第3話、毒
二十六夜の月も出ないうちに宴も終わり、
尚王と仲燿も王宮に帰ることにした。夜燈は一度、
「……っ」
「?」
「燿、大丈夫だ。戻ってろ」
深く息を吐いて吐き気を押さえる。このまま
「大丈夫、大丈夫だから……」
胸が重い。焼けるように胃が熱くなって、吐き気がひどい。手足が冷えて感覚もないまま震えている。それ以上何も言えないくらい苦しくて、このまま死ぬのではないかと思った。酒の飲み過ぎなどではない。これは……。
「どうした、誰かいるのか」
この声は……大舟だ。来るな。見られたくなかった。誰にも弱みを見せるわけにはいかない。そう思ったが声にはならず、床にうずくまってうめくばかりだった。そうしたくなんかないのに、ぼろぼろと涙が出る。「助けてくれ」となりふりかまわず口に出そうになって、「これは本当に信用できるやつか?」という疑いがそれを許さなかった。
「天子様……!?」
大舟がぎょっとして駆け寄ってきた。仲燿がそっと口に指を当てる。騒ぐなというように。
「まさか……」
尚王に触れるなり、大舟は異常に気づいたようだ。やはり毒なのだろうか。であれば、誰が。ここで俺が死んだら喜ぶのは誰だ? 夜燈か? そうなったらろくに喋れない燿を王に立てるのだろうか、それとも……。全身が燃えたぎるように熱くなって思考がまとまらない。
吐き気がひどい。酸っぱいにおいと食事の味が混ざってこみ上げてくる。仲燿が尚王の背に手を当て、ゆっくりとさすった。その瞬間、口から生暖かい塊がこぼれる。飲み込んだ形のまま。
こんなところ夜燈に見られたら、王ともあろうものがみっともないと叱られるに違いない。そう思って尚王は
「……恐れながら、全て吐かれたほうがよろしいかと」
大舟はそう言って尚王の口に指を突っ込んだ。骨ばった指が舌を押さえて喉を開く。
「ここでなにを」
えずいていたから気づかなかった。暗がりから飛んできたのはかすれた高い声だった。
目を向けると、女の官人か。よく見えないがかなり若い、見た目は尚王と同じかもっと幼いくらいではないか。どこの文官だろう。赫華国では男の成人が二十、女が十五であった。役人に登用されるのは成人なのだから、こう見えて彼女は十五を超えており、また優秀な人材ということになる。
「……何も言うな、見なかったことにしろ」
尚王は、ぜいぜいと息を吐いて答える。女は一瞬、
「いや。水を持ってきてはもらえませんか。できれば、たくさん」
「……水ですね」
尚王は思う。いくら王とはいえ人のことだ、彼が分をわきまえないと
「見ない顔だな」
かすれた声で聞くと、大舟は後ろから抱えるように尚王の腹に手を当てて押さえつけた。
「新しくきた文官様です。史官だそうで。……吐きましたか」
「ああ。……ずいぶん若い」
「十五になったばかりだそうですよ」
「よく知ってるな。……うぇ」
そこに史官らしい女がせかせかと戻ってくる。手には大きな陶器の水差しだ。厨房から持ってきたものらしい。大舟は彼女から水差しを受け取ると、尚王の口に口を突っ込み、冷たい水を注ぎ込んだ。
「おい……」
思わず抗議の声を漏らしたが、口の端から水が溢れるだけだ。女史官が
「おとなしく飲んでください。また吐かせますから」
「そんな」
「全部吐くまでやります」
大舟の表情は尚王からは見えなかった。女史官と仲燿が「仕方ない」という顔をしていた。
水差しの水がなくなるまで水を飲まされ、そして吐いた。吐きすぎて喉がひりひりしてくる。ひとしきり吐き終わると、仲燿がそっと背中を撫でてくれた。心配をかけて悪いと思った。同時に、燿でなくてよかったとも。あたりの土も服も、吐いたものでぐちゃりと濡れている。
しかし胃のほうは軽くすっきりとしている。重く鈍い痛みこそあるが、あの激しい熱さはおさまってきた。
「……ずいぶんよくなった」
「ここの始末は私がしておきます。天子様がたは
大舟は一礼すると空の水差しを持って、厨房のほうへと歩いて行った。その背中を見送りながら、尚王はその場に残った女史官に何と言ったら良いか考える。見苦しいところを見せて悪かったとも、助けたからといって何か
「ええと……世話になったな。ありがとう」
声をかけると女史官はわずかに表情を揺らしたようだった。
「……
「それは命令ですか」
夜燈が聞けば目を剥くだろう、不敬な物言いである。この女は、飲み過ぎなどではないことをわかっている。知られたくはなかったが、知られたからといって尚王に何かできるものでもない。夜燈が言っていたではないか、人の口は何を使っても抑えられないと。だから尚王は素直に頼むことにした。
「いや。ただ、他人に知られたくないだけだ」
「承知いたしました」
それ以上聞かず、女史官は深々と礼をした。確かに官人としては優秀なのだろう。この王城で生きていくためには余計なことを見聞きしないほうがいい。ずいぶん賢いではないか。王が毒を盛られたと彼女が言えば、王城の上から下までが知ることになる。王が「本当に」毒を盛られたかに関わらず、
しかし彼女はそれにはあまり興味がないように、ぼそりと付け足した。
「あの男は……あまり信用しないほうがいいかと存じますが」
「ほう?」
「……いえ、申し訳ありません。出過ぎたことを」
それ以上言うつもりはないとばかりに女史官はもう一度礼をして、ついと背中を向けた。暗がりの向こうに靴の音が消えていく。仲燿が尚王の袖をそっと取った。心配をさせてしまった。もうこんな顔はさせたくない。
「燿、戻るぞ。服は……飲み過ぎで叱られるならそのほうがよいか」
誰にも弱みは見せたくはなかった。
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