第8話、生き残り

 大殿おおとのを抜け出して、王城の庭にあるあずまやまで来ると先客がいた。白髪を高く結え、焼き物の杯で茶を飲んでいる。茶の葉をあぶり、細かく砕く。そこに湯を注ぎ、蜜柑みかんの皮、ねぎ生姜しょうが、干し茱萸ぐみを加えた。これも三昊五埿の時代から薬とされたと書にはある。


「太師」

「おお、天子様」


 太師、衡大公こうたいこうだった。古い衣に白い髪を緩くまとめた姿は世捨て人のようでさえあった。市にいたとしたら、民には華の重鎮と気づかれるまい。このような人目を気にしない気さくなふるまいを、尚王は気に入っていた。いつも人のよい笑顔を浮かべ、声を荒げることもない。尊敬できる曽祖父だった。


「お疲れのようですな」


 尚王は昨夜、考えすぎてよく眠れなかった。夜燈が尚王を邪魔に思っているというのは本当なのか。毒を盛った犯人は。大舟の出自。父が皓華こくかを滅ぼしたのはただしいか、緑公清りょくこうせいの事件の真相は……と考えることが多すぎた。今日になっても少し考えを続けたく、一人ひとりで亭にまで来たというわけだ。


「いや……王は考えなければならないことが多いと思った」

「なるほど。ははは、それはそうです」


 衡大公は口を開けて笑う。夜燈はあまり笑わないから、こういうところも好ましい。


「いや、王は砂浜の砂より考えることが多く、海より広いお心でなくてはなりませんからな」

「そういえば、太師は海を見たことがあるそうだな?」

「はい。この河を下って行くと、海に出るのです」


 大公はまだ皓華の時代、若い頃に東海を見たことがあるという。旅をしていたのだろうか。皓華から逃れるためだろうが、それはとても羨ましいことに思えた。尚王も天梯てんだいと呼ばれる山々を見たい。天と繋がっているという山々。天梯の向こうには砂漠が広がっていると言うが信じられない。そして世の果てまで続いているという海を見てみたい。


「はるか遠くまで水が続いております。その水は塩辛く、少し苦いのですよ」


 都は内陸にあり、ここで生まれ育った尚王は海を知らない。塩は塩湖の他、海でも取れることはもちろん知っている。しかしその他は献上品や交易品としての貝殻や鼈甲べっこうを見たことがあるだけだ。白くつやのある貝に、内側に光沢があり光に傾けると様々な色が見える貝、透けそうな赤みを帯びた黄色の鼈甲など、珍重されるのが尚王にもわかる品だった。


「海でも魚がれますが、川のものとは違い……」

「貝もとれるのだろう?」

「尚王様もご存知の通り、特に白い丸い貝は貨幣として用いられております。一般にも普及させようとしておりますが、数が足りないため吉金どうで模したものを作ることにしたのです」


 衡大公は髭の下でにこりと笑った。王とはいえ、ひ孫を見る目はあたたかく見える。


 華は貨幣を普及させようとしていた。貨幣とは物の交換手段となる流通物である。今まで人々は物々交換により生活してきた。しかし物によってはすぐに腐り、価値がなくなる。また別のものとの交換は価値が計りづらい。ゆえに価値が変わらない、統一された規格が欲しかった。皓華でも貨幣として貝を用いた事があったが、量が少なく広まらなかった。


雅妃がひ様も貝がお好きでいらっしゃいました」

「母上もか!?」


 雅妃とは尚王の母だが、衡大公の孫娘でもある。


「そうなのか。それは……知らなかった」

「ええ。巻いた貝を耳に当てると、海の音が聞こえるのです。それが好きでおいででしたよ」

「巻貝が……。太師、母上のことを教えてはくれないか」


 尚王は衡大公の手をとってすがりついていた。王として周りに人はたえなかったが、ずっと寂しさがあった。時々襲ってくるそれを、今まで誰かに打ち明けたいと思ったことはなかったのに。


「そうですね、とても賢いでした。よく勇王様をたすけました」

「父上を……」

「勇王様とは仲が良くて、よく一緒に狩猟に出ておりました」

「狩猟に? それは戦車に乗ってなのか?」

「そうですよ。馬が好きで……たいそうお転婆てんばな娘でしたからね」


 自分が知らない母の姿が見えるようで、尚王は胸が熱くなるのを感じた。父母のことを思うとひどく切なくなるが、人前で泣くのは王らしくないとできずにいた。母がなぜ死なねばならなかったのか、知ることが怖かった。尚王はその感情を抑えつけ、静かな声で聞いた。


「……母上が亡くなった時のことを教えてくれ」


 衡大公は言いにくそうに髭を撫でる。彼にとってもつらい記憶なのだろう。


「十二年前、皓華の遺民による反乱が起きていました。私や太傅たいふ様が兵を出し、鎮圧に向かっていた時のことです」

「ああ。それは聞いた」

「その隙を狙ってでしょう、王宮に賊が入りました。彼女は、まるで自分が尚王様や仲燿様を守っているかのように立ち塞がったそうです」

「……」

「賊はそちらに引きつけられ、尚王様と仲燿様は乳母たちと逃れることができました」

「それで……」


 それ以上、言葉を続けることができず、尚王は手を固く握りしめた。急に寒くなったような気がする。それなのに心臓は急にどくどくと脈打ち、熱く弾けそうになっている。


「……緑公ろくこうか」

「おお。よくご存知で」

「なぜ緑公は」

「兵を都に向けたのです。そして賊が緑公と通じていたと吐きました」


 つまり、賊を差し向けて王を殺し、混乱した王城を兵で押さえるつもりだったと。やはり皓華の反乱に乗じて国を乗っ取ろうとしたものだろうか。そんなことをすれば戦が続くだけだというのに。


ろくでは吉金どうが取れますゆえ、皓華でも重要な土地でした。ですから勇王様は緑公を信頼して任せていたのですが……」

「吉金か」

「そうです。これは扱いが難しく、長らく皓華の王家が独占した技術でした」


 吉金どうは皓華の頃から重要な産物であり、技術であった。吉金でできたうつわや祭器は王家の秘宝とされた。この華ではそのような吉金で作った器物を諸侯に下賜し、王への恭順と領地を治める根拠とさせた。制作に関わる技術は外に出すことのない秘術とされている。


「緑公は処刑されたのだったな。その一族も」

「はい、夜燈様が行いました。ただ……」

「ただ?」

「末の息子だけは腐刑にされ、追放されました」


 ……腐刑か。尚王は気づかれないよう、息を呑んだ。


「記録には処刑としかなかったが、殺しはしなかったのだな」


 衡大公はうなずく。「子供のことですから書くまでもなかったのでしょう」。


「殺しておいたほうが、尚王様のためにはよかったでしょうが」

「そうだろうか」

「王たるもの、何をもってしても国を治め、乱を抑えねばなりません」

「祖父上の挙兵は皓華から見れば乱になろう」

「そうですね。しかし、乱を起こすに足る理由があったからです。三十年と少し前、皓華王は権力を王家に集中させようとしました。諸侯によるゆるやかな連合体だったものを、全て王が管理しようとした。そのために諸侯をないがしろにし憚らなかった。それを倒すために我らが立ち上がったのです」

「……」

「王は、王として人に認められなければすぐに引きずり下ろされるもの。王と民の間をへだてるものは本来、何もないのですから」


 寒梅もそのようなことを言っていたなと尚王は思い返す。華国は神……天が王を選んだと主張するが、実際のところは人が人を選んだだけのことだ。大罪だと史官に言われようが、己を守るため天に弓を向けることなどいくらでもあるだろう。だからこそ王は選ばれたと自惚うぬぼれるのではなく、国と人を守らなくてはならない。


 それから尚王は細く息を吐いた。……緑公清の子、それが大舟なのか。それで夜燈を殺そうとしていたのだろうか。

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