初恋

祐里(猫部)

1.リップクリーム


 『カルマ』という言葉を知ったのは、小学生の時。


「覚えておきなさい、由里子ゆりこ。良いことも悪いことも、自分がしたことはいずれ自分に返ってくるという意味だよ」


 そう、祖父は言っていた。私は難しい言葉を覚えるのが格好いいと思っていたため、笑顔で「うん」とうなずいた。


 小学生の頃の私は、外見に自信がなく、内気で、真面目を絵に描いたような子供だった。同じクラスの誰かが悪ふざけをして授業がストップしてしまうと、イライラした。でもそれを言葉や態度で外に出すことはできなかった。何か発言をして、自分が注目されるのが嫌だったから。ただ、早く再開してほしいと心の中だけで願っていた。


 六年生の秋、家庭科の調理実習があった。最上級生にもなると、実習には野菜の皮をむく、食材を切るという作業も含まれており、用意された野菜の中には人参があった。固い人参の皮を上手にむく方法を同じ班の人たちが考えていたが、道具は包丁のみだったため、結論はなかなか出なかった。すると、隣の班の川村かわむらくんが「こうするといいよ」と話しかけてきた。そして包丁を人参の表面に直角に当て、こするように皮を削ぎ落とすというやり方を、実際にやってみせてくれた。


 私は、気付くと「すごい、ありがとう」と、小声ながらも素直に感謝の言葉を伝えていた。川村くんはそれまでほとんど話したことがなかった私に、「弟と妹がいて、俺が色々やらないといけないから」と照れくさそうに言った。それから少しの間、共働きで帰りが遅い両親に代わって買い物や料理を引き受けていること、中学生になっても部活や塾通いなどはできないということなどを話してくれた。


 川村くんは、悪ふざけをしない優等生だった。彼なら塾通いなどしなくても成績を維持できると思ったが、そんなことは言えなかった。ただ相槌を打つだけで、本当に、何も言えなかった。感謝の言葉以外は。



 ◇◇



 小学生最後の冬休みが終わり、二週間ぶりの登校。まずは席替えだと、先生が張り切ってくじを作った。くじ引きで、私と川村くんは一番後ろの席の隣同士になった。うれしかった。でもやはり、うれしいと口に出すことはできなかった。


「よかった、野原のはらさんが隣で」


 こちらを向く笑顔に言われ、どきりと胸が鳴った。こんな時、どんな顔をしていいかわからない。とりあえず「ありがとう」とちぐはぐな返答をしたきり、あとは顔を伏せていた。頬が赤くなっているかもと思うと、恥ずかしくて仕方がなかったのだ。


 でも下を向いてばかりいるのも感じが悪いかもしれないと、川村くんの方をちらりと見ると、ささくれが目についた。その細い指で毎日炊事をしているから、寒い時期だからと推測できたが、私がそれを伝えたところでささくれが治るわけではないと思うと、何も言葉は出てこなかった。


 川村くんが隣の席になったことで、私の学校生活には少し色がついた。彼は、こんな内気な私にも頻繁に声をかけてくれたのだ。「次は体育か。着替えるの寒くて嫌だよね」「何か好きなアニメある?」「この間CD買ってもらったんだ」「帰り道、いつも寝てる猫いるじゃん? 昨日見たら起きてたんだよ」などなど、話題は様々だった。誰かと取りとめなく話すのは楽しいことだと、私は川村くんから教わった。


 自分からも川村くんに話しかけられるようになった一月下旬、祖母が私にリップクリームを買ってきてくれた。私の唇が乾燥して荒れているのを心配してのことだった。ポップな色合いでかわいらしいトナカイが描かれており、蓋を開けると苺のいい香りがした。つけてみると透明感のある薄ピンク色が唇を覆い、私をほんの少しだけかわいく見せてくれた。


 大いに気に入ったリップクリームを唇に塗り、私は学校に行った。そして、ランドセルの中に入れておき、給食のあとや体育で外に出る前にも塗るつもりだった。それをクラスの騒がしい部類の女子に目ざとく見つけられ、帰りの会で糾弾されてしまった。


「色がつくものなんて、小学生にはまだ早い! もう持ってこないように! わかったな!?」


 悪ふざけもせず、真面目にいい子にしていたのに、こんなことで先生に怒られるなんて。大事なリップクリームで、私の唇を乾燥した風から守ってくれるものなのに。そう思うと悲しくて悲しくて、涙がとめどなく出てきてしまう。泣きじゃくる私に、川村くんは、そっと言葉をくれた。


「かわいいリップだね。学校じゃなくて別のところでつければいいよ」


 涙をハンカチで拭って隣を見ると、優しい笑顔の彼がいる。こちらを見ている。目が合う。私が答えられずにいると、またそっと「ね?」と言ってくれる。


 こくりとうなずくと、私は涙を止めるべく、再びハンカチを目に当てた。



 ◇◇



 二月に入ってから、ショックなことがあった。川村くんが転校することになったと、朝礼の時間に先生が言ったのだ。


「えー、ご家庭の事情で、川村くんは来週転校することになりました。では、本人から挨拶を……川村、前に出てきなさい」


 偉そうな言い方で、先生は彼に挨拶を促す。挨拶なんて聞きたくない。卒業までこのままでいい、もうすぐ三月なのに、卒業したら同じ中学校に通い始めるだけなのに。心は、そんな気持ちでいっぱいになっていた。


「次の学校に行っても、色々がんばりたいと思っています。みなさん、手紙ください。返事書きます」


 そう、川村くんは言った。手紙を書いてもいいんだと、悲しみに押し潰されそうになりながらも、私は顔を上げた。


「この学校には十四日まで通います。それまでよろしくお願いします」


 そこで川村くんの挨拶は途切れた。目が、合った気がした。十四日までということを覚えておこうと、強く思った。

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