第十六話 魔女の工房
恐る恐る足を踏み入れると、アカネの拠点以上に可愛げがない、というより、実用的な空間が広がっていた。中央の机を囲むようにフラスコや試験管、分厚い本や紙束が並んだ棚が壁一面を覆い、窓際の作業机にはインクの壺にペンと書きかけの羊皮紙が広げられている。住居というよりも工房って感じだ。雑多なものが散らばっていて人を招くような場所とは思えないけど、父さんの作業部屋を見慣れてるから気にならなかった。
そんな空間を、橙色の光が淡く照らしていた。
ユリは中央のテーブルに並べられた椅子に腰かけた。
「アカネさんから聞いていると思いますが、私は命の花について研究しています。あなたも命の花を探しているということは、ある程度は知っているということでよろしいですか?」
「いや。命の花どころか、島の外があるってことすら昨日知ったばかりだ」
「……そうですか。では、命の花とは何か。わかっている範囲でお教えしましょう」
俺が対面に座るのを確認すると、ユリは壁の本棚から一際分厚い古本を取り出してめくり始める。開いたのは、白い花の絵が描かれたページだった。細かい書き込みがびっしりで、そこだけ他のページとは明らかに色が違う。簡単な読み書きしかできない俺にはなんて書いてあるのかは読めないけど、相当読み込まれてることは分かる。
ユリは書き込まれた文章の中でも特に強調されている一文を指差した。
「命の花とは、文字通り生命力を宿した花です。その花弁に含まれる薬効成分にはどんな病気も癒す効果があると言われています。もちろん、雨雲病も」
「やっぱり、あるんだな。なんでも治す薬が」
「ええ。実際、何百年か前に命の花の力で雨雲病が治ったという記述もあります。命の花に勝る薬は、少なくとも地上には存在しないでしょう」
「本当か! それはどこに?」
「村の中心に生える大木の天辺に咲いてますよ。今では枯れないように管理されています」
ジェシーの言った通り、御伽噺は全部本当だったのか。少なくとも、地上に来たのは無駄じゃなかった。すぐにでも命の花を採りに行きたいところだけど、村の人にとっては大事な物なんだったか。
「枯れたらどうなるんだ?」
「……」
純粋な疑問だったけど、ユリは顎に手を当てて考え込み始める。アカネの方を向いても黙り込んでるだけで、狭い作業部屋にいやな空気が流れるのを感じる。
まただ。言ってはいけないことを言った時の反応。沈黙と暗闇の中、蝋燭の火に照らされて三つの影が揺れていた。何秒かして、ユリは沈黙を払うように咳払いする。
「命の花が枯れれば、この集落は、世界から消えます」
「……どういうことだよ」
なんとも思っていないような表情だったから余計に意味が分からなかった。そんな突拍子もなく村が消えることなんて想像もつきそうにない。
当然の疑問に答えたのはユリじゃなく、扉に寄りかかって沈黙しているアカネだった。
「レインも見ただろう、外の世界を。世界には今、吸い込むと体を蝕む瘴気が充満している。命の花がその瘴気を吸いこみ、根が雨水を抱え込むことで肥沃な大地が生まれ、そこに人間が住み着くことでできたのが私たちの集落だ」
「ええ。草花が空気を清めるように、命の花は瘴気を浄化します。そして、命の花を宿す木が枯れればこの集落にも瘴気が満ち、私たちの命も枯れてしまうというわけです」
本を閉じると、ただでさえ狭い作業部屋に耐えられないくらい静かな空気が充満する。
想像もつかない規模の話に理解が追い付かなかった。でも、その話が本当なら、アカネが俺を捕らえようとした、というか、一度は捕らえたことにも納得がいく。要するに、命の花はこの里にとって命も同様。命を取ろうっていう人間が来たら、捕らえようとするのは自然だ。
「でも、花びらを少しもらうだけならいいんじゃないか?」
「命の花は繊細で、少しでも扱いを間違えれば干からびてしまうのです。そうなれば、取り返しのつかないことになる」
ユリが棚からカップを取り出してお湯を注ぐと、微かに花の匂いが漂い始める。
「つまり、他の花を見つけないといけないってわけか」
「……いえ、ことはそう簡単な話ではありません」
簡単な話じゃないって言われても、俺には難しいことはさっぱりだ。こんな時に限って、普段からもっとシスターのところに通っておけばよかったと思う。
「よくわからないけど、他にも問題があるってことか」
「……ええ。文字通り致命的な問題です」
ユリは本棚に本をしまいながら続ける。
「それは、すでに地上には他の命の花がない可能性があるという問題です」
「命の花が、無い……?」
ユリの言葉は、死の宣告に等しかった。
俺は医者じゃないから、雨雲病の事なんか分からない。そもそも、島の医者でも治し方が分からなかったんだ。だから、俺は自分で確かめるためにここに来た。それなのに命の花が存在しないなら、俺はただ病気で弱ってるシズクを放置して島を出ただけだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 命の花がないと、シズクの病気を治せないんだ!」
「シズク……?」
「俺の妹は、雨雲病なんだ。普段は明るく振舞ってたんだけど、急に苦しみだして……診療所のおっちゃんが言うには、肺炎だって……」
我ながら要領を得ない説明はユリの右手に遮られた。また、あの時と同じだ。シズクがどこかへ行ってしまうことを想像して、冷静さを失っていた。
「状況は理解しました。それ以上の説明は不要です。少し落ち着いてください」
「あ、ああ。悪い」
一度深呼吸して紅茶の入ったカップに口をつけると、花のように甘く、草原のように爽やかな風味が鼻を抜けていく。シズクがたまに花の紅茶を淹れてたりするけど、それよりもずっと濃い気がする。
俺が落ち着いたのを確認したのか、ユリは咳払いして続ける。
「……命の花は繊細な植物です。ただでさえ長らく雨が降っていない現状。人が管理しなければ、命の花でなくとも枯れてしまうでしょう。その上、この村でも命の花の効力は年々衰えています。長く見積もってもあと数年でしょうね」
思っていたよりも事態は深刻だった。だから、この村はこんなに寂れてるのか。皆、死の世界で命の花が枯れてしまう不安と戦いながら生きてるんだ。命の花が枯れれば、この村は外の世界と同じように瘴気に満ちてしまうから。
「ですが、私にはすでに命の花の大本がどこにあるのか見当がついています」
「でも、地上にはもう命の花がないかもって」
「簡単な話です。あなたはどこからこの村に来たんですか?」
俺の故郷は空に浮かぶクジラの上だ。緑が豊かで砂漠なんてない。まるで、全部がオアシスみたいな。
「おいおい、まさか……」
命の花があるところにオアシスはできる。つまり、俺の故郷は。結論に行き着くより先に、ユリは続けた。
「お察しの通り、命の花の種子はクジラの体内……あなたの故郷から地上に運ばれてくると私は推測しています。なぜなら、命の花が咲く時期とクジラが潮を吹く時期の記録に関連性があるからです。そして、その仮説はあなたの存在によって確信に変わりました」
そこまで言って、ユリは本を閉じる。
「あなたの言葉が嘘でなければ、クジラの背中には高度な文明が築かれている。つまり、命の花が近くにあるということです。クジラの体内には命の花の本体と呼ぶべき何かがあり、クジラの吹き出す潮に乗ってその種子が運ばれる。潮は雨水となって、大地に潤いをもたらす。そこにできたのが、この集落というわけです。点と点がつながりましたね」
点と点がつながり、見たことないはずの花の輪郭が明らかになる。この村の人たちは新しい命の花を探していて、それは俺の故郷にある。どのみち、命の花を手に入れるにはジェシーを治療して故郷まで戻らないといけないわけか。
「ですが、ここ数年にわたって一度も雨が降っていません。当然、新しい命の花も見つけられず、万事休すと言った状況です」
「つまり、どうにかして雨を降らせる必要があるってことか」
「とはいえ、雨を降らせる方法が分からない現状、捜索範囲を広げて命の花を見つけるのが賢明でしょう。あなたにも手伝ってもらいたいのですが」
「ジェシーは怪我をしてるから、当分は飛べそうにない」
しばらくは、この砂漠においてドラゴンライダーの俺が役に立つ方法を探すしかなさそうだ。
「レインはユリのところに世話になると良い。構わないな、ユリ」
「ええ。ちょうどざつよ……ではなく、助手が欲しかったところです」
何か不穏な言葉が聞こえたような気がするけど、気にしないことにする。もともと、俺にできることなら何でもするつもりだ。
「では、明日の朝にまた来てください」
「ああ、わかった。世話になるよ、ユリ」
作業部屋を出ると、すっかり日が昇っていた。霧がかかった村を陽の光が照らして輝いている。さっきまで空気の悪い場所にいたからか、澄んだ空気が肺を満たしていく感覚があった。
「……レイン」
「なんだよ」
「ああは言っているが、ユリはかつてクジラの上に行くのが夢だったんだ。命の花について熱心に研究しているのはそのためだろう。もしかしたら、君たちを丸めこんでクジラを目指そうとするかもしれない」
「別にいいんじゃないか?」
アカネは静かに首を振る。
「ユリと私がこの村から離れたら、病人の治療をする人間も戦える人間もいなくなる。私達がいない間に村人の病気が悪化したり魔物に襲われたら村は終わりだ。先代の魔術師がいない今、この村で医学の知識を持っているのはユリだけだからな」
「だったらどうすればいいんだよ」
「君の故郷の話をしてやってくれ。少しは満足するだろう」
故郷の話をするくらいなら俺にもできる。
それに、外の世界の話をシズクにする予定だから、その予行演習としてはぴったりだ。俺たちにとっては当たり前のことも、地上のみんなにとっては文字通り絵空事なんだ。
「ああ、わかった」
「頼んだぞ。君の仕事はユリを説得し、協力させることだ」
念を押すように肩に手を置くと、アカネは紅い髪を翻して村の外に歩いて行った。
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