第190話 努力家

 見えていない目の上を撫でられた感触がした。優しく触れる手とは裏腹に、トウカの口調は厳しい。


「なにを考えているのですか。まず、真っ先に負傷を報告して治療を求めるべきでしょう。見れば生きていることがわかる私たちについて聞いている場合ではありません」

「すまん」


 返す言葉もない。

 戦いはまだ続いているとか、片目が見えなくても敵はシバけるとか、幾つかの言葉が頭をよぎったが……所詮は言い訳だ。

 眉間にぐっとシワを寄せたトウカが、細い声で言う。


「もう少し……自分自身の事情を優先してください」

「ああ……」


 言葉ではそう返すが、まぁ状況次第だ。それに、俺が俺がと痛がっている男なんて、格好つかねえだろ。この時代においては古臭い考え方かもしれないがな。

 おっさんは、泣いちゃいけねえし、痛がっちゃいけねえんだ。


 温かい光が目を包んだ。目を開いてみるが、ぼんやりとしている。光は拾えているけれど、ものの輪郭を掴むことは出来ない。


「応急手当ではこれくらいですね。専門医による外科治療と回復魔法を組み合わせることで、治せる可能性は残されています」

「あのプレス機使うヤブ医者ならどうにかできるだろ」


 あいつ、荒っぽい治療は大得意だからな。現時点においては、世界樹の苗依り代の治療においては第一人者だ。

 トウカは頷くと、今度は体中をペタペタ触り、傷を見つけては回復魔法をかけてくれた。ずっと痛みを発していた後頭部の傷と、グレンデルの肘打ちで折られた肋骨が治ったのは幸いだ。


 呼吸が楽になった。コンディションが良いとは言えないが、まだ戦える。

 遠くで砂煙を巻き上げながら、地に根を下ろした世界樹を睨みつけた。


「ナガさん。もしかして、あれと戦うつもりですか?」


 不安そうな声だ。


「悪いな。たぶん、戦う」

「ですが……」


 言いたいことはわかる。ほぼ無理だ、あんなもん。

 地形そのものと表現してもいいようなサイズ感。それに、とんでもない圧力を放っている。存在の格が違うんだ。

 海で鯨を見て「勝てそうだな」って思うやつはいない。むしろ畏敬の念を抱くはずだ。それと同じ感覚が、何百倍にもなってビシビシと感じられる。


「ほぼ勝てないんだろうけどな。ここってよ、なんだかんだで地下一層なんだよな」


 猫になったケットシーを拾い集めていたヒルネが、珍しく溜息を漏らした。


「はぁぁ、近いですもんねー、地上」

「そうだな。それに、せっかく見つけた世界樹だ」


 地上にピクシーが湧くことは阻止したい。地下迷宮や地上にまで展開したピクシーは、自衛隊でも殲滅が困難だ。ましてや、ピクシーによるゲリラ的な襲撃を受けながら、世界樹を倒すのはより難しい。


 そして、世界樹についてロクに知れないまま、自衛隊に獲物を引き渡すのも惜しい。

 挑めるなら挑んでおきたい。


「まぁ、俺のワガママだ。先に撤退してくれても構わないぞ」

「今回ばかりは、そうしたい気持ちもありますねー」


 ヒルネは苦笑した。俺も同じ表情だ。


「そっちも揃ったか。いや、天狗の兄妹がいないな」

「陛下が……。地下は終わりだ……」


 大勢の人間が近づいてくる気配があった。小松ら薩摩クランの面々と、ドルメンを筆頭としたドワーフの軍勢。それにコボルトとゴブリンが、互いに距離をとりながら集団を形成している。

 誰も彼もが戦いっぱなしだ。皆顔色が悪く、血と砂で汚れきっている。

 温かい風呂にでも浸かれば、みんなそのまま眠りに落ちて死んでしまいそうだ。


「お疲れさん。揃ったか」

「いや? 増援の隊士が揃っちゃいねえな。もうすぐの距離なんだがなぁ」


 小松が不敵に笑った。


「お、世界樹やるつもりか?」

「逃げるにしても、ひと当てくらいはな」


 老人にしては太い首をゴキリと鳴らす。


「それに、ここに自衛隊が来てくれるかは分からん。信用がないわな」


 見捨てられた地で自助をした奴らだ。そういう考えにもなるか。

 一方でドルメンは随分と絶望の顔をしている。このドワーフの戦士長は、かつて王を討つことも考えた。それでも実行に移さなかったのは、相応の理由がある。絶望するに足る理由が。


「ひと当てもなにも、一蹴されるぞ。亜神と殴り合った陛下を飲み込んだ樹だ……」

「斬ってみて傷がつくなら、いつかは倒せる」


 小松は鼻を鳴らした。


 ざわり。木の葉が擦れる音に、全員が口を噤んで世界樹を見上げた。

 きらり。金色の光が、木の葉の間から吹き上がる。光の粒子がふわふわと地下空間に広がった。


 幻想的な光景に一瞬見蕩れる。が、すぐに血の気が引いた。


「口に布を巻け! 花粉だ!」


 なんかに似ていると思ったら、杉の木が花粉を撒き散らす様子じゃねえか!

 ふざけんな!


 動けるやつは顔に布を巻き、近くにいる仲間にも巻いてやる。ゴブリンですら腰巻きをとって口に巻き、オドアは自分とゴブリンマザーに布を当てた。コボルトはドワーフに巻いて貰っている。


 慌ただしい騒乱の中。忘れられているヤツがいた。

 いや、正確には近くにいる誰もが必要性を認識していなかった――死んでいると思い込んでいたヤツが。


「ガァッ……、あ、ああ?」


 光の粒がグレンデルに集まっていた。

 がらんどうになった腹腔から植物の繊維が伸び、下半身を形作っていく。

 目を大きく見開いたグレンデルが俺を見る。


 お互いに、脳内で激しい警鐘が鳴っているのを感じた。体が、脅威を認識している。

 立ち上がったグレンデルに、周囲の全員が刃を向けた。


『……なる、ほど?』


 意外にも、静かな声だった。

 落ち着き払った表情で、しかし震える声でグレンデルは言った。


『どうやら、私は死ぬようです』

「は?」


 急に何を言い出しやがる。むしろ、さっきの状態の方が死が近いだろ。


『立ち上がったのは、自分の意思ではありません。肉体の制御を乗っ取られています』


 グレンデルの背中から、翼のように木の枝が伸びる。枝の端々から芽が膨らみ、やがて葉が開いていく。

 おいおい、マジかよ。植物体になって動けなくなる他に、こういう乗っ取りもあったのか?


 ツヴァイハンダーの切っ先を猪のような頭にピタリと合わせた。

 グレンデルは泣き笑いのような表情で言う。闘志は感じられない。心の底から、諦めている顔だった。


『こんな終わり方とは。最期は負け続けでしたね。努力不足でしたか』

「お前は、誰よりも努力したよ」


 精悍で逞しく、誰よりも引き締まった肉体を誇る豚の王。

 半身を失ってなお、敵に突進することを止めなかった豚の王が、情けない表情で目元を震わせる。


『では、なぜ。オークだったから、なのでしょうか。オークが、オークであることが間違いだったのでしょうか』

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