10.スマラグドスの母なる大地
掴んだ布を引っ張る形で、姫を手元に奪おうとした。だが、その手は布を掴んだまま、持ち主から離れる。悲鳴を上げた騎士の右手は、肘の下で切り落とされていた。布に残った手首が揺れる。
「汚い手で触れないでください」
ぼやいた声は男だった。掛け声もなく身を起こした彼は、口笛を吹く。音で呼ばれた愛馬が駆け寄った。将軍ルードルフの馬と並走する健脚は栗毛、手綱を引き寄せて飛び移る。頭まで被っていた布が後ろへ吹き飛んだ。
「すべて切り捨てます、逃がさないでくださいね。ボス」
「わかっている」
口調は嫌味なほど丁寧で、整った顔の貴族然としたカミルは、ルードルフをボスと呼称した。彼らの主君は皇帝ではなく、一族の総領であるルードルフだ。にやりと笑う二人は、あっという間に追っ手を減らした。隠れて並走した部下も合流し、公爵家が差し向けた追っ手はすべて片付ける。
文字通り、全滅だった。聞き出す必要のある情報も、手加減する理由もない。ただ邪魔な障害物を除去しただけの話だ。
「それじゃ、先行する馬車に合流しましょう」
深夜に屋敷を出た彼らは、足の遅い馬車を連れていた。アンネリースの乳母エラに嘆願され、ルードルフが許可を出したのだ。そのため、夜明け前の脱出予定が早まった。結論から言えば、大正解だろう。
速度が出せず、街道沿いを走るしかない馬車は、足手纏いだった。女も騎乗するスマラグドスの民にとって、面倒を増やす材料だ。それでも、総領の決断に誰も文句を言わない。この結束こそが、一族の強みだった。
そもそも、スマラグドスは家名ではない。放牧を生業とする一族の総称だった。いつしか騎乗の腕を買われ、戦いへ赴くようになる。傭兵稼業を始めてみれば、思いがけぬ大金が手に入った。その金で、放牧に必要な領地を手に入れる。
傭兵で稼いだ金を注ぎ込んだ土地は、山や草原を中心に一つの国を形成するほどの面積があった。農耕を中心に発展する帝国と、上手に住み分けた形だ。農業に向かない土地でも、放牧には十分すぎる草が生える。
一族の中でも屈強な男達が、出稼ぎとして皇帝ウルリヒと契約を交わした。これがジャスパー帝国最強の将軍、誕生の事情である。
膝で馬を操り、大きな剣を振って戦う。二人の足元には、倒された騎士が転がった。街道から外れていることもあり、そのまま放置する。勝手に獣が片付けてくれるだろう。
「合流するぞ」
「はい」
そんなに心配しなくとも、もう領地内に入った頃ですけれどね。口に出さず、器用に表情で呆れたと表明する副官を急かす。ルードルフの愛馬は背に乗る主人の興奮を受け、ぶるりと身震いして駆け出した。
街道を進ませたのは、馬車と護衛達。街道沿いに降りて囮となったのが、スマラグドスの傭兵達。留まって追っ手を処理するのが、隊長と副長だ。分担された役割をそれぞれに果たし、彼らは損傷なく己の領地へ戻った。
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