18.恋を知った朝

 その朝は昨日と違っていた。


 世界は昨日と連続しているのに、ミリセントにとっては昨日までと明確に切り離された新しい朝だった。


 昨日まではずっと家での扱いを引きずっていて、自分が無価値なのはどこか当然の認識としてあった。

 手紙を見てからはそれでもいつかはあの家に帰らなければならないのかもしれないという義務感も湧いて、心がずっと落ち着けずにいた。

 誰からも疎まれているのに、生きているのは辛かった。それでも生きたいと思う自分はあさましく、図々しいと思っていた。


 けれど、自分ではっきり帰らないと言えた。家族がおかしいときちんと思えたことで、無価値な自分からも解放された。


 ミリセントはきっと、カエルにされる前からずっと、あの家に呪われていたのだ。家だけじゃなく、人間社会にも。


 その呪いを解いてくれたのは魔王だ。


 ミリセントはようやく自分の意思で自由を得た。

 おかげで世界が美しく感じられる。


「あっれ〜。ミリセント、ご機嫌じゃあん」


 ラレイルがいつ何時急に城にいても、もう驚きはしない。最近は本当によく姿を見る。


「おはようございます」


 ぺこりと頭を下げた。


「ずいぶんにっこにこだけど、なんかあったのぉ?」


「昨日、ずっと心に引きずって歩いてきていた重い荷物を全部景気良く捨てられたんです」


「へ? なぁにぃ? それぇ」


 家族が来て、連れ戻されそうだったけれどはっきりと自分で決別を告げられたこと、それから魔王が必殺技を使って追い返してくれたことをかいつまんで話すと、ラレイルはまた爆笑した。


「あっはっはっ! フーミュルの必殺技って人を隠キャに変えるアレでしょ? オレも見たかったなぁ」


 魔王の必殺技について、何となくのところはラレイルも知っているようだ。


「ていうかあいつアレ使うんだなぁ。結構色々気にしてて、ここ何年も使うことなかったのに。ミリセントのためかぁ」


 ラレイルはミリセントをじろじろ見てくる。


「でさあ、ミリセントが陰ながら抱えていた問題は片付いたわけで〜」


「はい」


「いつ、この城出るの?」


 思わぬことを聞かれて、ぐっとなる。


「いやね、いつ出るのかなって気になったのはさぁ、オレの取引先にでかい城持ってる奴がいてねぇ。その城がまー、きったねえんだわ」


「汚い……城」


「うん、そ。ミリセント、掃除得意でしょ? 仕事にする気ない?」


「え……」


「もし、ミリセントにその気があれば、そこの掃除を仕事にすればいいよ。住むところも用意するって言ってるから、いつでも紹介できるからねぇ」


「あ、ありがとうございます」


「で、いつからにする……?」


 仕事や住処の当てができたのは嬉しいが、すぐにとは思えなかった。

 ミリセントは、魔王が契約解除までと言うのならば、その言葉通りにまだこの城にいたい。魔王と一緒にいたかった。


 魔王はお人好しで、なんだかんだいつもミリセントを気にかけてくれる。

 ミリセントの作ったご飯を食べてくれる。おいしいとまで言ってくれる。

 魔王は普段他人に対しては慌てていたり、こわばっていたりすることが多いけれど、カエルのミリセントを手のひらにのせてくれるその時の目はとても優しい。それだってミリセントしか知らない。


 ミリセントは幸せを感じてしまっていた。


「わたしは……まだ、もう少しここにいたいです」


「あっはは。だぁと、思ったよお。それに契約解除の方法がわかるまでここにいる約束だもんねぇ」


「はい」


「それにしても、離婚しなくても、べつにオレんとこ来る分には関係ないのにねぇ」


「……ラレイルさんのところは絶対ダメ危ないとも仰ってました」


「すごく失礼!」


 ミリセントもけらけら笑った。


「ラレイルさん、魔王様は……わたしのこと……」


「ん?」


「いえ、その、最近はそこまで嫌がられてはいない気がしていて……ラレイルさんはどう思います?」


 他人を寄せない魔王はミリセントのことはそこまで迷惑そうにはしていないように思える。けれど、自惚れかもしれない。だから第三者から見てどうなのか、聞いてみたかった。


「うんまぁ、ここんとこのフーミュルはフーミュルらしくなくて面白いよねぇ。ずいぶんとミリセントに執着してるしぃ?」


「そ……そう思いますか?」


「思う思うぅ! あいつの兄貴が今いなくてよかったよぉ」


「なぜですか?」


「あいつの兄貴は魔族の鑑かってぐらい横暴だからねぇ。まぁ小さい頃の話ではあるけど、フーミュルが泣くのを見るのが大好きで……嫌がることは喜んでやるから……ミリセント、危なかったよぉ」


 父は逆さに吊るすし、兄は横暴なサディスト。

 家族だからといって価値観が同じとは限らない。

 魔王は魔王で辛い身の上だったようだ。

 だからこそミリセントの気持ちをわかってくれたところもあったかもしれない。


「でーもねぇ。アイツの心の殻はけぇっこうカタイんだよ」


「……といいますと?」


「結局は自意識過剰なんだろうねぇ。警戒、恐怖、嫌悪、忌まわしさだけではなく、気遣いや思いやりや優しさ、相手が嫌がらないか、相手を傷つけないか、そういうのも含めて、本当に何重にもいろんなモノで本音を隠してしまう」


 たとえば魔王が本当はひとりでいたいと望んでいたとしても、ミリセントが可哀想だからそれを全力で隠しているという可能性もあるということらしい。


「でも、それは考えても仕方ないことですから、わたしは彼の『言葉』を信じます」


 たとえば思っていても言ってはいけないことを『口にしない』というのも、その人の気持ちだ。言わないと決めた心がその人自身の本音になる。

 人というのはきっと、本音と嘘が何層にも重なって心ができていて、本人にすらわからないくらいに混然としている。魔王に限らず大方の人というのはきっとそんなものだ。


 だからミリセントはそれについて深く考えようとは思わない。

 明らかに態度に出たものや、発された言葉以上のものを深読みして関係をこじれさせたくないからだ。

 ちょっとした言葉を深読みや裏読みばかりしていると、それこそその人の発したい『本音』が見えなくなってしまう。


 ミリセントのすっきりとした表情に、ラレイルは口元を歪めて笑った。


「う〜ん、ミリセントったら意外と悪魔の惑わしに揺れないんだねぇ」


「え?」


「ミリセントが自信なさげだから揺さぶってみようと意地悪したんだよん」


「なぜそんなことを……?」


「なんでって……オレは魔族だからぁ、そういう性格の悪いことごく自然にしたくなっちゃう」


「えぇ……」


「はいそこドン引きしな〜い。だってミリセントが自信なくしてオレんとこ来たら嬉しいじゃん?」


「うーん、ラレイルさんて、そんなにわたしのこと気に入ってます?」


「あは〜、もちろん気に入ってるよぉ、だぁって可愛いもん」


「嘘ですね」


 きっぱりと言い放つ。

 ラレイルのそれはミリセントへの執着というよりは、魔王をからかいたいだけの気がしている。どちらかというと魔王への執着だ。

 だからきっと、もしそんな気になれば、ミリセントを魔王から奪ってポイと捨てることも、ラレイルはたぶん平気でやってのけるだろう。魔王がラレイルをいつまでも友人扱いしないのはもしかしたらそういう油断のできなさにあるのかもしれない。

 一般的な魔族の価値観と、フーミュルの限りなくヒトに近い価値観はさぞ合わないだろうと感じる。


「あは〜ミリセントに信用されてないなぁ。でもオレ、こう見えて魔族の中ではめがっさ真面目だし良いやつなんだよ」


「それも、なんとなくわかります」


 そうでなければきっと魔王はミリセントに会わせなかった。そんな確信がある。


「あのさぁミリセント……オレもこんな……学院に通う若いニンゲンみたいなアホなこと人に聞いたことないんだけどさぁ……」


「え?」


「もしかしてフーミュルのこと、好きなのぉ?」


「…………えっ」


 そんな、おこがましい。

 それが最初の感想だった。魔王は恩人だ。魔族だし、魔王だし、自分がそんな感情を抱いていい相手ではない。


「そっ、そんなこと、あってはいけないのでは……」


「いやいや、いけないことはないよぉ。だから一応婚姻契約なんてもんがあんじゃん?」


「い、いえいえ、ご迷惑ですよ!」


「フーミュルもまんざらじゃなさそうだけどぉ」


「わたしなんて対象には……」


「なるなる。年齢とかも、見た目がゆっくりしか変わらないから、魔族では体が成体になる十八から上は一纏めで無頓着で人間ほど気にしないしねぇ」


「そうなんですか」


「だぁって、六百歳と三百歳の歳の差とかいちいち気にする?」


「え、えぇー……」


「そもそもあいつ精神年齢十八くらいで止まってるし」


 ある……普通にありえたのか。

 その衝撃はすさまじくて、足元の床がガラガラと崩れていくような感覚を覚えた。


 ミリセントはその瞬間、自分の感情を認めた。

 ミリセントがこんなにも心が浮き立っているのは家族と決別できたからだと思っていたけれど、それだけではなかったかもしれない。


 ミリセントは、魔王に恋をしている。


 何も楽しいと思えず、死んだように過ごしていた頃、それからカエルにされて絶望した日、どうやってこれから生きていけばわからずに途方に暮れた日。そんなすさんだ日々をたくさん過ごした。

 ミリセントは自分の心が深いところでは諦観を強く纏い、死んでしまっていると感じていた。


 まさか自分がこんな感情を味わうことができる日がくるなんて想像もしていなかった。


 試しに魔王の顔をほわんと浮かべてみる。

 うん、好きだ。胸がいっぱいに温かくなる。

 なんだか信じられない。


 名前をつけていなかっただけで、その感覚はもうずいぶん前から存在していたものだった。


 ミリセントはなにより、自分の心がまだ死んでいなかったことが嬉しかった。


「ふっはは! おんもしろー。ミリセント、行け行けがんばれー」


「いえ、ご迷惑はかけられません」


「え、がんばんないの? つまんないの」


「ラレイルさんを面白がらせるために生きてません」


 ミリセントはきっぱりと言い放つ。

 自覚したからといって恋する相手を困らせてはいけない。

 ミリセントは今、もう少し魔王と一緒にいたいとは思っているけれど、添い遂げたいなどと畏れ多いことまでは考えていない。魔王がもう少しの間ここにいていいというのならば、そこは素直に甘えようと思っているだけなのだ。


 けれど、それでも恋をした心は変わらないし、大切なものを見つけられた自分を誇らしく思える。


「ご迷惑かどうかは聞いてみないとわかんないじゃん」


「き、聞くつもりありませんから!」


 ない。絶対に聞いたりしない。ありえない。そんなこと許されるはずがない。


「え? そーなの?」


 しかし、同じ魔族であるラレイルが心底不思議そうにしているのを見ると、心が揺れる。


「あ、あ、あ、ありませんから!」


 ミリセントは力強く答えながら心がグラグラと揺れるのを感じていた。



 聞いてみたい。


 自分の奥深くから小さな声がした。




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