第二夜 星の旋舞、呪われし一族
轟音が空気を揺り動かす。
遠くで山が崩れた。
地平線まで砂に塗れた西方砂漠と違い、中央砂漠には岩山で構成された地形も存在する。その起伏に埋もれるようにして千夜国の遺跡が点在しており、この遺跡もその中の一つだった。
栄華を極めていた頃にはさぞ大きな神殿だったのだろう。石灰岩を丁寧に積み上げて作られたその遺跡は狂いのない四角錐を描き、天翔る星の運行に沿うように配置されていた。しかし、そのことを知る者はもう殆どいない。
轟音が神殿を包み込む。
それは一瞬の出来事だった。砂煙が立ったと認識したその次の瞬間、かつて鏡のように磨かれていたであろう白亜の建造物は、見る影もなく礫となった。
轟音が爆風を呼び起こす。
見届ける人々は、爆発という概念を今ここに思い知った。堅牢な神殿でさえ、技術の前には砂上の楼閣である。恐怖でその場に崩れる者さえいた。
眼前の光景はこれでもかと示している。
人間こそが神と。
古の神殿が見渡せる岸壁の上には、隼の青年が立っていた。青年はその柔和な顔つきにおよそそぐわない、無骨な甲冑を纏っている。背には、身長よりも高い槍。
青年には片腕がない。
しかし、そのような「欠け」は欠点にならないほど、青年は完璧を体現していた。黒い肌は傷ひとつなく滑らかで、生命力に満ちている。きっちりと編み込まれた白い髪は、墨を含んだように先が黒く染まっている。
兵士が一人、青年に共をしている。兵士もまた隼の一族だった。
「呆気ないものですね」
目の前で起こっていることの規模に対し、青年はあまりにも無感動だった。
災害の如き轟音にも、眉ひとつ顰めていない。
「まさかこれほどの威力とは……苦労して風早国から仕入れた甲斐がありました」
一方、兵士は爆発の度に身を震わせていた。頬には冷や汗が滴り落ちている。
青年はその様子を憐れむことも呆れることもしなかった。ただ人間はそういうものだと認識しているだけ。
その黒い肌を、熱風が擦り去っていく。
「火薬の作り方は伝わってきていますか?」
「いいえ。流石に国の保有戦力を左右するものですから、製法は無理でした。現在朱鷺書院に解析を依頼しております」
「そうですか。砂漠化の状況は芳しくない。急ぎだと伝えておくように」
「御意」
やがて、爆発は止んだ。
しかし青年は、折り重なった神殿の遺骸から、目を離すことはしなかった。
沈黙に業を煮やしたのか、兵士は青年に問うた。
「
「なんでしょう」
やっと青年は兵士の顔を見た。
柔和に垂れた目を縁取るように濃紺のアイシャドウが引かれている。砂漠の国の王子という身分に違わぬ顔貌だった。
「砂漠化とこの兵器との関連性が見出せないのですが。近く戦争があるわけでもないでしょう」
「戦争はありません、が。使う予定はあります。聞けば、この兵器はかの国では化物退治に使われているとか」
「化物なんて、空想の産物でしょう。箔を付けるために言ったに違いありません」
「そうですね。私もそう思います」
青年は、張り付いた笑顔で、まるで歌でも歌うように朗々と答える。
「しかし、我が国には事実として脅威があるのです。我々は用意しなければいけません。砂漠を照らす総ての星が揃う前に」
しかしその瞳は塗りつぶしたように黒く、決して笑っているようには見えなかった。
□
清那たちは西方砂漠の調査を終え、朱鷺書院がある王都、
白冠に着くなり高砂は次の調査の準備にあたると言って研究室に籠ってしまい、以降連絡が途絶えた。放り出された清那は仕方なく教室と寮を往復し論文の書き直しに当たった。高砂は変に学会の主論に寄せず、千夜を主題として論文を書いてもいいとお墨付きをくれたので、その点に関してはありがたかった。
大学側から通知が来たのは、一週間ほど経ってからのことだった。
寮から直で高砂の研究室に向かうと、部屋の主は机の上で頭を抱えていた。
「……やられた」
書物の隙間から呻きが漏れる。
抱えた堅い手を顔まで下ろした。ちょうど頬を覆うように。
カーテンを閉め切った部屋は埃臭く、空気までもが沈澱しているようだった。
清那の記憶の限りでは、高砂は自分の城を一寸のずれもなく整理整頓するタイプの人間だったはずだが、今日に限っては嵐の一過を思わせる様相だった。
「寝不足ですか? 駄目ですよ体に気を遣わなきゃ」
高砂は目線だけ清那にやった。
「俺がそんな不摂生をするわけがないだろう。もし体調を崩すとしたら対外的な理由しかない」
「じゃあなんですか、その向かうところ敵なしの高砂大先生をげっそりさせる程の対外的な理由って」
「中央砂漠の遺跡が破壊された」
上げた額の眉間には、深く皺が刻まれている。
清那は今朝の通学路を思い出した。あまり待遇の良くない女子寮と大学は少し距離があり、日干しレンガの四角い建物を縫って研究棟に向かう。その道中、中央通りの道端には王の触れを民に伝令する使いがいる。今日伝使が叫んでいたのは確かにその件だった。
「ああ、聞きました。確か軍事演習をしたんですよね」
城攻めの演習のために、千夜の城跡を使用したとのことだった。清那も思うところがないわけではないが、王国軍にとって千夜とはその程度の価値しかないのは常々感じているため、慣れてしまい別段取り乱すことでもなかった。
「あれは口実だ。あれは……あんなことしてもしょうがないのに……」
高砂は餌を求める魚のようにぱくぱくと口を開けてつぶやいている。まだ学生の清那などよりもこの系統の憂き目には散々遭っているだろうに。研究分野に関しては思っていたより繊細な人間なのだろうか。
「失ったものを嘆いても現実は変わらないでしょう。それなら一言でも多く話を聞きに行った方が良くないですか。ほら、しゃんとしてください。明日から中央砂漠に……あっ」
向かうのは、例の中央砂漠の遺跡近辺の街ではなかったか。
「君は察しが良いのか悪いのかどちらなんだ」
高砂はため息をつきながらのっそり立ち上がると丸まった背中でカーテンを開けた。
差し込んだ朝の光で、埃が白く浮かび上がる。
それと同時に反対側の戸も開いた。
「ん?」
ノックもなしで入って来たのは、明星だった。
「サゴちゃん元気~? ……はなさそうだね珍しく」
「明星先生! お久しぶりです」
「清那さんは元気そうでよかったよ」
不機嫌極まって逆に能面のようになっている高砂とは裏腹に、明星は朗らかだった。
「何の用だ」
ずけずけと入ってくる背の高い男に、高砂は眉間の皺を深くする。
「一つ、頼まれてくれないかな」
明星は気にした様子もなく、乗り出すように高砂の机に腰をかけた。
「もうすぐ太陽祭だ。今年歴史学部は写本の展示をすることになってね。でもうちの学級の生徒は写本を作るのに手一杯で、肝心の内装が全然出来上がってないんだ。目の前の隼が一匹ほど、砂漠旅行のついでに買い物を済ませてくれたらなんて嬉しいだろうと思ったんだけど……」
そういえばそんな時期だった。
増水期を新年として、威照川の水位が下がると播種期、そして作物が実る収穫期の三つの季節で構成されている。
季節が変わるごとに色々な祭りが開催されるが、その中でも一番大きいものは増水期の始まりに開催される太陽祭だ。一年の豊穣を希う祭で、この時期はどこの街でも開催される。
王都である白冠の街は特に太陽祭一色になる。メインの催事として、河向こうの
白髪の隼は、観察するように巻毛の隼をじっと睨んだあと、顎に手をやって一言発した。
「手伝おう」
「え?」
「何を驚いている。お前から誘ったんだろう」
「いやあ、どうせ断られると踏んでいたから」
「諸事情で調査日程に穴が空いたんだ。やれることはやるよ」
明星は黒目をまん丸にした。
「ありがとう。じゃあ早速バザールの方に買い出しを頼むね。これに買う物が書いてあるから」
満面の笑みで手帳を切り取ると、高砂に突き出した。苦々しげに奪い取る。
明星は、僕は現場監督の仕事があるから、と言って研究室を後にした。なにぶん愛想がいいので仕事が多いのだろう。
「こういうこと嫌がると思っていました」
「相互扶助だ。調査が封じられた以上、どうせ暇だし手伝っておけば借りができるだろう。なんだその目は」
「別に〜」
損得で人間関係を構築するにも程がある。それを丸出しにするのも品がない。そんな風だから老獪たちに嫌われるのだ。
逆にいえば素直なので、常に気を遣って生きている明星のような人間にはないものねだりで好かれるのだろうが。
「清那君」
「はい」
「俺は大学の展示に参加したことがないんだ。教えてくれるか?」
「そこからですか!」
白冠のバザールは周辺諸国でも最大の規模を誇る。
街の中心に位置する巨大なドームの中には、各種商店のほか、劇場や酒場も備えられており、一大遊興施設になっていた。増築が重ねられた建物の中は店がひしめき入り組み迷路のようになっており、薄暗い店内の高い天井からは、色とりどりのランプがぶら下がっているまるで別の世界に入り込んだかのような空間設計だ。流石先代王、
バザールには貴族、貧民関係なく人が出入りしているほか、明らかに照耀国の出身ではない顔をした人間たちもちらほら見受けられる。各国の貿易の中心でもあるのだ。
清那は明星に突きつけられた買い物メモを睨みながら、商店を吟味する。明らかに俗世に疎そうな高砂よりは物の値段を識っていると考えてのことだった。
椰子の葉のように絨毯が垂れ下がる店の前で、清那は太った男と向かい合っていた。
「大将、もうちょっと頑張れる?」
店主が提示してきた金額は定価より少し高い。展示会場に使うような大きいものになると買う人が限られてくるため、普通より値が張るのだ。
「ここいらじゃこんなもんだよ。今時こんな絨毯買うのはお貴族様くらいだからね。学生さんが買うのは珍しいんだ」
猿の尾の男は潰れた喉で言う。長年呼び込みをし過ぎて枯れたのだろう。
「え〜、本当に無理?」
「これ以上は下げられないね」
「しょうがないなあ」
したり顔で言う赤ら顔の店主を睨みながら渋々財布を出そうとした時、後ろで店内を観察していた高砂が乗り出してきた。
「店主、聞きたいことがあるんだが」
「はいよ」
「この絨毯、純粋な羊毛だけでなく綿が混じっているだろう。これでは目の肥えている貴族には売れないし、混合糸にしては高すぎる。よくわかっていない庶民が来ない限り、在庫として肥やしになるぞ。値段を変えた方が得策ではないか?」
淡々といつもの口調で語る高砂に、店主の顔が青くなっていく。本人は普通に喋っているだけなのだが、こうなっている時の高砂は静かな迫力がある。慣れていないともはや脅しに近い。
「さ、流石学者先生は違いますねえ。ええ、ええ、私も混合糸だとは思っておりませんで、教えてくれたお礼に、そうですね、ええ、半額でご提供いたしますぅ……」
実際ぼったくろうと画策しての値段設定だったのだろう。店主のつるりとした額には玉のような汗が浮かんでいた。
「当然のことを指摘しただけだ。それでもまあ、ありがとう」
一回り小さくなった店主の手に、高砂は先ほどの半分の貨幣を乗せる。丸まった絨毯を抱え、軽く一礼をして店を出た。
店の奥で小さく呻く店主が少しかわいそうだった。
「よく分かりましたね。縦糸と横糸の材質が違うならまだしも、そもそも混合糸の違いなんてパッと見で判断できないです」
「一人暮らしだからな。品の甲乙と値段の交渉くらい自然と身につく」
「えっ……てっきり貴族のおぼっちゃまだと思ってました」
強大なバックボーンがなければ、出世できない学問なんてできるはずないのだ。しかも、そういう家は大抵召使がおり、よほど変人でない限り自力で生活する術など知らない。
「実家には随分前に勘当されたよ。元々政治家の家だから、歴史学に進むなんて許せなかったんだろう」
別になんとも思っていない風に言う。
「まあ、俺のやりたいことは庶民の暮らしを記録することだからな。自分で生計を立てた方が、話者の方たちと同じ目線に立てて良い」
実際それで好きな学問をできているんだから文句がないどころか好都合とは末恐ろしい男である。商人の娘なのに目利き一つできない私の方が少し惨めに感じてきた。
(待って。じゃあその研究費はどこから?)
金にならない学問には、研究費など雀の涙ほどしか落ちないはずだ。
ふと過った疑問でひそめた眉に露ほども気づかず、高砂は翻した。
「今ので少し金が浮いたな。休憩がてら珈琲でも飲みに行こうか」
「あ、ちょっと待ってくださいよ!」
歩き出した高砂を追おうと、整然と敷き詰められた石畳を踵で叩いたその時だった。
にゃあ。
どこからか、猫の鳴き声がした。
「?」
振り向いても薄暗い喧騒が広がっているだけ。
「どうした?」
「いや、気のせいです」
にゃあ。
再び歩き出そうとすると、雑踏を押し除けるようにもう一度鳴く。先ほどよりも強く。
にゃあ、にゃあ。
今度は方角まで判別できた。先ほど出てきた絨毯屋の脇の路地からだ。
呼ばれている、そう思った。
「高砂先生。少し回り道していいですか」
広い背中に投げかけると、くすんだ白髪が翻る。
「構わないが」
清那は居ても立ってもいられず、ずんずんと路地を進んだ。
その間にも、縋るような鳴き声は大きくなっていく。逸る清那に構わず、市場の人々は何もないとでも言うように日常を過ごしている。高砂も怪訝な顔をして後を追う。
垂れ下がった数多の天幕を抜けた先。商店と商店の間に挟まるようにして、小さな祠が踞っていた。
石灰岩の石組みのようだが、不思議なのは並行屋根の上に猫のような耳が生えている。それだけではない、夥しい数の猫の形をした甕が周囲に屹立していた。
ステンドグラスの天窓から差し込んでいるのか、極彩色の光が猫の祠にかかり浮かんだ埃を映し出す。
まるで夢の中のような光景だった。
「見たことない形式の祠ですね」
清那は子供の背丈ほどの祠を撫でた。誰も手入れをしていないのだろう。ところどころ禿げてヒビが入っている。
「これは……猫塚か?」
「猫塚?」
猫の甕を一つ持ち上げて、高砂は言う。
「千夜国では猫を神聖な動物と考えていたんだ。猫が死ぬと、人間と同じように
千夜国の遺産が照耀国の建造物の中にあるのは絶対におかしい。千夜国の遺跡をおもちゃのように破壊する王が、わざわざ自分の建てる市場の中に祠を作るはずがないのだ。
清那が目線を下げると、ふと、祠を護るように置いてある一体の猫の像が目に入った。
金色で着飾った黒い猫の像は、片耳が欠けて地面に落ちている。
何気なく手にとる。欠損部分に落ちていた耳をはめた。石の感触は思ったより温もりがあった。
気のせいだが、猫の目が少し細まったような気がした。
ちょうど笑っているかのような。
「清那君。気にはなるがそろそろ時間だ。珈琲を飲む時間がなくなる。行くぞ」
清那が振り向くと、高砂はすでに祠に背を向けていた。
「はい!」
天幕を腕押しする高砂に声を投げる。
清那が立ちあがろうかと思ったそのときだった。祠の方からまた鳴き声が聞こえた。
それは確かに言葉を形成して。
「やっと、みつ、けた」
小さくも力強い声だった。
子供の声に似たそれを、清那は随分と昔から知っているような気がした。
□
鈴を転がすような声が、楽屋に響き渡る。
「清那! 一生のお願い!」
千里先の音も聞き取れそうなくらい大きな犬耳をぺたんと倒して、
太陽祭期間二週間ほど、書院は休みになる。
歴史学部の展示の準備も終わり、砂漠調査も無くなった私はいい機会にと実家に帰ってきていた。高砂も何やら用事があるらしく、論文も進まないのでサボりにきたと言うのが正しい表現だが、帰ってきたら帰ってきたでやはり家業の手伝いをやらされている。
清那の両親は共に仕事に生きる人間だ。父は砂海の隊商手配に精を出し、母は劇場の経営をしている。
清那の母は元々地方貴族出身だが、子が産めぬ体であり、早々に家を追い出され砂漠の果ての小さな街に捨てられた。人買いに見つかり夜職も兼ねた踊り子として売り出されそうになっていたところ、当時傭兵崩れだった父に助けてもらったらしい。それからは父と共に自らキャラバンを立ち上げ、砂漠を西へ東へと渡っていた。その途中で拾ったのが清那である。なんやかんやあって王都白冠に落ち着いたあとは、キャラバンで稼いだ元手を使い劇場を建てた。
その経験もあって、母は孤児の救済に精を出しているのだ。自分や清那と同じような境遇の子たちを雇い踊り子として育て、安定した収入と暮らしを提供している。
母の手腕のおかげで、孤児たちは夜職を兼ねないでも踊り子として劇場に立つことができるようになった。父の事業とも提携していて、希望する子にはキャラバンの職を斡旋している。
甘夏もその踊り子の一人だった。パワフルで明るい彼女は劇場でも特に人気で熱烈なファンも多い。大きな瞳に花のような笑顔、くるくる変わる表情、華奢な体に幼さが残る仕草と来れば男女関係なく彼女に魅了されてしまうのは当然だ。
清那と甘夏は年も近く、他の踊り子たちと共に姉妹同然で育ってきた。
「なんで私が。代わりの子は沢山いるじゃん」
「清那じゃなきゃダメなの〜! ここの女はみんな口が軽いのよ。事情を言ったら絶対広まっちゃうでしょ」
楽屋には昼下がりの陽光が差し込んでいる。天幕に紛れるようにして大量の舞台衣装が掛けられている。焚きしめられた強い乳香の香り。彼女が特に気に入っているものだ。
清那が帰ってきた当初は裏方を任されていたのだが、甘夏に見つかった途端代役を頼まれるなんて本当についていない。なんでも甘夏は隼人将軍の大ファンであり、太陽祭宵山の前日に催される凱旋パレードを絶対に見たいらしい。主役級なのにポイとその地位を投げられるあたり、彼女の天衣無縫さがもろに出ている。役者の責任感はどうした。
「でも私数年は踊ってないし、主役なんて張ったらそれこそ他の子に殺されるよ」
「殺されないよ。清那はとっても舞が綺麗だし、
「おかんに!? もうそこまで話通ってんの……」
視界が明滅した。そんな理由で主役を素人に任す母親も大概だ。
「だからお願い。私の代わりに舞台に出て」
甘夏の潤んだ瞳が清那を射抜く。
清那の手を覆うように、甘夏のひんやりとした掌が重なる。
「うう……」
あざといとは思いつつも負けてしまう。清那はせめてもの反抗に小さく唸り声を上げた。
「わかった、やるか!」
「やったあ!」
甘夏の顔に大輪の花が咲いた。艶やかな黒い尻尾が千切れんばかりに揺れる。
「で、演目は何なの?」
「炎の王と星読みの巫女」
「うわぁ」
清那は思わず天を仰いだ。
炎の王と星読みの巫女とは、古い民話から題材を取った劇である。
舞台はとある国の王宮。炎の王と呼ばれたその王は、手のつけられない暴君として悪名を轟かせていた。王は極度の人間嫌いで、近しい家臣以外を絶対に王宮に入れなかった。その妃に選ばれたのは神殿の娘。娘は神に祈りを捧げる舞手であり、星を読み神託を下す巫女だった。娘は王の人間嫌いを治そうと、夜ごとに星の物語を語り、歌を歌い、踊りを踊る。娘の努力の結果、王の人間嫌いは治り、彼は賢王として後世まで名を残すことになる、という話だ。明言してはいないが、星読み、巫女などのモチーフから千夜国の話なのはすぐ類推できる。
人気のある演目なので私も散々見てきているし、練習に混じったこともあるから踊れないわけではないのだが、一番の難点は大団円の曲だ。この曲だけは、相手役である王と息を合わせて踊らなければならないのである。
「大丈夫だよ〜。裕都さん一番うまいしリードしてくれるから」
「そうだけど……」
自分一人で踊るならまだしも、他人と合わせて踊るのは苦手なのだ。相手の感情を細かく読み、それを表現として昇華するのは、自分の感情を表現するのとまた違った難しさがある。
上機嫌な甘夏を見ながら、清那は大きくため息をついた。
鋭い目をした隼は静かな声で言う。
「見に行きたい」
「嫌です!」
店中に声が響いてしまって、清那は慌てて口を覆った。
高砂の用事が済んだというので、打ち合わせもかねて書院の中にある珈琲屋に来ていた。朱鷺書院に通う者は寮暮らしの若者が多いため、安価な食堂や売店が学部棟の各所にある。太陽祭期間でも店は開いているのだ。
ここもその珈琲屋の一つで、歴史学部棟の図書館の脇にある。他の食堂と比べて静かなので、休み期間でも勉強をしに来る学生が多い。
がらんとしたカウンターの席で、誤魔化すように珈琲に口をつける。脳が痺れるほど甘いバクラヴァ(蜜漬けのパイ)に深煎りの豆がよく合う。
「千夜国が題材の話なのだろう? 民族舞踊ならまだしも、白冠でちゃんと上演されている劇の類は実は見に行ったことがないんだ。何か研究に生きることがあるかもしれない」
隣に座る高砂の尻尾がパタパタ揺れている。表情に出ずともワクワクしているのだろう。
「そうだとしても嫌です」
「なぜ?」
「直属の教師に自分の恥ずかしいところを見られたくないんです」
「恥ずかしいのか?」
「だって書院に入学してから数年踊っていないんですよ。周りについていけてなくて」
任された日から練習を重ねているが、やはり現役の踊り子との差は歴然としていた。体が鈍っているのもあるが、それ以上に感情の込め方などの機微がしっくり来ないのだ。
それは最終幕の裕都と二人で踊る場面で如実に顕れており、動きがなぜかぎこちなくなってしまう。相手の誘導に合わせるので必死で、表現まで手が回らない。
生半可なものを見せたくない。特に知人には。
高砂はなんとでもない風に黒い瞳で見つめてくる。
「でも清那君は踊りが好きなんだろう?」
「それは、そうですけど」
なぜ今好きとか嫌いとかいう話が出てくるのだ。
「大丈夫だ。好きという気持ちさえあれば表現として伝わる。自信を持っていい」
無責任な発言だった。
しかしその言葉に安心している自分がいた。
芸術と学問はアプローチが違う。しかしこの類の教訓は万物に通じるのである。実際、相手はそれで研究の信用を勝ち取っている張本人だ。
重ねて、今までの経験則、高砂という男は自分勝手で空気を読まないが、その代わり絶対に口に出す言葉を取り繕ったりしない。
だからこの発言も、本心から言っているのだろう。
(たちが悪い)
清那はなぜか悔しくなってわざと頬を膨らませた。
高砂はいつもの肩掛け鞄から紙と羽を取り出し、何やら書き付けている。清那なんて目に入っていない。
どろっとした珈琲から白い湯気が上る。
やがて満足したように目を輝かせて言った。
「さて、上演日までに関連した書物を読み漁るとするか」
「だから観にこなくていいですから!」
公演日の一週間前。
「裕都さんが怪我?」
早朝、練習所で柔軟をしているところに母親の有砂が飛び込んできた。
小麦色の巻き髪を揺らしながら、紅く塗った唇を開く。今は少々やつれているが、昔は美人と持て囃されただろうなと思わせる化粧だ。
「昨晩自主練で足を痛めちゃってね。お医者様がいうことには一週間は安静だって。でもうちに鳥族で褐色の男性って裕都くん以外にいないでしょう。どうしようかしら」
母親の耳の裏からは淡褐色の羽が生えている。それは彼女のもともとの生まれが高貴だからであり、貴族崩れでもないかぎり、鳥族で身分が低い者は珍しい。
「いっそ鳥じゃなくするのは?」
「ダメよ。王の役は鳥族って決まってるんだから。清那には申し訳ないけど、もう他の劇場の役者さんにお願いするしかないかしら」
他の劇場の役者を引き抜くとなると、仲介やらなんやらで煩雑な手続きがある。ただでさえ時間がないのだ、これ以上の手間はかけられない。
(褐色の鳥族か……)
脳裏に一人の男が浮かぶ。
「待って」
あれは踊り子でもなんでもない。しかし砂漠を歩き回っている影響かそもそも鍛える習慣があるのか筋肉はできているし、興味がないと行動しないだけで、研究が絡めば相当スペックが高い気がする。
そしてこの劇はなんと言っても「民話」が題材だ。
演技ができるかはわからない。とんだ大根役者かもしれない、が。
「ダメ元でお願いできる人、いるかも」
母は目を見開いた。
「高砂と申します。清那さんの担当教員を務めさせていただいております」
高砂が劇場に現れるなり、踊り子たちが沸き立った。清那は中身を知っているから呆れてしまうが、あろうことか話者対応時のうすら寒い笑みは女性陣に好評なのだ。
そう、話者対応の笑みだ。
千夜出身の踊り子の舞台を中から体験できる、と言ったら、文字通り尻尾を振って承諾してくれた。興味を持ってくれて助かったが、まさかうちの劇場内を研究対象にするつもりなのだろうか、実際そうなのだろうな。
「あらまあ、随分爽やかな方じゃない」
あの悪魔の笑みに、人を見る目があるはずの母親まで好印象を抱いている。こうなると恐ろしい。
「隼人様と並ぶくらいかっこいいじゃん! 気品もあるし王にぴったりだわ!」
「声も渋くて素敵〜!」
「清那! なんでこんなイケメンが担当だって教えてくれなかったのよ!」
「えー……」
仲の良い踊り子たちが口々に清那に囁いてくる。君たちが黄色い声をあげている相手は自分勝手で傲慢な学会の問題児だぞ、とつい言いたくなるのを堪えた。
「それで、踊りの経験はあるの?」
「お恥ずかしながら経験はないんです。こんな大役を仰せつかってしまい恐縮ですが、ご指導ご鞭撻をお願いしたく存じます。台本はすでに暗記しておりますので、そこはご心配なく」
あまりにも慇懃な言い回しで白々しさまで感じてしまうが、暗記しているのは事実だろう。こと千夜の習俗のことになると人が変わるのはわかっている。
「うん。体幹もしっかりしているし、声も良い。これは期待できるわね。早速練習を始めましょう」
少々高砂をみくびっていたかもしれない。
元々体力があるのはそうだが、全く踊れなかったはずが数日でコツを掴み、客に見せても遜色ない仕上がりになってしまった。普段あんなに無表情なのに、演技になると違和感なく感情を作る。落ち着きのある低音は、歌に乗せると驚くほどの伸びを見せた。これには指導担当もご満悦である。
学問の分野で天才なのはわかっていたが、あまりにも器用すぎる。素の舐め腐った性格さえ封じれば完璧人間になってしまうのではないか。逆だ、なんでもできるから傲岸不遜なのか。
今日も深夜まで練習をし、清那たちは休憩室に戻って食事を摂っていた。役者から裏方まで一緒くたになって同じ釜の飯を食らうので、この部屋は一時的に宴会のような状態になる。
清那は疲れ切っていたので、騒ぐ余裕がなく部屋の隅のソファに腰掛けてスープをすすっていた。暖かいモロヘイヤのスープは、冷える砂漠の夜に温もりをもたらしてくれる。汗をかいた体に、ニンニクの塩辛さが染み入る。
「隣、いいか?」
「どうぞ」
高砂は静かに腰を下ろした。
飛び入りの隼はあの薄ら寒い笑みで他の踊り子たちや裏方とも良好な関係を築けているが、流石に常時表情を作るのは疲れるのだろう。夕食になると能面を引っ提げて清那のところに来る。
「なぜ隼なんでしょうね」
横で汁を口に運ぶ高砂に向けて、ぽつりと思ったことを呟いた。
「千夜の王族は狗族のはずでしょう? 王都で上演するのに無理やり設定を変えたとか?」
高砂は少し考えた後、言葉を選ぶように語る。
「それもあるかもしれないが、民話や伝説は、要は伝言ゲームだからな。人に伝われば伝わるほど違いが出やすいんだ。それに、ただ亡国という設定を使いたかっただけで後世の創作の可能性の方が高い」
「そりゃそうですよねー」
清那は愕然と肩を落とした。千夜国には王が二人いた仮説とか面白いな、と薄々思っていたが現実は意外と普通である。
しかし高砂は自分で否定したにも関わらず、何か訥々と呟いている。
「でもそうか、炎の王は、いや、そんなことは……」
「なんですか?」
「なんでもない」
論理を組み立てて話す高砂だ。思いついた説に確証がない場合、口には出さないのでそういうことなのだろう。
しかし、なにを思いついたのだろうか。
千夜王の名前さえ数人しか知らない清那には見当もつかなかった。
本番の日。
一週間ほどしかない練習期間だったが、なんとか完成まで漕ぎ着けた。全体を通して興行として見せられる仕上がりになったので、関係者全員でひとまず胸を撫で下ろした。中でも高砂の成長は凄まじく、細かな指先の動きまで完璧に熟せるようになっていた。
問題はやはり最終幕、二人で踊る部分である。
各々練習はしたが、合わせる練習は時間の都合上数回しかやっていない。いざ舞台に上がった時、何かやらかさないかと清那は心配でしょうがなかった。しかも、裕都と違い相手は初心者である。万が一の場合こちらがリードしなくてはならない。
不安を募らせながら、舞台衣装に着替える。
白冠の舞の特徴は流れるような旋舞だ。衣装もそれに合わせて、空気を含んで腰布がふわりと広がるような構造になっている。地面を踏んだ際音が鳴るように、装飾は金貨のような部品が鈴なりに実ったものだ。やはり夜職の衣装から発展したものではあるので、腹も腕も出ている。貧相な体つきが顕になり、かなり恥ずかしかった。
舞台袖でソワソワしていると、他の踊り子と共に高砂がやってきた。普段砂で薄汚れた、動きやすさ重視の雑な格好ばかりしている彼だが、化粧をして舞台衣装に身を包むと本当の王族のように見える。男性も舞踏用の衣装は体の線がしっかり出るものになっているため、よく鍛えられた筋肉が浮き上がっていて、清那は柄にもなくどきりとした。
歩みを進めるたびに、彼の長い帯が揺れる。
落ち着いた動作は、そのまま王の威厳に繋がる。
清那に気づいたのか、白髪を後ろで三つ編みにした高砂がこちらを見つめてくる。表情が読めない。
何か言いたげに近づいてきたので、清那は目を逸らした。
「……どうせ、似合ってないとか、馬子にも衣装とか言うんでしょう?」
「いや、髪を下ろしている姿を初めて見たので少し驚いた」
「はあ」
確かに普段は邪魔なため、編み込んでバンダナで隠している。
それにしてもじっと見つめてくるので、清那は本番前のものとは違う意味で嫌に緊張した。
(まさかこの能面男、私に好印象を持っていたりするのか? よく考えたら年もあまり変わらないし、そもそも所帯を持っていないし……)
ようやく、口を開いた。
「……千夜の巫女は案外こういう感じだったかもな。今度南方砂漠に行ったら絵図でも探してみるか」
「結局研究のことじゃないですか!」
高砂はきょとんと首を傾けている。
察しの悪いいつもの隼に、今までの緊張が全て吹き飛んだ。
「不安なのか?」
「今のでどうでも良くなりました」
ぷりぷり怒りながら言うと、高砂は何が面白いのか、ふ、と一瞬吹き出し、
「心配しなくても、清那君は十分綺麗だよ」
と、さらりと言ってのけた。
「えっ」
思いがけない発言に、ギョッとして高砂を見る。黒い瞳はいつもの無表情に戻っていて、舞台の方向を見つめている。察するに、思ったことをそのまま言っただけなのだろう。
(それにしても、調子が狂う……)
案内役の、通る声が劇場に響き渡る。
『それでは、天狼座太陽祭公演、炎の王と星の巫女を開演いたします』
緞帳が上がる音がした。
□
炎の王と星の巫女最終幕。
王宮の塔の最上階。炎の王の寝室。
一番星が輝く頃、巫女は高塔の階段を登り、いつものように扉を叩く。
照明が明るくなる。
アーチ型の大きな窓の外には、満天の星が輝いている。
炎の王は問う。
「星を司る巫女よ、私と踊ってはくれないか」
炎の王は手を差し出す。勇気を出して人間を信じてみよう、その一心で。
星の巫女は答える。
「ええ、喜んで」
星の巫女はその手を取った。孤独な王を信じてみたい、その一心で。
太鼓の音が空気を刻む。
舞台袖で掻き鳴らされる弦に合わせ、大地を踏み鳴らす。
体を揺らすたびに、ふわりと裾が舞い上がる。
先程まであんなに不安だったのに、音に体を乗せた瞬間、言いようのない高揚感が迸った。
(楽しい)
相手役と踊るのは苦手なはずなのに。
自然に手足が動く。あんなに合わせるのに必死だったのに、そんなことは頭のどこからも消えていた。
一緒に踊る相手が高砂だというだけで、なぜか安心感があった。なにがあっても、この人なら静かに受け止めてくれる気がした。
高砂の長い三つ編みが、回るたびにしなる。
二人で踊る時、大切なのは踊りの技量ではない。相手を信頼する気持ちだ。
清那はもう知っている。高砂はいつも真摯に物事を捉えていることを。
清那はもう知っている。高砂は嘘をつかないことを。
好きなものに対して、決して手を抜かないことを。
だから、彼の踊りにもそれが滲み出ている。堂々と、自信を持って舞台を踏み締める。
そんな高砂だから、清那は信じることができた。
(先生が拓く世界を)
(私も一緒に見てみたい)
完全じゃなくても。
後世の創作だとしても。
消されてきた歴史を、砂に埋もれたあの国の姿を。
今この瞬間に再現しよう。
(貴方となら、それができる気がするから)
繋ぐ手から体温が伝わる。
呼吸を重ねて、夢を見る。
黒い瞳と目線がぶつかる。その眼差しは優しい賢王そのものだった。
『星明りを灯し、炎を灯し、共に千の夜を照らそう』
□
緞帳が降りて舞台袖に捌けるなり、母親に抱きしめられた。
「すごく良かったわよ!」
母の香油の香りに包まれる。緊張が解けてどっと疲れが来た。
「最高だった!」
「清那も高砂さんも、マジで本物見てるみたいだったよ!」
「私泣いちゃった!」
「清那ァーー! よかったぞおおおおー!」
猪のような勢いで父親が抱きついてくる。
「やめてよ髭が痛い!」
高砂は関係者にもみくちゃにされる清那を離れて見ていた。
その目線が少し寂しげに見えたのは、清那の思い違いだろうか。
そう思ったのも束の間、高砂は一瞬震えたかと思うと右腕を抑えた。
「う……」
苦しげな唸り声と共に、長身が地面に落ちる。
「高砂先生⁉︎」
清那は居ても立っても居られなくなり、急いで駆け寄る。
高砂は呼吸をするのも困難だというようにヒューヒューと浅い息をしている。額には玉のような汗が浮かび、整った顔は苦悶の表情に歪む。
「これ、何……?」
踊り子の一人が、高砂の腕を見て言った。
必死で抑えている右腕が、石油のように黒く変色している。みるみるうちにそれは固まり、まるで蛇の鱗のようになっていく。
変化は指先まで及び、四角い爪は獣のように黒く鋭く尖り、もう明らかに人間のそれではない。
化け物の、それだ。
清那は照耀国の神話に出てくる悪神を思い出した。
千夜の神。王家に取り入り、多くの生贄を欲し、人間を使役し、戦いを引き起こした原因。
穢れた、黒い蛇。
千夜の人間が、蔑視される原因。
「すぐ医者を……」
誰かが言った瞬間、高砂が被さるように叫んだ。
「呼ぶな!」
今まで聞いたことのないような強い声だった。
その怒声に周囲は水を打ったように静まり返る。
流石に分が悪くなったのか、弱い声で、無理やり笑いながら高砂は唇を動かす。
「いや……持病の対処は自分でできますから、おかまいなく」
最後の力を振り絞ったのだろう。そのまま、眠るように気を失った。
高砂は楽屋に運ばれた。母は現場にいた人間に堅く口止めをし、清那以外を高砂から遠ざけた。
あの症状は普通ではない。必死に医者を止めたということは、公にしたくないものなのだろう。
とりあえず仮眠用のソファに寝かせたが、どう対処していいか分からず、濡らした布巾で汗を拭くことしかできなかった。
備え付けの瑣末な椅子に座り、清那は長くため息をついた。
窓の外はもうすっかり陽が落ちていた。目をやると、屋台で買ったのであろう、水鳥の串を頬張りながら楽しげに通る人々が見える。明日の宵山に向けて喧騒も最高潮に達している。甘夏が行っていた凱旋パレードもちょうど終わった頃だろうか。
明日には太陽の船が中央通りを通る。
太陽船神事は、死後の世界である夜の国から朝日の象徴である白冠の都に戻ってくる一連の神話を船旅に準えたものだ。旅の最後、隼日神殿の前では、初代王和隼王に扮した神官が千夜の悪神である巨大な黒い蛇を倒す演劇が繰り広げられる。
(黒い蛇……)
高砂の腕に目をやる。どうしても連想してしまう。
滑り気のある鱗にランプの光が反射し、怪しく揺れている。
「ん……」
薄く瞼が開いた。
清那は慌てて布巾を離す。
高砂はふらつきながら上体を起こす。乱れた髪が汗で顔に張り付いている。まだ苦しそうだが、先ほどよりはすっきりした顔をしていた。
清那は水を入れた素焼きの杯を渡すと、よほど喉が渇いていたのだろう、喉を鳴らして一口で飲み干した。
「お加減はどうですか?」
「大丈夫だ。すまない、心配をかけた」
「ダメですよ。こういう時は謝るんじゃなくて、ありがとうでしょう?」
「すま……ありがとう」
鞄を、と短く言われ、清那はいつもの薄汚れた肩掛け鞄を渡す。中から長方形の紙のようなものを取り出して、何か小さく呪文のようなことを呟いた。
紙には左目の模様が書かれている。縁日でも時々見る守護の護符だ。屋台で売っているものとは違い、左目の他にもよく分からない呪文や模様がびっしりと書き込まれていた。
右腕に護符を貼り付ける。するとまるで水に溶けるように護符が黒い鱗に吸い込まれていった。
清那が驚くのも束の間、黒い鱗は嘘のように薄く消えて、元の健康的な褐色の肌に戻った。
いつの間にか、顔色も良くなっている。
「この件はこれで終わりだ。今見たことは他の人には言わないでくれ」
何も無かったかのように鞄を閉じる。
清那は人間業に思えない一連の動作に驚愕していたが、そっけなく言われ少しムッとする。
「何も教えてくれないんですか?」
「それはできない」
「なんで」
高砂は、長いまつ毛を伏せる。
「政治家の家出身だと言っただろう。この病は家の問題とも深く関わっている。興味本位で首を突っ込んだら、清那君が危険な目に遭う。家族も仲間もいる生徒が踏み込んでいい領域ではない」
「私のこと、信用できませんか」
「違う。一生徒でしかない他人に背負わせるものではないと言っているんだ」
他人。
改めて言われると、胸が疼いた。
高砂と清那の関係は、確かにただの教師と生徒なのだ。他人の体の問題に関わる権利はない。
いくら同じ志を持ち、同じものを探しているとしても、それはそれまでだ。
でも、本当に他人なのか?
「先生の病、千夜国に関係があるのでしょう?」
図星なのだろう、鋭利な流し目がすこしだけ開かれる。
「それなら私も無関係じゃない。私は千夜のことを知りたくて先生に着いてきたんです。黒狗の街が焼かれたあの日から、砂漠に骨を埋める覚悟はできています」
ランプの光だけが光源の暗い楽屋に、沈黙が流れる。
「なぜそこまでして、俺に関わろうとする」
高砂の黒目は動揺するように揺れていた。
「……気づいてないんですね」
褐色の右手は、毛布を掴み震えている。
鱗が消えて話し始めてから、ずっと、震えている。
「高砂先生、さっきからずっと苦しそうですよ」
高砂は震える手にようやく気付いたのだろう。毛布から慌てて手を離した。
「……空気が読めるのも考えものだな。教職など、最初から突っぱねていればよかった」
「それじゃ何も解決しません。私を頼ってください。思い出の唄を覚えていてくれた恩人が苦しんでいるのに、ただ見ているだけなのは、辛いです」
高砂の口を開かせるための、精一杯の言葉だった。
清那自身、なぜこんなにも積極的に彼に関わろうとするのかわからなかった。高砂ほどではないとしても、清那だって人間関係を利で考える方である。だというのに、今は敢えて危険な道を選んでいる。彼は迷惑がっているのに、反するような行いをしている。
何が自分を突き動かしているのかわからなかった。
清那は壊れたように震える褐色の手に、自分の手を重ねた。高砂の手は清那より関節ひとつ分ほど大きく、豆だらけで硬い。ざらついた肌には、柔らかさが感じられない。
「他人を、信じてください」
冷たくなった指先に、体温を移す。
不器用な手だ、と思った。
一人でずっと歩んできたのだろう。人を頼らず、人に心を許さず、生きてきたのだろう。清那の妄想かもしれないが、そんな感傷を抱かせる手だった。
「……わかった」
高砂は諦めたとでも言うようにため息をつく。
「俺の負けだ。清那君には俺の荷物を一緒に背負ってもらうぞ。後悔するなよ」
「望むところです」
外から宴の音が聞こえてくる。
喧騒は逆に、この部屋の暗さと静けさを強調しているようだった。
孤独な隼は、覚悟を決めたように唾を飲み込んだ。
「俺には、千夜国の悪神の血が流れている」
そして、何かを恐れるように語り出した。
「和隼王が悪神を殺し、照耀国を建国するという正史は王家に都合よく改竄されたものだ。実際、悪神は死んでいない。悪神は和隼王に討ち取られる瞬間、照耀国王家に末代まで続く呪いをかけたんだ。異形の呪い。王の第一子は必ず、忌子として生まれてくる。鳥族なのに骨が通った尾を持ち、成長するとともに体が悪神の姿に変化していく。最後には人間の姿を失い、自我が消え発狂する。俺が当代のその長男にあたる」
「えっ⁉︎ 先生って王子様だったんですか」
「正真正銘隼玉王の第一子だよ。この情報は王家でも数人以外秘匿されているが」
「私が聞いちゃいけないんじゃないですか……」
「だから言っただろう。危ない目に遭うかもしれないと」
まさかこんなに規模が大きい問題だとは思っていなかった。これに関しては先ほどの高砂の伝え方も悪いんじゃないか。
「今現在、王家の呪いを解く方法はない。生まれてからこの方、俺は王宮の中に閉じ込められ、いないものとして扱われた。転機が訪れたのは十四歳の時。朱鷺書院の入試に受かったことが認められ、やっと外に出ることを許された。それからは王宮から援助をもらいながらだが、一人暮らしをして、呪いを解く方法を独自に調べていた」
「じゃあ、高砂先生が千夜の研究をしているのは、王家の呪いを解くためってことですか」
「それが大きな理由の一つなのは否定しないが、単に研究が好きだというのは事実だよ」
急に表情が柔らかくなる。
(本当に、研究が絡むと子供のように素直になる人なんだな)
清那はなぜか安心した。あるいはそれは、どんな事情があれども、研究に対してだけは純真でいてほしいという願いだったのかもしれない。
「幼い頃、遊んでくれる子供も構ってくれる大人もいなかったから、宮廷図書館に入り浸って本を読んでいたんだ。そこの司書長が俺によくしてくれてね。歴史に留まらず、算術や工学に至るまで様々なことに精通した人で、俺は師匠と慕っていた。彼とは沢山話をした。俺を怪物扱いしない、優しい人だった」
憧れだったのだろう。声音に哀愁が混じっている。
「清那君は、竜という言葉を知っているか?」
高砂は不意に話題を変えた。
「いいえ。初めて聞きました」
「そうだろうな。俺も司書長が漏らしているのを聞いただけだから、知らないのも当然だ。司書長の言うことには、旧千夜国では、悪神をその言葉で表現し、崇拝していたらしい。しかし、そんな言葉を書いた文献は愚か、南方砂漠での調査でも聞いたことがない」
「司書長に聞いてみたらいいんじゃないですか。思い違いということもあるだろうし」
「そうしたいのは山々だが。彼はその言葉を発した数日後に罷免されたよ。金の使い込みと言う名目だったが、あんなに欲のない人がそんなことするわけがない」
書院の図書館司書もそうだが、司書というのは書記系の職の中では野心の薄い、ただ書物が好きな人間がなる印象がある。幼少期から大人の悪意に触れてきた高砂が懐くくらいだから、その司書長という人もそうだったのだろう。今の高砂に似ている人だったのだろうな、というのは何となく想像がつく。
となると、この話は、一気に怪しくなってくる。
「口封じ……」
「そうだろうな。彼は王家の禁忌に触れたんだ」
高砂の中に流れている悪神の血と、千夜国で敬われていた竜。清那が先ほど見た印象では、あの腕は禍々しいものではあれども、信仰するに足るものではなかった気がする。少なくとも、二面性があるとは言えない。
では、竜とは、何だ。
「文献にない、言葉を発する人もいない。何らかの思惑で消されたとしか思えない。だから俺は、その二つとは違う方法で千夜国を調べることにした。俺の研究方法については、清那君も知るところだろう」
禁忌に直接触れず、外堀から類推するにはどうすればいいか。
高砂が必死で考え抜いた結果生まれたのが、あの話者からの印象を拾う研究方法だったのだ。
「それだけじゃない。黒い蛇の悪神。それでは辻褄が合わないんだ。太陽祭の演舞に見られるように、一般に流布している悪神の姿は黒い大蛇だ。でも俺の腕は、鱗は生えども独特な手があるだろう。症状が重い時は、背中に翼のような突起も生える。明らかに蛇じゃない」
そして高砂は、初対面で発したあの言葉を、もう一度繰り返した。
「黒は、死の色だと思っていたんだ」
高砂は土色の天井の遥か先、星空を見つめるように天を仰いだ。
「しかし千夜国の民は肥えた土壌の色として認識している。照耀の肥沃な土の黒さも変わりないのに。三百年前、「何か」があったんだ。黒が忌まれるようになった歴史が。そしてそれは今でも、意図的に隠されている。そこに俺は病を治す糸口があると踏んでいる」
黒色。最初に聞いた時とは、印象が全く変わる。含む意味も、重さも。
「照耀国王家が隠しているものを、外側から暴く。そして、王家にかかった呪いを解く。それが俺の使命であり、責任だ」
アイシャドウで丁寧に縁取られた黒い瞳が、一層黒くなったように感じた。しかしそれは闇が深くなったのではなく、確固として闇を見つめる者の黒さだ。
「俺は完全に怪物になる前に、その方法を見つけなければならない。次の世代に呪いを残したくはない。俺のような子供は、これ以上増えなくていい……体の変化に怯える恐怖も、自分がいずれ厄災になるという自責も、こんなもの、明るい未来に必要ない」
最後の言葉は、絞り出すように吐き出した。
高砂の告白に、清那の鼓動は早まっていた。
可能性に気づいてしまったのだ。
清那にも、今まで目を逸らし続けていることがあった。今の高砂の告白は、それを裏付けるものだ。
「……実は私も少し、おかしいと思っていたんです」
壊れたように、鼓動がより早く、大きく波打つ。
「
心臓を強く握りつぶされているような感覚に陥る。
心の裡に潜む秘密を明かすのは、こんなにも怖いことなのか。
(高砂先生も、同じ気持ちだったのだろうか)
「地方都市ですらない。交易の拠点でもない。内陸部のオアシスの領主を殺したところで、何の得もないんですよ。私怨ならわかりますが、歴史書には計画的な政治反乱と記されているでしょう。おかしいと思いませんか」
ずっと、頭の片隅に常駐していた疑問。ずっとそこにありながら、気付かぬ振りしてしまい込んでいた。なんなら、今この瞬間まで、墓場まで持って行こうと思っていた、私の荷物。
(私が千夜国を知りたい、本当の理由)
「私は、あれは照耀国側が故意に起こした紛争だと踏んでいます」
こんなこと考えた時点で国賊だ。いくら優しい今の両親相手でも、これまで伝えることはできなかった。
「知りたいんです。私の故郷がなぜ滅ぼされねばならなかったのか」
声を潜めて、でも確実に聞こえるように、小麦色の毛並みを持つ山犬は言葉を発した。
「……なるほど。ここに来て、利害の一致ということか」
異形の隼は顎に手を当て、その目を細めた。
「面白い。その話、乗った」
その視線は、獲物を狩るときの、それ。
「今から俺たちは共犯者だ。異論はないな?」
「ええ。受けて立ちましょう。二人なら王家のひとつふたつ、怖くありません」
ランプの炎で、二つの影が切り取られている。
影に映された二匹の獣は、大きさの違う手を取り合い、堅い握手を交わした。
次の日の朝。
あの後打ち上げにも参加したため、疲れが抜け切れておらず、清那は布団に体を埋めて泥のように眠っていた。昨晩はあんなに大事を起こしたにも関わらず、いざ宴が始まると高砂はケロッとした顔で強い酒を飲んでいた。
朝の光が天井沿いの小さな窓から差し込んでいる。
夢現のまま、大きな耳だけは敏感に音を集める。
慌ただしい靴音。窓の外からだ。
太陽祭の最終日だが、祭りのどんちゃん騒ぎとは毛色が違う。それはどちらかというと緊張をはらんでいた。
パタパタとサンダルの足音が聞こえてくる。それはだんだん近づいてきて、最後にはドンと盛大な音を立てて自室の扉が開かれた。
「清那! 清那! やばい!」
甘夏の清んだ声が響き渡る。高い声は焦りで少し震えている。
「甘夏〜? 入る時はノックしてよ〜」
清那は目を擦りながら起き上がった。
自室は学術書や服がとっ散らかっていて汚い。身内でもあまり見せたくはない。
「早く起きてよ! あの! は、ははは、隼人様が……!」
「隼人様?」
身内にはいない名前だ。寝ぼけた頭ではうまく像を結べない。
(ん? 隼人様?)
誰かと思えば、甘夏の憧れの将軍ではないか。熱を上げている人間が言う「やばい」はどうせたいしたことではない。
「私隼人様はタイプじゃないんだよね〜」
「そういうことじゃない! いいから早く!」
再び布団に潜ろうとした清那を、甘夏が引っ張り上げる。さすが花形役者、腕力はある。
焦って訳がわからない言動を繰り返す甘夏に急かされ、渋々着替えて事務所の玄関に向かうと、広い玄関は異様な様相を呈していた。
見知らぬ一人の男に付き従うように兵士が並んでいる。その男に相対するように、母が背筋を伸ばしていた。
「早朝にお邪魔をしてしまい、大変申し訳ありません」
片腕の隼は通る声で言った。高砂の重厚感のある声とはまた違った、透き通るような青年の声である。
男は光沢感のある白い絹のローブを纏い、よく磨かれた剣を腰に刺している。垂れた目に、まっすぐな眉。濃く引かれたアイシャドウは屋内の薄暗さでもキラキラと輝いている。
隼人将軍。世間的には隼玉王の第一子であり、国内に数多ある太陽神殿の総本山、隼日神殿の神官長、そして戦とあれば負け知らずの大将軍。その肩書を一手に背負う男。ここまで優れていてなぜ王ではないのかと疑問に思うかもしれないが、その理由は至極簡単。片腕を欠損した状態で生まれてきたからである。
他の国は知らないが、照耀国の王権は完全な体を持った王の子供しか与えられない。完全性こそが太陽神の象徴であり、逆に言えばどんなに優秀でも欠けがあれば王としては認められないのだ。つまり、隼人将軍は国のトップになれはしても、王にはなれない。
昨日の高砂の話が本当であれば、隼人将軍は高砂の血の繋がった実の弟に当たる。
褐色の肌。白く長い三つ編みの毛先は墨を含んだように黒い。特徴は確かに似ているが、線が太く無骨な印象を与える高砂に対し、隼人将軍はいかにも王子様然とした、細身で柔和な外見だった。雰囲気という点では全く似ていない。背は高砂の方が少し高いか。
当たり前だが、尻先には骨が通っていない。
「うちの劇場に何か?」
母は王族を前にしても毅然と応対をする。こういう場面を見ると、貴族出身のやり手の女主人というのを改めて認識させられる。何というか、凄みがある。
「人探しの相手が天狼座でお世話になっていると聞きまして、迎えにあがった次第です」
あくまで口調は柔らかいが、目が笑っていない。
「それは、どういった?」
「褐色の肌の隼の男です。特徴としては、尾の先まで骨が通っている。ここでの名前は……」
「俺だろう。天狼座に迷惑はかけないでくれ」
階段から降りてきたのはやはり高砂だった。昨日の今日なのに、涼しげな顔をしている。
階下に降りると、母を自然に後ろに下げるようにして隼人将軍の前に立つ。
「ああ、当人から出てきてくれると話が早いですね。度々すみません。彼と話すことがございますので部屋を一室お借りしても?」
「それは構いませんが……」
「一つ、条件がある」
母ではなく、高砂が答えた。
「聞きましょう」
「この娘も同席させろ」
後ろでぼーっと一部始終を見ていた清那に視線が向けられる。いきなり表舞台に立たされたことにびっくりして声も出なかった。
「こちらのお嬢さんは?」
「天狼座の次期座長だ。場所を借りているのはこちらである以上、権利があると思うが?」
勿論真っ赤な嘘である。
何を企んでかはわからないが、照耀王家の問題に清那を積極的に関わらせる心算らしい。推測するに、証人を立てるとか、その類の保険なのだろう。
隼人将軍は清那をチラリと見た。
何を思ったのだろうか。少しだけ目を見開いた。そして、高砂に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、
「はは、本当に憎いことをする」
と確かに言った。
「えっ?」
聞き間違いかと思った。清那は発言の意図が分からなくて眉根を寄せた。
「いいでしょう」
隼人将軍は今の言葉などなかったかのように高砂に向かって言う。すでにもう清那など目に入っていない風である。
「将軍!」
控えていた近衛兵が嗜めるように叫ぶ。
「大丈夫です。踊り子一人どうにでもなりますよ」
片腕以外完全無欠の王子様は、憂いのない顔で微笑んだ。
清那はどうにでもなる、という言葉の意図を思い巡らせ、思わず尻尾を下げた。どうしても昨日の司書長の話を思い出してしまう。直接刃を向けられたわけでもないのに、背中に冷たいものが這った感覚になった。
高砂は将軍を自分が使っている楽屋に案内した。周囲からの気まずい目線を受けながら、清那も緊張を殺し二人の後に続き部屋に入った。
「改めまして。お久しぶりです、
ささくれた椅子に眉ひとつ動かさず座った将軍は、高砂に手を差し出し、無理やり握ろうとした。
「貴様に兄と言われる筋合いはない」
高砂は譲らず手を跳ね除けた。昨日寝台になっていたソファに、一人分空けて腰を下ろす。清那も座れということだろう。恐る恐る腰を落ち着ける。
「ははは、手厳しい。僕もまさかあのお兄様が踊り子に落ちぶれているとは思いませんでした」
「それ以上言葉を発すると、その口を縫い付けるぞ」
「怖いなあ。そんなに睨まないでくださいよ」
今までニコニコしていたのは演技だったのだろう。隼人将軍は、急に冷めたように真面目な顔になる。
そして、無機質な声で淡々と喋り出した。
「お兄様に神託が降りました。程なく星辰が揃います。お兄様におかれましては、急ぎ王宮にお戻りいただきます。予定では、もう二、三日でお兄様は完全体に変化します」
「……早いな」
高砂は眉を顰めた。
「神官たちによると、急に星の動きが変わったそうです。もうあまり時間がありません。今のうちに首を落とさねば災害になりかねませんので」
「神託は正確なのか」
「今回の神託は、太陽ではなく星の導きです。あちら側から神託に干渉してくるなら、疑う余地はないでしょう」
「そうか」
直接の物言いは避けているが、高砂がじき悪神に変化する旨を伝えにきたのだろう。それなら王族自ら説明に来るのも理解できる。もし悪神が完全に顕現してしまったら、最悪この白冠も砂漠になってしまうから。
(つまりもう二、三日で、高砂先生は殺されるということ?)
早すぎる。清那にとっては昨日今日の話である。協力するとは言ったが、研究も何も手をつけていないではないか。
「他に方法は」
「現状、ありません」
あくまでも伝達するだけといった態度をとる将軍に対し、高砂は膝の上で拳を握りしめていた。
ここまで人生を賭して研究し、運命に抗おうとしたのにそれも無に帰すのだ。その眉間には、並大抵ではない悔しさが滲んでいた。
千夜国の過去こと。
照耀国の未来のこと。
ここまで全てをかなぐり捨てて来た高砂のことだ。誰かが苦しむことになるのだったら、自分を犠牲にする道を選ぶ。
(でも、そんなのは、寂しすぎる)
やがて、全てを飲み込んだのだろう、やけにあっさりと言葉を発する。
「わかった。すぐ支度する」
脇にあるいつもの肩掛け鞄を取り、なんでもないように立ち上がる。
少し外に出かけてくるような、そんな塩梅で。
「先生⁉︎ あっ……」
清那は慌てて口を覆った。
咄嗟に作った設定では次期座長だということを忘れて口を挟んでしまった。
高砂は口端だけで少し笑った。
どうせ全てバレている、とでも言いたげに。
大きな背を折って、清那に向かい合うようにしゃがむ。子供に言い聞かせる大人のように。
「清那君すまない、約束は守れそうにない。卒業論文は明星に見てもらってくれ。あいつは軽く見られがちだが、生まれや育ちで論文を無下に扱うようなことは絶対にしない。それは保証する」
「嫌です! 高砂先生じゃなきゃ……」
昨日、一緒に千夜の秘密を暴くと言ったのに。
高砂がいなければ始まらないのだ。千夜国への直接な伝手も、話者から情報を聞き出す話術や研究方法も、ちゃんと教えられていない状態で生徒を放り投げると言うのか。
無責任だ、あまりにも。
膝の上で組んだ、氷のように冷たくなった手に、高砂は右手の手のひらを置いた。
昨日とは違い、それはまるで炎のように温かく。
硬い手は、まっすぐな優しさを持っていた。
「清那君」
諭すように、異形の隼は言う。
「……はい」
「大丈夫。君は賢くて強い女性だ。俺がいなくてもやっていけるよ」
「……」
清那はどうしてもその顔を見ることができなかった。
まるで永遠の別れかのように言うから。
「ありがとう。俺の話を聞いてくれて、嬉しかった」
そのかすれる声は、今まで聞いた言葉の中で、一番感情がこもっていた。
太陽祭もクライマックスに差し掛かり、喧騒も最高潮になっている。そこの二階のバルコニーから見下ろせば、楽しげな人々が路地を駆けるのが見えるだろう。
清那は覚悟を決めた。
顔を上げて、目の前の隼を見る。
笑い慣れていないのだろう。その不器用な笑顔には寂しさが滲んでいる。
(こんな顔が見たかったんじゃ、ない)
「お兄様。そろそろ船神輿も神殿に着きます。太陽神事の最終盤には私も参加しなければならないので、急いで支度してください」
少しだけ焦った声音で、隼人将軍は急かす。
「わかっている」
高砂は立ち上がり、楽屋を出ていく隼人将軍の背中を追う。
そして扉の前で一言、
「清那君、あとはよろしく頼む」
それだけ言い残して、砂塵のように去っていった。
やがて楽屋から人の気配が消える。
取り残された清那は、今まで押し殺していた感情を、大粒の涙と共に、一滴一滴膝に落とした。
「ふざけないでよ……」
腹の底から震える声が出る。
「呪いも千夜国も文字なき人の歴史も、私に押し付けるだけ押し付けて、ありがとうだなんて、何が先生だ。何が、何が!」
怒りと悔しさと、色々なものが綯い交ぜになったものが渦巻く。濁流を形成したそれは、嗚咽となって体の中から放出される。
涙の河は床に小さなオアシスを作る。
泣いて泣いて、涸れ川となるまで泣いた。
清那だってわかっていた。高砂がいなくなったところで、元の研究環境に戻るだけである。千夜の研究は今までのようにいかないかもしれないが、ああ言い残した以上明星も悪くは扱わないだろう。
しかし、論理では片づけられないものが、清那の中に確かにあった。それは涙の河底に、体積して輝いていた。
そして涸れ川に、最後に残ったもの。
それは研究のことを話すときの少し上気した頬であり、控え目に揺れる、鳥ではない骨がある尾であり、永遠に続く砂漠を思わせる、カサカサした掌の感触であり。
夜空のように澄んだ、黒い瞳であった。
確かにそこには、満天の星が輝いていたのだ。
(そうか。私は、高砂先生と一緒に、研究がしたかったんだ)
手の甲で、涙を拭う。
「高砂先生の、馬鹿」
最後に小さく漏らした言葉は、誰の耳にも入ることはなく空気中に溶けていった。
砂の王と千夜の唄 回向田よぱち @echodayopachi
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