第八話 人が焚火を焚く理由

「……ただいま」

 結局、コショウを買って帰るのに結構な時間がかかってしまった。辺りは夕方で、日の当たらない森の中はもう真っ暗だ。だけど、この森にはジェシーとシズクがいる。ログハウスの窓から漏れる灯り。薄らと漂うシチューの匂い。それだけでこの薄暗い森は家の中と変わらない。

 玄関を開けてキッチンに向かうと、シズクはいつものように夕食の準備をしていた。

「……シズク。コショウを買って来たよ」

「おかえりなさい、兄さん。鳥肉のシチューができてますよ」

 鳥肉のシチューも俺の大好物だ。獲って来た鳥は腿の肉を香草焼きにして、残りはシチューの具材になる。それでも使わなかった部位は焚火で焼いて食べたり、スープに入れたりしても美味い。自然の恵みは、余すことなく享受する。森の中で生きる上で大事なことだった。

「今、香草焼きを作るので、座って待っていて……っ!」

 テーブルに向かうと、ごとり、背後で木の器が落ちる音がした。深刻な音に振り返ると、シズクが胸を押さえて蹲っていた。

 シチューの入った木皿がひっくり返り、白いワンピースの上から白い湯気を立てている。手を滑らせたって感じじゃない。まさか、雨雲病が悪化したのか。

 急いでシチューの皿を退けて濡らした布で拭おうとすると、白いシチューの下から雨雲のような黒い靄がシズクの太ももを覆っていた。

「なんでこんなところまで痣が……!」

 間違いない。太陽に当たると火傷する雨雲病の症状だ。シズクの雨雲病は生まれつきだけど、前までは背中やの一部にしか痣がなかったはずだ。なのに、今はワンピースからはみ出るほどに痣が広がっている。

 茫然としていると、シズクは弱々しく体を起こして儚げに笑った。

「大丈夫です。今、香草焼きを作るので」

 俺は知っている。自分から大丈夫だって言うやつが大丈夫だった試しがない。ジェシーと初めて会った時だってそうだった。俺は大丈夫かどうかなんて聞いてないのに。

「明日の朝には父さんが薬を買って帰ってくるから、それまで休んだ方がいい。夕食はシチューとパンで十分だ」

「そうします。お気遣いありがとうございます」

 いつも通り笑っているはずなのに、こっちまで苦しくなりそうだった。ただ自然と一緒に生きてきた俺には何もできない。そんなことわかってる。だけど、シズクはもう長くない。苦しそうな笑顔とワンピースの裾から垣間見える黒い痣が、枯れかけたヒマワリと重なって見えた。

§

 結局、夕飯はいつものようにシチューをパンに浸して食べた。シズクの看病をしてたから少し温くなっていて、腹の中にずっしりと溜まるようだった。

「香草焼きにしなくても美味いな」

 昼に取って来た鳥肉を焚火であぶって噛り付くと、脂の甘味と鳥肉特有の旨味が口の中で混ざり合う。ジェシーにも分けてやりたいけど、ジェシーは甘いもの以外はあまり好きじゃない。

 夜の森は、昼と比べてもしんと静まりかえっていて不気味な雰囲気だ。この森は今隣で丸くなってるジェシーの縄張りで、獣はジェシーが居れば襲ってこない。わかっていても、暗がりの中はひどく落ち着かない。何も感じないと、どこか浮足立つようで落ち着けないんだ。

 だから人は焚火を焚く。薪が弾ける音、炎の灯り、熱。一緒に肉や魚でも焼いて食べれば、五感全てが満たされる。そうなれば、もう夜の冷たさや静けさ、怖さは煙と共に消えてしまう。

 ただ、今日に限っては焚火を焚いても消えない不安が心に重しをしてるようだった。

 シズクが倒れてから、俺は急いで診療所に行った。何が何だかわからないでいる診療所のおっちゃんを後ろに乗せて全速力。単なる風邪だと思いたかった。だけど、現実は残酷だった。

 診断結果は肺炎。それも、かなり危険な状態らしい。肺炎自体はすぐに死に至る病じゃないらしいけど、陽の光に当たらない雨雲病で免疫力が低下した状態でかかると、途端に重症化する。それなのに、シズクは何年も隠していたみたいだ。

 診療所のおっちゃんが言うには、このままだと良くてあと数か月。最悪、あと一週間。そして、他に雨雲病の症例がないこの島では、雨雲病を治す手段がない。

「やっぱり、無理に外に出たからだ。だから、あんなに悪化したんだ。大事なレースの日だからって見に来なくていいって伝えておけばよかった」

『……それは違うと思う』

「ジェシー……」

 気づけば、考えてることが全部口に出ていた。抱えきれない感情が指の隙間から零れ落ちていくみたいに。

『シズクは、自分がもう長くないことをわかってたんじゃないかな。だから、最後にレインがレースしてるところを見に行きたいと思った。多分、ボクでもそうすると思う』

 ジェシーはドラゴンなのに、俺よりよっぽど人の心が分かってる。どうしようもないことを考えたってしょうがない。シズクがいなくなるかもしれない。漠然と抱いていた不安が一気に目の前に現れて、考え方が良くない方に行っていた。過去の事を気にしてもどうしようもない。今は、シズクを過去に置いてかないためにどうするかの方が重要だ。

「……ジェシー。頼みがあるんだ」

『わかってるよ。行くんでしょ、明日。命の花を探しに』

 長年連れ添った仲だからか、ジェシーには俺の考えが筒抜けだった。もしかしたら、そういう力があるのかもしれない。多分ジェシーは俺の考えに気づいた上で強く引き留めようとしないんだ。俺の意思が変わらないことを知ってるから。

『ボクは反対だよ。今行くより、残ってシズクを看ていた方がいい。その方が賢い選択だ』

 ジェシーが俺よりも冷静で、ずっと賢いことは分かってる。ジェシーやシスターの言う通りにするのが、一番だと思う。

 今まで、家の事は全部シズクに任せっきりで相当な負担をかけた。ゆっくり休めば、少しは良くなるかもしれない。そんなのは分かってる。ただ、苦しんでいるシズクの隣で何もできないでいることを考えると、逸る気持ちを抑えられる気がしない。

「大人しくするのが大人なら俺はガキのままでいい。大切な人を失うくらいなら愚かでいい」

 ジェシーは呆れたように体を震わせる。

 外の世界が危なくてもいい。シズクの笑顔のためなら、自分の命なんてどうでもいい。ただ俺は、大好きな家族に笑っていてほしいだけなんだ。だったら、行かない理由なんてない。

「明日に備えて休もう。何が起こるかわからないからな」

 なんとしてでも命の花を取りに行く。暗にそう伝えると、ジェシーは小さく欠伸した。

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