第2話

 大学の講義は、だいたい長机で行われる。高校までのような一人一席の小さな机を使うことはまずない。だから隣に知らない人が座ることは当たり前にある。

 退屈な一般教養の授業で、私は早めに後ろの方の席を陣取っていた。寝ているのがバレるから、前の方は誰も座りたがらない。

 ガタリと椅子を引く音がした。見ると、私の座っている長机に、一席空けて男が座った。後ろの席は人気だから、私はちらりと視線を向けただけで、大して気にもしなかった。向こうも私に一瞥もくれなかった。

 あくびの出るような授業を右から左へ聞き流す。つまらないからか、また私の癖が出ていた。ノートの上に、毟った皮膚がぱらぱらと落ちる。これはゴミになるので、最後に消しカスと一緒にまとめて捨てる。

 無心で毟って、毟って、つい深追いしすぎて、血が出た。ノートの上にぱたぱたと血が落ちる。

 あーあ、と思った。じんじんと鈍い痛みで指先が痺れる。

 血が出ているというのに、まだべろっとなっている皮が気になって、私はその部分だけでも剥がしてしまいたいと爪をかけた。その瞬間。


「――――!?」


 心臓が飛び出るかと思った。授業中でなければ、悲鳴を上げていただろう。

 丸い目で凝視する私と目を合わせながらも、隣の男は私の手を掴んだまま放さなかった。


「……な、なんですか」


 怯えながらも、私は小声で問うた。男は私の恐怖心と猜疑心に気づいたようで狼狽えた様子を見せたが、それでも手は放さなかった。

 

「……それ以上触るな」

「は?」


 なんだって初対面の男にそんなことを言われなければならないのか。思わず喧嘩腰な声が出てしまった。


「絆創膏とか持ってないのか。女子だろ」

「は? 持ってませんけど」


 女子なら絆創膏くらい持っている、というのは偏見だ。刺々しい声で返すと、男は溜息を吐いて手を放した。

 なんなんだ、と思いながら前を向くと、横から絆創膏が差し出された。どうやら手を放したのは、これを自分の鞄から取り出すためだったらしい。


「なんですか」

「貼っとけ」

「要りません」

「いいから」


 小声ながらも強い口調で押し付けられて、それ以上問答をしたくなかった私は渋々受け取って指に巻いた。

 絆創膏のクッションに、じわじわと赤が滲んでいく。

 それ以降も度々隣から視線を感じて、私はその後の授業中、ずっと居心地の悪い思いをするはめになった。指先をいじるのが躊躇われて、私は机に肘をついたまま、ずっと髪を引っ張っていた。


 やっとチャイムが鳴って、授業が終わる。さっさと席を立とうとした私は、隣の男に呼び止められた。


「俺、心理学科二年の東屋あずまや恭一」

「……そうですか」

「名乗ったんだから名乗れよ」

「知りませんよ。そっちが勝手に名乗っただけでしょ」

「名前も知らない男と話すの怖いと思って名乗ってやったんだろ」

「は? 私はあなたと話すことなんてありませんけど」

「いいから。ちょっとだけ話せるか」

「嫌です」

「学食奢るから」

「うわ、ナンパですか? 他所でやってください」


 そのまま立ち去ろうとしたが、東屋と名乗った男は私の手を掴んできた。


「ちょっと、なんですか。しつこいと人呼びますよ」

「あんたさ。これ、いつも?」

「は? なに」

「指。今日の傷だけじゃなくて、全部ぼろぼろじゃん」


 かっと顔が熱くなった。なんだって初対面の男に外見のことを貶されなくてはならないのか。馬鹿にされた気分だった。


「ほっといてください、癖なんです!」

「癖? いつから?」

「昔からずっとこうなんです! 癖くらい誰にでもあるでしょ、なんなの、いちいち指摘しないと気が済まないの? あなたに迷惑かけてないでしょ」

「かけてる」

「はぁ!?」

「あんたのことが気になって全然授業に集中できなかった」


 やはり新手のナンパなのだろうか。私はもう逃げようと思って、東屋さんの手を振りほどこうとした。


「あんたのそれ、自傷だって言われたことない?」


 動きが止まった。言われた言葉がすぐには呑み込めなくて、呆然とした表情で私は東屋さんを見つめていた。

 じわじわと込み上げたのは、羞恥か、怒りか。とにかく不愉快な気分で、私は思い切り東屋さんの手を振り払った。


「ばっかじゃないの!?」


 怒鳴りつけて、私は今度こそその場を走り去った。

 東屋さんは追いかけては来なかった。


 馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの!

 なんだ自傷って。私は今まで、手首を切ったりとか、そんなことは一度もしたことがない。あんなのと一緒にしてほしくない。傷を作って自分を可哀そうがっている奴らと同じなんかじゃない。

 ただの手癖だ。子どもの手遊びと一緒だ。このくらい、いくらでもいるじゃないか。なんだあの言い草は!


 腹が立って仕方なかった。何故それほど腹が立っているのかは、きっとあの男が失礼すぎたせいだ。

 それだけだ。

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