第181話 近江屋
ゴブリンの首筋に指を当て、脈が止まっていることを確認する。音を立てないよう慎重に死体を扉前に置いた。トラップにもなっちゃいねえが、鳴子の代わりだ。
抜き足差し足忍び足。かかとを浮かせ、たぐるように体を動かす。二階に上がる階段を登った。
片目が見えないせいで、段差の距離感を掴むのが難しい。
視界がいつもと違うのはそれだけで疲れる。緊張感も相まって、体からエネルギーが漏れ出しているような錯覚をした。
なんかダンジョンに閉じ込められた頃のことを思い出す。
くっそ、二階に上がってみたが窓がねえ。つーか、思い出せばどの建物にも窓はなかったな。
日差しっていう概念がねえからか。避難経路が存在しない。二階に上がったのは失敗だったかもしれない。
地形の把握不足だ。これを油断と言わずしてなんと呼ぶ。
頭が締め付けられるようにズキズキと痛んだ。ちょっと驕れば天罰覿面。孫悟空かよ。そういえば敵は猪八戒と沙悟浄みたいなやつらだった。
階段に腰掛け、手持ちの装備を漁る。
ドローンが落とされたせいで、身につけているものだけで賄う必要があった。
まずはナイフ。刃渡り10センチ程度。町中で振り回す分には脅威だが、ことダンジョンにおいては貧相で頼りない。
あとは……縫い針? 何に使えるんだって感じだな。目に刺すくらいなら、指で突いた方が早いわ。
ライトは割られている。廃棄。
ロープ、生理食塩水のパック、アルコール、鎮痛剤、カラビナ……。とりあえず鎮痛剤を噛み砕き、アルコールと混ぜて舐めた。苦い。
側頭部に手を当てた。割れてはいないが、肉が潰されているせいで、ずっと血が滲んでいる。早くトウカと合流しないといけない。
トウカに発信。スマートウォッチの音量を最低限に絞り、耳に押し当てる。コール音を何度も何度も繰り返し、ようやく応答があった。
『……さん! 戻れますか!?』
随分と焦燥した声だ。嫌な予感に冷や汗が滲む。
「すまん、戻れそうにない。グレンデルとオドア同時に襲撃されて、身を隠してる」
『な……るほどっ。ご無事ですか?』
「負傷してる。右目を潰された」
『なんですって。すぐに治療に向かいたい……のですが、こちらにアラクネの王級が襲来しています。建物ごと網に包まれており、身動きが取れません』
「くっそ……」
砲陣地に対する徹底的な強襲。戦力の出し惜しみはなし。人間よりも人間らしい空挺の運用をしやがる。
打つ手無しというより、どう手を打っても量と速度に押し潰されそうだ。
「わかった。薩摩クランに増援を頼めないか連絡してみる」
『承知しました。こちらは耐えることは十分可能ですので、ナガさんの身の安全を優先してくださいね』
右耳にトウカの声。そして左耳に入ってくる、重たいものを引きずるような音。クソが。嗅ぎつけるのが早いんだよ。
「心配かけてすまんな。可能な限りすぐ戻る」
強がりにしては随分と縮こまった物言いを最後に、通話を切った。
『そう遠くはないと思いましたが、ここでしたか』
グレンデルの声。本当に、本当に嫌なことばかり起きる。現実なんてクソ喰らえだ。
「よお。ノックくらいしたらどうだ?」
『貴方の家でもないでしょうに』
「勝手に占拠した空き家はそいつのものになるんだよ。地上の法だ」
20年間かかるけどな。
階段の下に現れたオークの王に、階段に腰掛けたまま語りかける。
『蛮族は法まで蛮族なのですね』
「決めた世代が野蛮なのさ」
日本人なんてのは、世代を遡るほど血気盛んになっていくからな。
『ふむ。人間はどれくらいで世代交代するのでしょうか?』
「さてなぁ。昔は15年とかで次世代を産んでたらしいが、今は40年とかで産む奴らも……って、暦の感覚も違うもんな。比べても無駄だろ」
『確かに。あらゆる単位系の基準が違うでしょうからね』
探索者と豚が語るにはクレバーすぎる話をしながら、グレンデルが指の骨を鳴らした。
「おいおい、もうやんのか? 対話こそが文明だろ?」
『拳こそが文明なのでは?』
「そんなこと言う奴いるのかよ。やっぱオークって野蛮だな」
グレンデルは呆れたような顔をして、ぐっと脚に力を溜めた。
そのとき。
ぎしり、と再びドアの軋む音がした。
「おお、死体じゃ。小鬼の死体じゃ。臭うの、臭うのお」
戦場には不釣り合いな、ひょうきんさすら感じる声だった。
グレンデルの顔に緊張が走る。
「おお、いたの。やはりいた。2体もおる」
下から顔を覗かせたのは、真っ黒な瞳を輝かせる総長だった。
陰影の中に小さな体が揺れ、実体がそこにないかのような不気味さを見せる。
すっかり歯が細くなった口を開き、呵々と笑った。
「どれ、鬼の仲間じゃろ。小鬼の主じゃな」
その視線を受け、どっと心拍数が上がる。
もしかしてこのジジイ、俺とグレンデル両方を斬ろうとしてねぇか!?
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