第3話
もう二度と顔を合わせたくないと思ってはいたものの、授業が同じなのでそうもいかない。失礼な男のせいで単位を落とすなど、それこそ業腹だ。
先に席についていると、また東屋さんが隣に来てしまう可能性がある。だから私はわざとギリギリの時間に教室に入った。東屋さんは一番後ろの席に座っていて、ちらと目が合ったが無視した。空席を探せば案の定一番前の席しか空いていなかったが、それは仕方ない。溜息を吐いて席についた。
教授の目の前であからさまに聞いていない態度はできない。手元をいじっているのは目立つ。私は授業中ずっといらいらしながら、無意識に髪を引っ張っていた。
チャイムが鳴って席を立つ。さっさと教室を出て行った私を、追いかけてくる足音がした。
「なぁ、おい!」
名前を知らないから、呼べないのだろう。私に声をかけているとわかってはいたが、呼ばれていないから私じゃないとばかりに無視した。
「英文学科二年、
驚いて、思わず足を止め振り返る。目の前には、追いついた東屋さんが立っていた。
「なんで……」
「聞いたら教えてくれた」
わざわざ調べたというのか。背筋が寒くなった。
教えてくれた、というのは誰の事だろう。それを言ったら相手が怒られるから濁したのだろうが、わからない方が恐怖だ。
怯えて後退った私に、東屋さんは深く頭を下げた。
「ごめん」
そうくるとは思わなくて、私は息を呑んでその頭を見つめた。
「この前は、失礼な言い方をした。百千が気を悪くしたのは当然だ。侮辱する意図はなかった。本当、ごめん」
本気で謝っているように見えて、私は狼狽えた。それから周囲が僅かにざわついているのに気づいて、はっとした。そうだ、ここは往来だ。こんなの目立って仕方がない。
「わ、わかりました。いいから、場所変えて」
これからも授業は同じなのだし、名前もバレている。このまま付きまとわれるくらいなら、と私はとにかく一度話を聞くことにした。
人目のない場所は怖いので、カフェテラスに移動した私達は、テーブルに向かい合って座っていた。
私の前には、奢ってもらったカフェオレが湯気を立てている。自分で払うと言ったが、この前の詫びだと言われたのでありがたく受け取った。
「それで……東屋さん、でしたっけ」
「同じ学年なんだし、タメ口でいいよ。俺もそうしてるし」
「東屋さん。何が目的なの?」
「目的……って言われると、なんか微妙な気分だけど。その、百千の癖」
ちらりと視線が指先に移って、私は思わず手を隠した。
「ただの癖だって言ってたけど、それ、直した方がいい。怪我する程度が常態化してるのは、良くない」
「そんなの、東屋さんに言われる筋合いない」
「俺以外には誰に言われた?」
「……言われたこと、ない」
「親にも?」
「ないってば」
だからなんだと言うのか。じっと見てくる目が居心地悪くて、
「だったら、俺が言うしかないだろ。他の人が見ててくれるならいいけどさ。癖って本人は無自覚だから、他人が指摘しないと直らない」
「何それ。私の癖が直ろうと直るまいと、東屋さんに全然関係ないじゃない。ほっといてよ」
「直したいとは、思わない?」
「別に」
「でも手を隠した。人から見られたくないと思ってるんだろ」
かちんときて、東屋さんを睨みつける。彼は平然とした態度で話を続けた。
「俺、心理学科なんだよね」
「……聞いたけど」
「百千のそれ。良かったら、俺の研究テーマにさせてくれないかな」
「――は?」
「人の癖が直せるかどうか。協力してくれたら、勿論謝礼はする。俺にできることなら、そっちの研究にも付き合うし。百千が嫌がることはしない。だから頼めないか」
なんだ、と拍子抜けした気分だった。要はモルモットが欲しかっただけか。それはそれでどうかと思うが、ナンパよりはよほどマシだった。心理学であれば、実際に対人でデータを取れた方がいいというのはなんとなく推察できる。
人の癖は多種多様である。貧乏ゆすりとか、舌打ちとか、特定のケースでしか出てこないような癖よりも、日常的に出やすい癖の方が研究しやすいだろう。それも皮膚の損傷があるとなれば、指の状態を写真にでも残しておけば、経過観察は容易だ。
研究対象としてちょうど良かったのだろうな、と私は結論付けた。
「そういうことなら、いいよ」
大学では相互扶助が大切だ。授業や研究で他者の手が必要となった時に、高校までのようにクラスメイトというのがいないので、自分で協力者を探すのはなかなか骨が折れる。学科を越えた人脈が必要な場合など、人間関係が得意でないと本当に途方に暮れる。それを考えると、二年の内に他学科に知り合いが作れるというのは悪くないかもしれない。
「なら、交渉成立ってことで。これからよろしくな」
変な人だったら途中で手を切ればいいしな、と軽く考えて、私は東屋さんと握手を交わした。
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