第38話 貞潔の百合 Ⅲ
「あ、アリス、お帰り!」
家に帰ると、エクスが出迎えてくれる。それだけのことが、少しだけ嬉しい。
「いい子にしてた? 変なことしてないでしょうね?」
キッチンの椅子に
「今日は、いいもの集めてた!」
「いいもの?」
「テーブルの上にある!」
振り向くと、キッチンのテーブルの上に、昨日の夕食で中身を空けた缶が置いてある。
缶をのぞき込んでみると——
数十匹の
「いやあああ! もう! こんなの家に持ってこないの!」
「待って! ちゃんと面倒見るから! 捨てないで!」
止めに入るエクスを振り切って、庭に蟻を放つ。
アリスは制服から
「今日は学校で、何したんだ?」
同じくソファーにごろりと転がるエクスが聞いてくる。無防備な姿は、野生を忘れた子犬のようだ。
「……リリウム隊の隊長と戦った」
「へえ? 学校ってそんなことするんだ? 強かった?」
「うん……」
思い出すだけで手が震える。
胸元に押し付けられた剣。全身が凍りつくような感覚に襲われる。
だが、何もできなかった訳じゃない——
「ねえ、エクス。私、何か強くなってる気がするんだけど、そんなことってある?」
「強くなる?」
「うん。エクスと一緒に戦うようになる前より、剣術が上手くなったっていうか……」
前のアリスだったら文字通り、手も足も出なかっただろう。だが、リリウム隊隊長相手に、あと一歩で届きそうな位置まで迫ることができた。これは一体、どういうことなのだろうか。
「まあな。あると思うぞ。実際にアリスの身体を動かしてるのは俺だけど、戦いの経験はアリスの身体に
「そうなんだ……?」
「俺が剣になったときの『武器』として威力は霊素の量で決まるけど、アリス本体の、そういう地味な努力や経験もそこそこ役に立つ。だから筋肉をもっと鍛えろって言っている」
「う……」
筋肉を鍛えるのは嫌だ。アリスは熱くるしいのが苦手である。だが、もっと強くなりたい——
「ねえ、エクス」
「何? やっぱり蟻、飼ってもいい?」
「蟻は飼っちゃ駄目」
ええー、と残念そうな声を上げるエクスを見つめる。一呼吸置いて、話す。
「私、あとどれくらい強くなれば、
エクスの動きがぴたり、と止まる。
「いや、今は無理なのはわかっているけど……」
言葉を続けようとすると——
「
「え……」
いつになく強いエクスの口調に、思わず息を呑む。
「
「でもさ、もしもあいつを倒すことができたのなら、大天使や
「反対だ」
エクスは
「俺はこの世界に造られてまだ三年だけど、この地で暮らす人間の情報や、今までの天使と
人形みたいに美しい顔が、冷ややかな色を帯びる。
「それでだ。この地に
「わかんないけど……」
エクスは人差し指を立て、アリスの方へ向ける。
「一……いや、百?」
「一万だ」
「一万……」
現在、王都の人口は約六万人程度。一万がどれだけの数かと想像する。
「新しい天使を造っては殺され、造っては殺され……という時期もあったらしい。まさに『厄災』そのものだと言われていたこともあった。百五十年前、歴代のイヴ達が溜め続けた霊素を使って、大天使とイヴは
エクスは静かな口調で続ける。
「……なあ、アリス。俺とお前で、勝てると思うか?」
「…………」
普通に考えたら、勝てるわけがない。
だが、希望が捨てきれない。『0』であった可能性が『1』になった。それだけで、アリスは前を向ける——
「卑怯な手でも何でもいいから挑んで来いって言ったんだよね……」
「誰が?」
「……
「そこ! おかしい!」
エクスが勢いよくソファーから立ち上がる。
「え?」
「いつ言われたんだ? いつからアリスは、
「いや、別に……エクスと初めて会った日に、アークとも初めて会った」
「アークって!? なんだその呼び方! 仲良しか!」
「あ、違うの。これはオーロラがそう呼ぶから……あ、オーロラっていうのはその、アークと契約してる
「
「違う! えっと……違くないけど、違う!」
自分でもよく解らなくなってきた。何故、アリスは聖女なのに
「私が仲良くしたかったわけじゃなくて、勝手に
「状況が全然わかんないんだが!?」
大きな声を出してしばらく固まった後、エクスは
「おかしいよ、アリス。変な奴だとは思ってたけど、なんで
「私が知りたいんだけど……」
「まあいいや。もう奴らと関わるのはやめろ。俺はアリスのために言っている。霊素を溜めたい気持ちはわかるけど、他の
「うん……」
「解ってくれたならいいさ」
「……寝首を掻くとかできないかなあ?」
「……アリス!」
珍しく怒る側のエクスを傍らに、アリスは思考し続ける。
——どうやって、あの
◇ ◆ ◇
「クロエちゃん、お店の看板、下げてきて」
「は~い」
母親に言われて、肉屋の看板を下げに行くクロエ。
「よいしょっと。あ~明日は学校お休みか~、何しようかな~」
大きな独り言を言いながら、看板を持ち上げる。
すると、道の向こう側から、人が歩いてくるのが目に入る。
銀色の髪に、
嬉しくなって、迷わずに声を掛ける。
「アリス! アリスだ! お店の前で会うのは初めてだね! もう日が暮れるけど、何処に行くの?」
少女はクロエの声を聞き、無言で立ち止まると、顔を伏せる。
「……? アリス?」
クロエはアリスと思われる、少女へと近づく。
しかし、次の瞬間——少女はクロエを押し
「あ、待って! アリス!」
後を追おうとしたが、既に少女の姿は広場の向こうへと消えていた。
「何か様子がおかしかったな、アリス……いや、人違いだった? でも、あんな珍しい髪色の子、何人もいるかなあ?」
ふと、クロエは昨日のことを思い出す。
「もしかして、昨日アリスが見たっていう、アリスのそっくりさん……?」
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