私は夫への復讐の喜びに震えている

仲瀬 充

私は夫への復讐の喜びに震えている

●復讐

「あなたが早く良くなってくれなきゃ寂しいわ」

こんなふうに夫に嘘をつくのが私の楽しみだ。

「肝硬変だからそう長くは生きられないよ」

「あなたは良性だそうよ。肝硬変は転移するのとしないのがあるんだって」

「そうなのか? 抗がん剤も効果がなさそうだし体重も落ちる一方だけどな」

「肥満気味だったからちょうどいいわ。病院の健康食のおかげで引き締まってきたのよ」

夫にとっては全て優しい嘘だ。でも私にとっては悲しい嘘、……のはずだ。なのに嘘が楽しくて仕方がない。私は夫への復讐の喜びに震えている。


●結婚生活

 20代後半で結婚した私は夫が望むまま専業主婦になった。真一と健次、子供も二人生まれた。

「おーい、漏らしたみたいだぞ」

抱っこはしても夫がおしめを替えたことは一度もない。夜は子供が泣き始めると夫を起こさないよう子供を抱えて寝室を出た。買い物も歩いて行くので大変だった。次男をベビーカーに乗せ長男の手を引いてアパートを出る。帰って来ると次男を背負い畳んだベビーカーと買い物袋を提げて4階までの階段を上った。夫は育児や家事を一切手伝わなかったけれど私は特に不満には思わなかった。けれども夫にすれば何気ない一言、それが私を変えた。ある朝、私は扁桃腺が腫れて40度近い熱を出して起き上がることができなかった。お弁当を作れなかったことを詫びて夫を送り出した。夕方に仕事を終えて帰宅した夫はネクタイを外しながら寝室の私を見下ろして言った。

「なんだ、まだ寝てるのか。いい身分だな」

私の心がしんと冷えた。初めて夫を憎んだ瞬間だった。その憎しみをバネにして私は以前にもまして育児と家事に専念した。どんなに体調が悪い時でも弱音を吐くまいと決めた。一軒家を構えて車も持つようになってからは新たな苦労が増えた。部下を誘って自宅で飲むという電話が急に入ったりする。

「これから4人連れて来るから頼む」

私は子供に早く食事をさせ急いで酒の肴の用意をしなければならない。数時間後に客を送り出すとシンクにいっぱいの洗い物が待っている。

「そろそろ迎えに来てくれ」

夫が自宅でなく外で飲んで帰る時は私がタクシー代わりだ。子供が小さい頃はさすがに辛かった。寝ている子供を置いていくのが不安で抱きかかえて車に乗せ深夜の街へ夫を迎えに走った。そうこうするうち時は流れ、子供たちも社会人になって我が家を離れた。そうして夫の定年退職の日が訪れた。少し贅沢な夕食を調えて私は夫の帰宅を玄関で出迎えた。

「長い間、ご苦労様でした」

頭を下げながら夫に言った言葉は私自身の胸にも熱く迫った。夫が仕事に専念できるよう家庭を守り通した30数年の日々を思えば私も感慨深い。そのねぎらいを夫に期待した。夫婦水入らずの温泉旅行など望みはしない。お前も大変だったろう、その一言で発熱で寝込んだ日以降の恨みがほどける、そう思った。

「ああ、せいせいした。明日からはやっと仕事から解放される。とりあえずビール」

着替えを済ませた夫はナイターを見ながらビールを飲み始めた。エプロンを外して乾杯の誘いを待っていた自分がみじめだった。どんなに尽くしても夫から見れば私は3食昼寝つきのいいご身分でしかなかったのだろう。


●「相田みつを」ごっこ

 夫が仕事から解放されたように私も夫から解放されたい、そう願って離婚届の用紙を準備した。ちょうどそんな矢先のことだった、健康診断で夫の肝臓に癌が見つかったのは。検査結果が判明すると即入院ということになった。肝硬変だったが悪性ということは本人に知らせなかった。

私だけ医師に呼ばれて詳しい結果を知らされたとき、私が心配したのは治療の費用だった。加入していたがん保険でほとんどの費用がまかなえると分かると夫の余命はそっちのけで安堵した。夫が長く生きられないことについては何の感慨も湧いてこなかった。むしろ今後の夫の世話をしなければならないことが重苦しく感じられた。それでもこれまでの生活の惰性のように私は毎日面会に出かけた。看護師の巡回時には邪魔にならないよう談話室に行って新聞や本を読む。あるとき談話室の書棚から何気なく手に取った相田みつをの詩集に私は衝撃を受けた。「相田みつを」という名前は有名だったけれど私は氏の本を読んだことはなかったのだった。さっそくその日の帰りに書店に立ち寄り同氏の名言集を購入した。ページを繰るごとにため息が漏れた。何という圧倒的な人生肯定だろう、どのページにも人間賛歌が綴られている。その明るさはしかし、夫の介護さえ疎ましく思う私には眩しすぎた。私は天邪鬼あまのじゃくになって「相田みつをごっこ」を始めた。彼の名言の逆バージョンを創り出す遊びだ。

「足元を見つめてさえいればいいじゃないか 人としてつまづかないよう」

これは相田氏の「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」というフレーズの裏返しだ。そんなふうに私は相田みつをの名言の逆バージョンを次々と紙に書き付けた。自作の出来栄えに自信を持った私は一つの実験を思いついた。夫の見舞いにやってきた二人の息子が我が家に泊まったとき1枚の紙を差し出した。

「相田みつをの言葉を書き写したんだけど、真一、健次、あんたたちはどれが好き?」


1・私がこの世に生れてきたのは 私でなければできない仕事が 何かひとつこの世にあるからなのだ

2・人から点数をつけられるために この世に生まれてきたのではないんだよ にんげんがさき 点数があと

3・どのような道を歩くとも いのちいっぱいに 生きればいいぞ

4・いいですか いくらのろくてもかまいませんよ たいせつなことは いつでも前をむいて 自分の道を歩くことですよ

5・わたしは、人間のほんとうの幸せとは「充実感のある生き方」だと思っています。

6・私が見ていなくても あなたが見ていなくても 美しいものは美しいままに存在している

7・善悪、大小、かねの有る無し、社会的な地位の上下など、人間の作った価値観を全て無視しようとするのもまた、人間の弱さというものです。

8・具体的に動こうと気負うから逆に足が出なくなるんだ 無理に歩き出してたどり着いた答に意味なんかないんだよ

9・ぐちも 弱音も 涙も そっと胸にしまっておこう 生きていくんだもの

10・しあわせとは何か じぶんで決めてしまうから しあわせに縛られるんだなあ


前半の五つは相田みつをの言葉だが、後半の五つは私が改作したもので、それぞれの原作オリジナルは次のとおりだ。


6・うつくしいものを 美しいと思える あなたの心が 美しい

7・善悪、大小、かねの有る無し、社会的な地位の上下などという、人間の作った相対的な価値観を一切やめてみることです。

8・とにかく具体的に動いてごらん 具体的に動けば 具体的な答が出るから

9・ぐちをこぼしたっていいがな 弱音を吐いたっていいがな 人間だもの たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの

10・しあわせはいつも じぶんのこころがきめる


我が子を騙して気がとがめるけれど気に入ったものにチェックを入れさせた。すると二人とも前半と後半からほぼ同数のフレーズを選んだ。

私は相田氏と互角の勝負ができたような嬉しさを感じるとともにこの結果は自然のなりゆきだとも思った。人間のありのままの姿を見て素直に肯定する感覚とあらがいたくなる感覚、そのどちらも持っているのが私たち凡人なのだろうから。


●「相田みつを」ごっこ Part.2

 夫の見舞いに来ていた子供たちが帰った翌日、子供たちに示した紙を病院にも持参したところ意外な結果に私は驚いてしまった。夫はためらいもなく相田みつを氏の言葉ばかり五つを選んだのだ。聖人のごとき相田氏と妻の心情さえ汲み取れない夫、この両者をどう関連付ければいいのだろう。あれこれと考えを巡らせてようやく一つの結論に達した。「似て非なる」と言うより「非なれども似ている」と言ったほうが納得しやすい。深い洞察に裏打ちされた人間愛と単純な自己愛。相田氏と夫、二人の本質は雲泥の差があるのにちょっと見はよく似ているのだ。私はひとりでに笑えてきた。自己中心の天動説で生きている夫を相手に私はむきになって夫の周りを動き回っていたのだろう。そう気づくとこれまでの悲壮感が薄れて急にばかばかしくなってきた。私は「相田みつをごっこ Part.2」を思いついた。今度は逆バージョンでなく私自身が「相田みつを」になろう。ただし「似て非なる相田みつを」だ。本音を隠して理想的な妻を演じ夫を欺き通してやろう。そう心を決めて私は夫を愛しているふりをする陰湿な「相田みつをごっこ」を始めた。ベッド脇の椅子に腰かけて夫に話しかける。

「この間は、真一も健次も何しに見舞いに来たのかしら」

「変なことを言うなあ、こっちの体調を心配して来てくれたんじゃないか」

「病気のこと以外は何を話したの?」

「孫の話とか、いろいろだ」

「話がすんだら?」

「特にすることはないな」

「お見舞いって話がすんだら手持ち無沙汰になっちゃって帰るしかないのよね」

「何が言いたいんだい?」

「何もしなくてもいいじゃない。話なんかしなくたってちっとも退屈じゃないわ。あなたが眠ってるときは本でも読みながらずっと一緒にいるわ。一緒に同じ時間の中にいることが私は幸せなんだから」

夫は嬉しそうに頷き、それ以来「もういいから今日は帰れば」などと言わなくなった。またある時はベッドの脇のテレビで恋愛ドラマを一緒に見た。夫と1個ずつ耳に入れていたイヤホンを外して私は言った。

「恋愛や結婚って不思議よね」

「ん? 何が?」

「他人どうしの男女が結ばれて子供までつくるって大変なことよ。だから我を忘れて燃え上がるような愛情が必要なんじゃないかしら。夫婦の倦怠期なんて言うけど若いときの恋愛状態が続くことのほうが不自然だわ」

「そう言えばそうだな」

「夫婦が老いていくっていうのは時間をかけてゆっくり熱を冷まして他人に戻ることだと思うの」

「それはちょっと寂しいな」

「あら、ただの他人じゃないわよ。素敵な他人どうしになるの。そばにいても気にならず、でもいなければ寂しい、そんな素敵な関係ってほかにある?」

夫はこれまでに見せたことのないような笑顔を見せた。こんなふうに、私が作り話を語るたびに夫は相好そうごうを崩した。私はそのたびにサディスティックな喜びに浸る。あなたは騙されている! 嘘で塗り固められた私の言葉を喜んでいる!


●そして今

 夫は、今は家にいる。今日は長男の真一の家族が遊びに来る予定だ。4月下旬ともなれば戸外の風が心地よい。リビングのフランス窓を開け放った。

「いい風だわ。一緒にテラスに出ましょう」

テーブルとセットになっているガーデンチェアに腰をおろした。

「5月に入ったらオリヅルランを大きめの鉢に移し替えようかしら」

夫は微笑を浮かべている。隣家からテレビの音が低く漏れ聞こえてくる。身も心も春の陽ざしに溶けていきそうだ。

「こんなに気持ちのいい日は少し思い出話をしましょうか。入院中あなたにずっと相田みつをごっこを仕掛けていたこと、この前話したけど、皮肉なものね。嘘っていうのは真実がなければ存在しないのと同じなのね。私はあなたに嘘ばかりついて本当のことは一切言わなかった。それであなたは私の嘘を全部私の本音だと受け取って疑わなかったのね。悔しいわ」

夫は相変わらず微笑を浮かべたまま私の方を向いている。

「それにあなたってずるい。『お前に甘えっぱなしの一生だったな、ありがとう』だなんて。そんなこと言われたら、もうあなたを憎むことできないじゃない。結局、相田みつをごっこの前も後もずっと私の独り相撲だったのね」

私は夫の顔をちらりと見た後で目をつむった。ゆるやかな風が私の全身を優しく包む。何という心地よさだろう。

「母さん、ここにいたのか」

真一の声で目を開けた。真一の妻の真由子さんと2歳になる孫娘も一緒だ。

「あら、あんたたち、庭から来たの?」

「ドアチャイム、聞こえませんでした? 何回か鳴らしたんですけど」

私は真由子さんに手を引かれている孫娘の真子まさこを膝に抱き上げた。「じいじ、じいじ」と言いながら、真子はテーブルの上の写真立てを手に取った。

「母さん、相変わらず父さんの写真をあちこち持って回って話しかけてるのかい? 四十九日も済んだんだから気晴らしに外出もしなきゃだめだよ。真子、おいで」

夫の遺影の写真立てを持って長男一家は室内に入った。私は空を仰いで夫に語りかける。

「真一にとっては、あなたはすっかり遠いところへ行ってしまったみたいよ。あなたはいつも側にいてくれてるのにね」

私はふたたび目を閉じる。夫の気配が吹き来る風となって私を包む。

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