第二十話
「遅いぞ、レイン」
作業部屋を出て村の出口に向かうと、アカネはいつものように橋の前で腕を組んでいた。すました顔でこっちを見ているけど、よく見ると橋の周りに疎らな足跡が散らばっていて、落ち着けなかったのが丸わかりだ。
「良いのかよ、アカネ。あんなふうに出て行って」
「どのみち、ジェシーの傷さえ治ればクジラを目指せるんだ。そうすれば、それ以降はユリに無理を言って協力してもらう必要はない。少しの間だったが、君たちには苦労を掛けたな」
「そうじゃなくて、過去にドラゴンと何かあったんじゃないかって」
聞きたかったのは、アカネの話だ。初めて会ったころから、アカネはどこかドラゴンを避けている節があった。それだけじゃない。ユリと同様に、アカネは本音を隠してるところがある。
橋を通って砂漠に足を踏み入れると、急激に風と日差しが強くなる。村の環境は、命の花の力で保たれている。一歩外に出れば、自然は人間に牙を剥く。まるで、この世界で生きることを拒んでいるように。アカネは村の前で立ち止り、刺すような日差しを睨みつけるように見上げてため息を吐いた。
「私のドラゴンはな、過労で動けなくなってしまったんだ。それがどれだけの事態か、キミならわかるだろう」
その一言で、アカネが急に態度を変えた理由が見えてきた。
俺はドラゴンライダーだから、ドラゴンの事は誰より詳しいつもりだ。そして、ドラゴンが飛べなくなったらどうなるかなんて、ドラゴンライダーなら誰でも知っている。
ドラゴンは長い間飛べないと心の病気になり、それが続くと死んでしまう。だから、ドラゴンライダーは定期的にレースをしたり、その練習をしてドラゴンの体調を管理する。ドラゴンにとって、飛べないってことは死を意味するから。アカネのドラゴンは、もういないんだ。
アカネは、嫌な記憶を思い出すように続けた。
「私は村一番の戦士で、本当に現れるかわからない天空の竜騎士に代わって私が村を救って見せると、そう思っていたんだ。その焦りがドラゴンにも伝わってしまったのだろう。結局、動けるようになったドラゴンはどこかへ消えてしまった。村の人間には隠していたんだがな。やはりユリは気づいていたか」
本当にそうだろうか。もし本当にユリがアカネを焚きつけるために言ったとしたら、そのあとの反応が違和感だ。事情を知っていて言ったのなら、アカネがどう思うか分からないはずがない。ユリが知っていて言ったんだったらいい。だけど、知らなかったとしたら、取り返しがつかないことになるかもしれない。察しのいいユリならさっきのアカネの反応で気づく可能性もある。そうなったら、ユリはどう思うだろうか。
「ユリは村の人間とうまくいってないんだ。おとなしそうに見えて、彼女は相当に我が強い」
「まあ、そうだな」
「初めて会ったころは村の人間を見下すような態度をとるきらいがあってな。もちろん彼女に悪気はないんだが、そのころの名残でユリの事を避けている人間は多い。目の敵にしている者までいる始末だ」
村のために色々な仕事をしてるのに、村の人間からは嫌われている。砂漠と村を橋で結んでいるように、村の人間とユリの間を橋渡ししないといけないのはアカネなんだ。
「村長の娘として、私は彼女に人との接し方を教えることにした。言葉遣いには気を付けること。他の人間は、ユリのように賢くないこと。相手の知識に合わせて話すこと。彼女には窮屈だと思うが、あのままでは埋めることのできない溝ができてしまいそうだったから」
気づくとアカネはいつものように速足で歩き出していた。黄色い大地に浮かぶどこか頼りない足跡をたどっていくと、アカネはいつものように背中越しに口を開く。
「ユリは、もっと広い世界に生きるべきだ。クジラの上に行きたいという欲求を否定するつもりはない。応援したいとすら思っている。だが、悲しいことに、この村にはユリが必要なんだ」
アカネはそこまで言って振り返る。外套越しに胸に手を当てて、紅い髪と瞳が頼りなく揺れていた。いつも背中越しに話すのは、この顔を隠すためだったのか。
俺にとって、アカネはひたすらに強くて冷静で、アカネがこんな顔をするところは想像ができなかった。だけど、今ならわかる。怪しげな魔術師として振るまっているユリと同じように、いつもは強くて冷静な、村一番の戦士として振るまってるだけなんだ。それがアカネにとって誇りであると同時に、重荷になってるように見えた。
「この村は病気なんだ。笑顔は消え、誰もが飢えに苦しんでいる。身体が飢えているんじゃない。いつ村が滅びるか分からない不安に、心に開いた穴から大切な物が零れ落ちているんだ」
呆然としていると、普段のアカネからは想像できないほど悲痛に震えた声が響いた。
「昔はまだマシだった。母様が元気だったころはまだ活気があった。だが、母様が病に伏し、当時の魔術師が出て行ってからはすっかり変わってしまった。今ではユリだけでなく、皆がこの村から出ていくために必死になっている。母様たちが必死に守って来たこの村を」
「……」
ただでさえ村人たちが病気で働けない上に、ドラゴンライダーは村の周りを飛び回ってるだけ。アカネにとって、彼らは村を出ていくために飛んでいるように映ったはずだ。そして、ユリがクジラに行きたがるのも、村を離れていきたいからだと。
「どうか、私たちを助けてくれないか。客人にこんなこと言いたくはないが、この村は限界なんだ。この村が変わるには、レインの力が必要だ」
村の中にいるときのアカネの顔を見ればわかる。アカネだって限界なんだ。ユリとアカネはお互いに離れたくないのに気づけば遠ざかってしまう。その状況を知ってるのは、俺だけだ。
「言われなくたって、俺はシズクの病気を治すためにここに来たんだ。そのためなら、世界だって救って見せる」
「ありがとう。その一言だけで、救われる」
アカネはそう言って苦笑した。次の瞬間、いつもの勇敢な表情を張り付ける。
「行こう。おかげで、決意が固まった」
一番明るい日差しに照らされて金色に光る大地に向かって歩いて行った。
§
砂漠と同じ色の外套を羽織って歩くこと一時間以上。辺りには黄色い地平線が広がっているばかりで、森どころか草木一本見える気配がしない。
「……見えてきたぞ」
ふと、アカネは砂漠の中心で立ち止る。周りの景色に目を凝らしても、辺りには黄色と青が交わる地平線が広がってるばかりで、それらしいものは見当たらない。
「やっぱり、何も見えないけど」
既視感のあるやり取りの後、アカネは外套を取って地平線の彼方を指差した。目は悪くないつもりだけど、何もないどころか、周りの砂漠と何も変わらないように見える。からかってるんじゃないかとアカネの方を見ると、アカネは苦笑して肩をすくめる。
「砂漠の空気は人の目を惑わすからな。存在しないものが見えたり、あるいは見えるものが見えなくなったり。水分はこまめに取ることが重要だ」
「ああ、ありがとう」
アカネに渡された水袋に口をつけると、火照った身体が冷えていく。くっきりとした視界でよく見ると、確かに地平線に緑の部分があるような気がする。とはいえ、ここからじゃ小指の先くらいの大きさだ。
きっと、砂漠の空気とか関係なく単純にアカネの視力が良すぎるだけだ。それだけじゃない。どれだけ歩いても方角を見失わない方向感覚もどこか人間離れしている。
そう言えば、俺も森の中で暮らしてるうちに迷わなくなった。きっと、それと同じだ。砂漠を歩き慣れてるから、一見同じ景色でもアカネには分かるんだ。
アカネの指す方に向かっていくと、緑の点は少しずつ大きくなる。最初は砂漠に森があるなんて半信半疑だったけど、
アカネは森の入り口で立ち止る。
「ここが瘴気の泉を囲む、極彩色の森だ。かつて、ここには命の木が生えていたんだがな。数年前に木が枯れてから秘められた力が魔力へと変質し、瘴気の泉と化したらしい」
砂漠に森が広がっているのはなんだか不自然な感じだけど、アカネの村も似たような物か。こんな世界じゃ、オアシスでもないと生き物は生きていけないからな。
入り口らしき獣道に足を踏み入れると、周りの景色が一気に様相を変える。外から見たらただの森って感じだったけど、周りの草木をよく見ると紫や黄色をした毒々しい色が混ざっていたり、木の枝や葉っぱがぐにゃぐにゃと変形してたり、何だか命の木の周りに生えてる木や草とは違った感じだ。これが魔力の影響ってやつだろうか。
「なんか不気味な感じだな」
「はぐれると魔物に襲われるぞ」
勝手知ったると言った感じで奥に向かって歩き出すアカネに小走りで追いつくと、アカネはいつものように背中越しに口を開く。
「森の中心に湧き出る泉には魔物を引き付ける成分が含まれている。まるで、腐った食べ物に蠅がたかるようにな。問題は、その蠅が私たちより大きく、強く、凶暴なことだ。気づかれる前に命の木の実を採って行こう。その前に……」
そこまで言って、アカネは外套を空に向かって放り投げた。日差しを遮る影に気を取られている間にアカネは腰の剣に手を掛けて構えている。臨戦態勢を取ってるってことは、何があったのか自明だった。
「魔物か」
「ああ。囲まれた。どうやら、この森全域が魔物の縄張りらしい」
微かに草の葉を揺らす音。まるで、木が風に揺れてるように。アカネは目を閉じ、何かを感じ取ろうとしてるみたいだ。数秒間の緊張状態が、何分にも、何十分にも感じられる。
ふと、すぐ近くの草むらが揺れると同時、黒く大きな影が飛び込んだ。
次の瞬間、アカネは腰の剣を振り上げる。同時、耳を塞ぎたくなるような悲痛の叫びが響き渡り、周囲に赤黒い鮮血が飛び散った。黒い影の正体が露になる。
「これは、狼?」
灰色の毛並みに、鋭く尖った牙。四本の脚にはそれぞれ湾曲した黒い爪。驚くべきは、その巨体だ。故郷にも狼はいたけど、その体高はせいぜい人間の腰の高さ。だけど、ここの狼は肩までの高さで人間の背丈を大きく超えていた。
まるで薪を割るように両断された狼の死体が足元で嫌な臭いを放つ。防魔布越しでも鼻が曲がりそうだ。
アカネは頬に付いた血を拭って剣を構えなおす。紅く輝く胴の剣を正面に構え、襲撃に備えて周囲を警戒している。アカネが戦っているところをちゃんと見るのは初めてだけど、なんというか、いつものアカネとはまるで別人だ。
「この個体は斥候だな。小さく、俊敏だ。すぐに群れが来るぞ」
この大きさでも小さい方なのか。思い返すと、今まで出会って来た魔物は劣悪な環境を耐え抜くためか、どれも規格外の大きさだった。それが何十匹も襲ってきたら、いくらアカネが強いとは言っても危険だ。
「大丈夫なのか?」
不安になって問いかけると、アカネは余裕ありげに肩をすくめた。
「言っただろう。君たちに危害が加わるようなことはさせないと。相手が魔物であっても同じことだ」
§
「……これで最後か。一応、解体していこう」
剣にこびりついた血や脳漿を払い落として、アカネは納刀した。その直後、降って来た外套をアカネが纏うと、戦場のひりついた空気が弛緩する。
死屍累々ってやつだろうか。獣道に散らばった魔物の死体は、軽く数えるだけで二十を超えていた。それぞれが一太刀で首を飛ばされ、あるいは鼻先から頭蓋を割られて絶命している。獲って来た獲物の状態で狩人の腕が分かると父さんは言っていたけど、出合頭に急所を貫くようなアカネの戦いは徹底的で、洗練されていた。
終わってみれば、アカネは危なげなく狼の群れを追い払った。相変わらずとんでもない強さだった。魔物がいたら逃げるべきだって言ってたけど、アカネが魔物に負ける光景が想像できなかった。
狼の死体のそばでしゃがみこんで何かしているアカネの真似をして狼の分厚い毛皮に手を掛けると、ふと、木の葉が擦れるような音が響く。
「危ない、アカネ!」
次の瞬間、アカネが外套を着るのを待っていたかのように一際大きい影が木々の間から駆け抜けた。鋭い爪で地面を掴むように蹴りつけ、風のような速さで一直線にアカネに迫る。牙だけじゃなく、敵意と殺意も剥き出しのその表情は明らかに仲間を殺されて怒ってるのが分かる。
狼は狡猾な生き物だ。特に、狩りの時の用心深さは人間の比じゃない。群れを率いて相手の力を測り、油断したところを襲う。森をよく知ってる俺が警戒するべきだったんだ。
アカネは外套の袖に腕を通した状態で、すぐに剣を抜くことは不可能。何か、俺にできることは。考えるより先に、背中の短弓を取り出して矢を放っていた。標的は十時の方向から反対に向かって秒速五十メートルで直進。風はほぼ無風。距離は二十メートル。飛んでいった矢は風を切り裂きながら、アカネに迫る狼の鋭い目に突き刺った。
全身の肌が粟立つような雄たけびに木々が騒めき、森全体が振動する。一瞬で戦意が喪失しそうなほどの大音声に足が震えて止まらない。これが魔力ってやつか。
右目から矢を生やした狼は砂埃を上げて立ち止ると、アカネから視線を逸らしてこっちに狙いを定めてきた。
戦う力がない俺は、こいつにとってただの餌だ。だけど、俺はこいつと違って一人じゃない。
「助かった。あとは任せろ」
初めて魔物と会った時と同じ、頼もしいアカネの声が響く。
狼の注意が分散した隙を見逃すアカネじゃない。風を纏って近づいてくる狼よりもさらに速く。さらに高く。アカネは巨体の真上まで一息で飛び上がり、丸太みたいに太い首筋に上から剣を突き立てる。そして、勢いのままに、えぐるようにして頸椎を断ち切った。
「……どうやら今のが首領らしい。他の個体より明らかに大きいからな」
アカネがそのままの勢いで着地すると、少し遅れて、
「魔物の方がかわいそうになってくるな」
野生動物は、自分より強い相手を襲わない。だけど、この森の魔物は俺たちが入った瞬間に襲ってきた。アカネの強さに気づいてないのか、人間は弱い生き物だと学習してるのか。どちらにせよ、
「自然界の掟はやるかやられるか(ドゥーオアダイ)。相手の事より自分の事だ」
「はは、アカネが味方で良かったよ」
縛られて連れていかれた時はどうなることかと思ったけど、結局アカネには何度も助けられた。アカネが話の通じない奴だったら、こうしてシズクの病気を治すために一歩一歩進むこともできなかった。
アカネは他に魔物の気配がないことを確認して、気が抜けたようにため息を吐いた。
「しかし、弓が達者なのだな。あの一瞬で正確に矢を放つのは並大抵のことではない」
自慢じゃないけど、俺は一度も矢を外したことはない。ドラゴンライダーは風を読むのに長けてるからな。
「俺だって戦える。たまには頼ってくれよ」
「そうだな。流石は天空の竜騎士だ」
とはいえ、さっきの狼は並大抵のドラゴンよりずっと早く走っていた。いくら狩りに慣れていても、弓を取り出してから狙いもつけずにあんな速さの狼に矢を当てるなんて不可能。自分でも驚いてるところだ。これが火事場の馬鹿力ってやつか。
「さて、行くぞ。周囲から魔物の気配が消えた。私たちが獲物ではないと理解したのだろう」
アカネは森の奥に向かって再び歩き出した。
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