忘れられない記憶
桔梗 浬
美しい指先を愛した男
1880年のロンドン。
この年は、私がロンドンに神父として着任した初めての年だった。
教会では少年が一人、祈りを捧げていた。
なぜその少年のことが気になったのか? それは祈りを捧げる顔が、まるで天使のような美しさを放っていたから。
その見た目とは真逆に、その手は苦労をしているのかガサガサで、ささくれを先程むしり取ったばかりなのか、指先に血が滲んでいた。さらに力強く握りしめられた指は指先が白く、新たな血がぷくっと盛り上がって、今にも流れ落ちるのではないかと思ったくらいだ。
私は少年の肩にそっと手を置き、少しでも彼の心の痛みが去り行くことを共に祈った。
それから時がたち、巷では多発している猟奇殺人の話題で持ちきりだった。私たち神に仕える者としては、悪魔のなせる技としか思えない出来事ばかりが起こっていた。街中が恐怖の色をまとっている。でもこれらは明かに、人が行ったことなのだ。
告解室で私はふと、あの美しい顔のささくれた指を持つ少年の事を思い出していた。彼はあの後、どんな人生を歩んでいるのか、気になったのだ。
そんな私の意識を現実に戻す様に、告解室に誰かが入室した気配を感じ、私は小窓を開けた。
「父と子の聖霊のみ名によって…。アーメン」
小窓を開けた瞬間から、隣の部屋から鉄分とホルマリンの混ざったような匂いが室内に流れ込んできた。隣にいるのは解剖医かなにかなのだろうか。
「神の声に心を開き、あなたの罪を告白してください」
私は冷静に、いつもの言葉を発した。浅い息づかいが聞こえてくる。
辛抱強く待っているとしばらくして、くぐもった声が聞こえてきた。
「神父さま。私は…どこに向かえばいいのか分からないのです。衝動を押さえられない…」
私は彼の声に耳を傾ける。空気穴の格子から彼のガサガサの指が、微かに見えた。
「私は…、人を…」
辛そうに、救いを求める様な声。震えているのか、笑っているのか、私は恐ろしささえ感じ始めていた。隣にいるのは、救いを求める子羊なのか、それとも私を試そうとしている悪魔なのか。
「今夜の女もそうだった…。偽物の爪と、ささくれのある女だった。そのガサガサした手で私に触るなど、耐えられない…」
「愛する女性を労わることは大事なことです」
「そうじゃない! やはり神父様も…何もわかっていない。私が…こ」
そう言うと、告解室から足早に走り去る足音が聞こえた。
残された私は一人考える。
今の告解の彼が自分の衝動を抑えられなくなって犯している罪があることを。あの鉄の様な血の香りが物語っている。
その中でも私は、遠い昔に出会ったあの美しい少年の事を思い出していた。少年のささくれからあの美しい血がプクッと盛り上がり、今にも雫として流れ落ちそうになる瞬間を想像する。
ずっと見ていたいと思った。
あの少年は今どうしているのだろうか?
誰もいない教会で私は祈った。
「父と子と聖霊のみ名によって、貴方の罪を許します」
本当に許しを得なければならないのは自分だと言うのに…。
END
忘れられない記憶 桔梗 浬 @hareruya0126
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