今日も誰かが生きている
もぐもぐしてるよ(牛丸 ちよ)
妖怪研究所職員
妖怪の研究所をご存知ない? 変な話を収集されてらっしゃるのに? まあ、そんなに有名じゃないですからね。近所からは奇形の動物を研究・飼育する動物園だと思われてました。
実際、動物園みたいなものでしたけどね。わたしがやっていたことって結局、飼育員でしたし。飼育室の掃除をしたり、餌をやったり、体重を測ったり。
研究員の枠で入社したんですよ。はじめはね。本社で集めたデータを解析したり、そういうことをしていました。でも人手不足で、現場の飼育員の仕事も下っ端の研究員に割り当てられることになったんです。
本社と飼育施設は同じ敷地内にあります。いくら近いからって、片手間でなんて無理ですよ。だって、牛とか豚の面倒を見るような気軽さで飼育室に入っていった人たちはみんな、死んじゃったり、ひどいことになりましたもの。
担当する妖怪のこと、自分が怪我しないためには勉強・観察しないといけないんです。文献や資料が必ずしも味方になるとは限りませんし、過去の飼育員の干渉によって個性ができてしまっている妖怪もいますから。
研究のため、定期的に指示が降りてきます。「こう話しかけろ」とか、安全性を検討した上でのちょっとした課題ばかりですけど、実行する身になると緊張するものなんですよ。
謎深い妖怪を、世話もして、課題もこなして、どれだけ神経がすり減るか……。そりゃ人手不足にもなりますね。
飼育員としての業務ルーチンは細かく規定されていて、一つ一つその通りにするとものすごく時間がかかる。それも厄介なんですよね。妖怪と接触したことだけじゃなくて、自分の一日の行動も記録にまとめないといけないし。本当に、そんなことをしていたら研究員としての仕事なんてできないです。定時の概念がない働き方をするか、飼育員に徹するかしかない。当時のわたしはキャリアを諦めてませんでしたから、前者でした。
ああ、はい。そうですね、わたしが妖怪を担当していたときの話を聞きにいらしたんですものね。ぜんぜん本題に入らなくてすみません。
……あれの話をするの、まだ勇気がないみたいで、ついズレた話をしてしまいます。
わたしが担当した妖怪は一体だけです。その妖怪は、牛の上半身と、人間の下半身を持つ、二メートルくらいある化け物でした。
そうですね、ギリシャ神話の怪物・ミノタウロスって言うとイメージしやすいかもしれません。見た目だけは、似ていますよ。
あれはおとなしくて、いつも飼育室の真ん中に立って、じっとしていました。わたしが部屋に入ると、黙ってこちらを見ているだけです。
会話をしたことはありません。喋らないし、鳴きもしません。目を見ても口を見ても表情があるのかないのかわからなくて、鼻息の調子くらいでしか機微を測れませんでした。
最初のうちは、なんて楽な仕事だろうと思いましたよ。どうして前任は辞めてしまったのだろうか不思議でした。
あれと関わる場合の注意事項も、すごくシンプルでしたから。
怖がらないこと。
ね、むずかしいことじゃないでしょう?
しかも、態度に出さなければ、つまり悟られなければセーフなんです。
……なんですかその顔。怖がらない、ってそんなにむずかしいことですか? 妖怪だろうが熊だろうが、怖がったところで扱いやすくなるわけじゃないですし、明らかな脅威がある状態でもないのに怯えるのは気が早くないですか? あれは排泄するインテリアと変わらなかったですよ。
わかったから話を戻してって? 妖怪の説明をしてほしい? いいですけど……。
あれは、恐怖心に反応します。古くから存在する妖怪らしく、研究資料も多いのですが、なにぶんおとなしくて変化が乏しいせいで、大した記録がありません。記録には、何度も似たような事故が
「キミなら大丈夫だと思うけど、この妖怪の前では怖がらないように。もし怖がったら、キミが二人に分裂して持っていかれるから気をつけてね」
怖い! と思った瞬間、大福を割くみたいに肉体が二つにニューンって分かれて、それぞれ同じ人になっちゃうんです。そして片方が自ら妖怪のほうへ歩いていって、無抵抗でむしゃむしゃ食べられてしまう。
……わたしの分身は今も生きてますけど。
それはともかく、過去の事例を読んだ当時のわたしは「なあんだ」と思いました。なんにも怖がる必要ないじゃないか、と。だって、分身が食べられるだけならわたし自身は痛くもカユくないもないじゃないですか? なんですか、またその顔。わたしの感性ってそんなにおかしいですか? 気にしないでって? もう……。
でも、リスクもあるはあるんですよ。
記録を読むと、過去に怖がってしまった人間たちはみんな、身体のなにかを失ってるんです。聴取では誰もが「分身にもってかれた」と表現しています。
記憶や、色覚とか、目に見えないものを失った人もいれば、指とか、舌を失った人もいます。ドレミの音階のミだけわからなくなってしまった人とか、肋骨が一本短くなっている人とかもいたようです。意味がわからないですよね。
被害にあった前任者たちは、それで怖くなって辞めてしまうようでした。
今ならわかりますよ。一度でも「怖い」を態度に出してしまうと、もう「怖くない」とは言えないんですね。またあれの顔を見たら、必ず怖がってしまう。自覚した恐怖心は隠せないと、認めざるをえない。そうしたらもう、あれの担当を続けたいとは思いませんよね。──わたしが辞めた理由はそれだけじゃありませんが。
双子揃って命を失った人は記録に存在しません。当時のわたしは、イレギュラーが起きる可能性も理解していましたが、他の飼育舎と比べればかなり気が楽でした。
だから一年ほど問題なくやれていましたし、研究者としての仕事をする体力も残せていたのでしょう。
一年というのは長いです。あなたは何かを毎日、面倒見たことはありますか? 花でも、虫でも、うさぎでも、粘菌とか、マグカップとか、なんでもいいですけど、長く関わっていると、愛着ってわきませんか?
わたしもね、どこにでもいる普通の人間ですから、相手が得体の知れない妖怪だろうと、なんだかんだ心が通じる飼育員と動物みたいな気分になっちゃうんですよね。
一年間、あれは部屋の中心に立つ柱みたいな存在で、変にコミュニケーションが発生しないことが、なおさらわたしに都合の良い愛着を抱かせました。わたし、趣味がサボテンなんです。
わたしは毎日、トイレという名の検体箱を回収して、埃や抜け毛がたまらないように部屋の掃除をしました。あ、業務として雑巾がけなんかをやらされるのも、あれの反応を見るためでもあるんですよ。飼育室がわたしの部屋よりキレイになっていくだけで、意味なかったと思いますけどね。
あとは、あれの身体を清潔な布で拭きながら変化がないか観察し、時には与えられた台本の通りに話しかけました。当たり前のように反応は一度もありませんでした。
部屋を出る前に食事を置いておくと、いつの間にか皿は空になっていますし、排泄物も増えています。あれは生き物のように動くこともありますが、動いているところは滅多に目撃されません。動いていないように見えて、いつの間にか動いている……そういうことのほうが多いです。二十四時間、交代で観察したこともあったようですが、交代する瞬間やまばたきの一瞬で食事が終わっていたりしたそうです。わたしが世話をしているときもそうでした。ちなみに、カメラを設置してもあれは映りません。
……また話が逸れちゃいましたね。
そんな感じで、飼育員と研究員を両立する生活としてはハードでしたが、あれと過ごすということに関してはイージーでした。毎日ほとんど同じことの繰り返しで、退屈に思う瞬間があるくらいでした。
でも、本当に突然でした。
なんの前触れも、なんにも、なかったんですよ。わたしがいつもと違うことをしたというわけでもないんです。
ある日、……梅まつりが終わったくらいでした。一年を過ぎて、同期がかなり減っていたけれど、もうすぐ新入社員が入ってくる、人材が補充されればもう少しは業務が楽になるかもしれない、そんな希望を胸に自分を励ましていたころですね。まだまだ寒くて、春なのに雪が降ったりして……。
……あの、お茶、飲んでもいいですか? 少し喋り疲れました。
……あなたはこんな話を聞いて、どうするんですか? なにもしない? ただの興味? 変な話の収集が好き? はあ、変わった人ですね……。
ネットに書いてもいいかって? ……匿名にしてくれるなら、いいですよ。どうせ、調べればわかっちゃうんでしょうけど。あそこも知名度が上がって寄付が来るほうが嬉しいでしょうし。運営、苦しそうでしたからね、いつも。
あの日、何があったのか……ですか? そんなに期待されると、なんだか申し訳なくなってきますね。そんなに大したことではないんですよ。うふ、わたしも小娘だったな、っていうだけで。笑っちゃいますよ。
あの日はね、風が強くて冷たくて、春コートではたまらなく寒くって、震えながら出勤しました。始業時間前ですが、やることはたくさんあったので暖かいコーヒーで手を温めながら事務作業をしました。他の職員も当たり前のようにいて、みんな疲れ切っていましたが、なごやかでしたよ。
一応クセで、監視カメラ越しに飼育室の様子も確認しました。妖怪は映りませんが、部屋の様子だけでも異常がわかるときはわかりますからね。本当にいつもと変わりありませんでした。
始業時間が来たら、ルーチンワークをこなします。細々とした準備作業をして、掃除用具を持って飼育室に行きます。二重扉を通って中に入ると、あれがまったく見慣れた状態で部屋の真ん中に立っています。二メートルありますから、ほんと、柱みたいだなって思うし、ふしゅー、みたいな、牛っぽい鼻息が聞こえるので、今日も生きてるなあって思います。妖怪なので、
検体箱を回収してから、床を雑巾で拭いてる間もね、あれは動かないんですけど、視線だけはずっと感じます。それも慣れっこです。
だから本当、いつも通りだったんですよ。
床拭きが終わって、腰痛いーって思いながら立ち上がるじゃないですか。
聞き慣れた鼻息が、なんでかずっと近くに、背後に聞こえるんです。
振り返ったら、あれが定位置から動いて、目の前に立ってました。
怖くはなかったですよ。ただ驚きました。ワアッて声をあげて、後ろに飛びのきながら雑巾を落として。
わたしはとっさに、観察しなきゃ、と気を引き締めました。記録につけるため、状況を把握しなきゃ、と。
あれは、定位置にいるときと同じようにまっすぐ立って、至近距離でわたしを見下ろしていました。
牛の頭にじいっと見つめられてて。でもそれって、いつものことじゃないですか。距離とかが違うだけで、視線を感じるのは慣れてたはずなんです。あれの顔を見るのも、別に特別なことでもなんでもないんです。いつも身体を拭いてやってたし、顔なんて見なくても似顔絵が描けるくらい観察してましたから。
なのにわたし、今まで一度も意識しなかったことを、そのとき初めて考えたんです。
「あ、こいつオスなんだ」
って。
気付いた瞬間、なんでなんでしょう。わたし、怖くなったんです。
顔、きっと引き攣ったと思います。
怖がっちゃったんですね。
ニューン、ですよ。
自分がニューンってなるのを感じました。上司たちに何度も聴取されたのに、未だに適切な言葉が見つかりません。自分の肉体がふわ〜って曖昧になって、ぷちんって、ちょっと軽くなるっていうか、にゅ〜ん・ふ、っていうか。
あー、って思ったころにはもう、隣にわたしがいました。もう一人のわたし。誰、これ、ってなります。記録で読んだ展開ですし、頭ではわかっていましたけど、自分のコピーというのは不気味でした。
"わたし"はわたしをチラリとも見ずに、真っ直ぐあれを見上げていました。
あれも、"わたし"のほうを見ていました。
あれらが見つめ合っている隙に、ゆっくり後ずさりして、そっと扉に向かい、部屋を出ました。緊急ボタンを押しました。飼育室のロックがかかり、本社のほうに通知が行きます。
わたしは、ガラス壁越しに飼育室の中を見守りました。あれの行動を見届けられるのは自分だけでしたから。
記録にあるように、"わたし"は食べられてしまうのだろうと思っていましたが、そうはなりませんでした。
しばらく、二人は見つめ合っていました。そして、わたしがまばたきをしたら、あれは"わたし"の肩に片手を置いていました。そのまま、どちらも動きません。
えっ、て思いました。記録では、あれと分身が向かい合うと、十数秒ほどで捕食が開始されたという証言ばかりでしたから。
一分、二分のことでしょうけど、それでもおかしいと思いました。
じいっと、見つめ合う、あれと"わたし" の交わる視線の中に、なんだか感情が、その、動物的な本能が孕んでいるような気がしてきて、わたしはどんどん鳥肌が立って、どうしようもない嫌悪感にかられました。
そうして、ついさっきまで、ことを目に焼き付けようと躍起になっていたくせに、耐えきれずに廊下へ飛び出して逃げてしまったんです。
走って走って、寒い外に飛び出して、ちょうど駆けつけてくれた上司にしがみついて泣いていました。おしっこも少しこぼしたかも。逃げ出したあたりから、あんまり覚えてないんですよね。
なので、お話できるのはこのくらいです。
え? だから辞めたのかって? そうですね。もう、あれと会うのは無理だと思いました。
……もっていかれたもの、ですか。最初のほうの話、ちゃんと聞いてたんですね。
ええ、あれを怖いと思って分裂すると、何かをもっていかれます。
あの後の検査で、わたしの身体からは子宮がなくなっていることを知りました。
休職したまま退職したので、あれと"わたし"がどうなったのか知りません。聞きませんでした。
でもどうしてでしょうね。わたしの半身がどこかで生きていること、なんとなくわかるんです。
あなたがわたしの立場なら、同じようにおぞましく思うんじゃないでしょうか? どうでしょう。好奇心のほうが勝ちますか?
わたしが仕事を辞めたのは、もうあの飼育室の中を見たくなかったからです。
自分の分身が、あれとの子供を産むとこなんか、研究できませんよ。
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