さな村で、学校もない。大人たちは忙しく、子供たちに文字を教える余裕もない。そのため、他の町なら文字の読み書きが出来ておかしくない年齢なのに、その子は絵本に書かれた簡単な単語も読めなかったのだ。
――これは良くないわ。
そう思ったシャルロットは父に相談した。
そもそもシャルロットが村に視察に行ったのは、その村の農業がうまくいっていなかったからだ。
父の知識ならその村の農作業の効率を上げることが出来る。その上で大人たちに余裕が出来れば、子供たちも文字の読み書きくらいは学べるようになるだろう。
しかし、それは将来的な話だ。新しい農法を教わったところですぐに成果は出ない。
だから、シャルロットは村に滞在し、大人たちの代わりに子供たちに勉強を教えることにした。
教えるのは文字の読み書きと簡単な計算。しかし、もっと勉強したいという子供たちにはもっと複雑な算数や歴史も教えた。
一年をかけ、シャルロットは彼らを熱心に指導した。子供たちは他の町の子供たちと遜色なく文字が読めるようになったのだ。
とはいえ、シャルロットもずっと村に残り、教師の真似事を続けるわけにはいかない。
一番年上の子供たちにシャルロット流の勉強の指導方法を教え、下の子たちに代わりに勉強を教えてほしいと頼んだ。
彼らが新しい先生役をこなせるようになったのを確認してから、シャルロットは村に別れを告げたのだ。
「……だって、放っておけなかったんだもの」
「ホントお人好しね。お節介というべきかもしれないけど」
今思えば、シャルロットは村の子供が読み書きが出来ていないことを父に任せるべきだったかもしれない。きっと、父は部下を教師として派遣してくれただろう。
でも、シャルロットは村の状況を知ってしまった。子供たちがどういう環境にいるかを知ってしまった。村の子供と仲良くなった。
あの状況でシャルロットは全てを父に任せるという選択肢はとれなかった。
「王都じゃ領地以上にいろんな人間の色んな思惑が複雑に入り混じってるのよ。余計なことに首突っ込んで、どんな目に遭うか分かったもんじゃないのよ」
シャルロットは生唾を飲み込む。
「王都って怖いのね」
「表向きには平和なものだけどね。権力とか利権とか、そういうところに関わらなければ楽しく平和に暮らせるわよ。
姉は王都で平和に暮らしていく術を理解しているのだろう。
「まずは結婚相手を見つけることを最優先すること。シャーリィも顔は可愛い部類には入るんだからちょっと頑張ればすぐに男は引っかかってくれるわよ」
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