スカリバコ

 闇夜の中、それは長さ約一メートルほどの金属製の直方体に見えた。


「実はこちら、開くようにできているそうでしてよ」


 なんでも何十年か前の創立何周年かの記念に、どこぞの卒業生から寄贈された芸術作品——と言われている、とかなんとか。

 本当かどうかは知らない。銘板のようなものは周囲のどこにも見当たらず、つまり本当は全然別の何かである可能性もあった。そう思って見ると、何か不気味な呪物のように思えてくる。まして、こんな静かな真夜中のことだ。


 古い学び舎の寄宿舎。その中庭にもともと建てられたそれは、でもいまや小さなあばら屋の片隅で埃をかぶっている。とはいえ、思い切り地面に突き刺さっている以上、とても持ち運べるようなものではない。どうやらわざわざこの鉄のオブジェを囲うようにして、後から物置小屋を建てたらしかった。

 風雨による劣化を防ぐため、という目的もあるのだろう。ただそれはあくまで建前というか、本当は別の意味があるのではないか、と彼女は言う。


「まあ、見ればおわかりいただけますわね。こう、不気味で」


 あんまりな感想だけれど異論はなかった。正直、もともとお嬢様学校だった歴史ある学校——今では一応建前上は共学になっている——の、それも女子寮に飾るにはあまりに無骨で、そして薄気味の悪いモニュメントだというのは私も同じ感想だ。


 正式な題は『智慧の碑』だとされているけど、それは疑わしいですわね、と彼女——ちょうばやし先輩は言う。


「みなさま、『バコ』と呼んでおりますの。由来は存じ上げません。ただ、上の代の先輩がたはみなそう呼んでおられましたので」


 なんとも不気味な名前だけれど、智慧の碑とかいうとってつけたような名よりは説得力があった。「実は開くようにできている」という最初の説明。それが事実であれば〝碑〟よりは〝箱〟と、そう呼ぶのが正しい気がする。


「いかが思われます? まきさん」


 貴女あなたなら、これを開けられるのではなくて——?

 と、そう続けられる前に先手を打つ。「無理です」。だって私はなんの変哲もない高一の女子で、あるいは先輩は「だからこそ」と考えているのかもしれないけど、こういうのはさすがに畑違いだ。


 この高貴なお嬢様がたの巣窟に入寮してはや数ヶ月。寮内にただひとりの「普通の娘」なればこその〝やらかし〟で、これまでいろいろな問題や因習を解決——というよりは破壊——してきた身ではある。とはいえ、さすがにどこにも開け口の見当たらない鉄の箱をあけろというのは、正直「そういうパワー系のやつは専門外なんで」としか言いようがなかった。


 冗談じゃない。私のある種の〝空気の読めなさ〟と〝怖いもの知らずさ加減〟を都合よく使うのは一向に構わないけど、でもそれでなんでもできるわけじゃないっていうか、一休さんか何かと勘違いしてませんか私を——と、そんな本音をグッと堪えて鉄の箱に触れる。


 ——微かな違和感。

 一見、何かの映画か漫画だったかで見た〝モノリス〟にも似たそれは、でもよく見れば何か小さな溝や凹みのようなものがいくつか刻まれている。


「先輩。これ、『智慧の碑』って言いましたっけ? 中には何が?」


「さあ? 誰も開けたことがありませんもの。ただ、いろいろ言い伝えはありますわ」


 例えば、「開けたものは学園最強のお嬢様になれる」みたいなふざけたものから、「開けようとすると急にどこからともなく化け物が出てきて全部滅茶苦茶にする、だから誰にも開けられていないのだ」なんて話まで。中でも、特にまことしやかに囁かれているのは「中に古い賢者の怨霊が封じられている」という怪談らしかった。


「なんでも、最初に開けたものに取り憑いて、人格を半分乗っ取ってしまうのだとか……」


 なるほど。これだからお嬢様というのは怖い、なんてものを人に開けさせようとしてくれるのだろう。ましてや人知れずこっそりと、よりにもよってこんな真夜中に。


 寄宿舎の中庭、小さな物置小屋に先輩とふたりきり。まあ真っ昼間にこんなところでごそごそしてたら何事かと思われる、というのもあるけど、それにしてももうちょっと考えて欲しかった。

 ゾッとする。ただの噂とはいえ、霊だとか取り憑くだとかそういう話は。まあただの芸術作品なんだからそんな謂れがあるはずもないのだけれど、でもなるほどそんな噂が出るのもわかるというか、これは——。


「もしかして、〝秘密箱〟じゃないですか? これ」


 一定の手順で操作しないと決して開くことのない箱。普通は寄木細工の工芸品なのだけれど、それを金属製にして大きくしたもの——のように見える。というのも、動く。なんか部分的に稼働するところがある。適当にあちこち触っているうちに、表面の一部が突然スライドしたから。びっくりした。


「さすがは槙野さん! ご案内して五分足らずでもう壊しましたのね!」


 違う。これは壊したとかではなく最初からそういう風にできているんだよだって秘密箱だから——と、そう繰り返しながら私は自分の手の中を見つめる。鉄の破片。なんだろう。もげた。そりゃ稼働するようにできているのだから小さなパーツの組み合わせなのは当然なのだけれど、でも秘密箱って、そのパーツが分離するようにできているものだっけ。


 ——いや、考えまい。こういうことはあんまり考えると胃が痛くなるから、という以前に、今は他にもっと考えるべきことがある。


 結局これが何なのかはわからないけれど、でも大まかには予想のつくところもあった。

 これは、パズルだ。でっかい知恵の輪。解いた者が知恵を授かるというのは——逆説的ではあるけど——なるほどその通りで、それに変な謂れがついたり怖い名前が付けられたりするのは、単純に見た目の問題だ。こんな程よく不気味な謎物体を、箸が転げてもおかしい年頃の娘の巣窟に放り込んでおけば、好き放題尾ヒレをつけられまくるに決まっている。


 とはいえ。そんなことは、もちろんこの箱の正体も含めて、全部どうだっていい。


 肝要なのは今、私の置かれたこの状況そのものだ。

 夏休みの初め頃、平素より人の少なくなった寄宿舎。そのさらに人の少ない中庭、誰も出歩かない真夜中という時間帯に、急ぎ私を呼びつけたこと。「お願い、時間がありませんの」というから渋々パジャマ姿のままついてきたけど、でも案内されたその先に待ち受けていたのは、到底どこかに逃げるとも思えない大きな鉄の塊。


 やっぱり、この謎の箱なんかよりよっぽど腑に落ちない。

 先輩はなぜ今、こうも急いで、私をこんな場所まで連れ出す必要があったのか。


「それは」


 そこまで言いかけて、しかしその先を言い淀む先輩。月明かりに青白く照らされたその表情は、しかし初めて見るなと私は思う。

 珍しい。あの強気なユキノ先輩がこんなに怯えた顔をするのは。まったくお嬢様って生き物はずるいもので、どんな顔をさせても綺麗なんだから羨ましいと思う。


「それは、先ほども申し上げました通り、時間がないからです。このままでは、。特に、今日は——満月でしょう?」


 彼女は続ける。知られてはいけないところに知られてしまいましたの、この巣借リ箱の存在を。〝アレ〟は、この寄宿舎を、いやそこに住むわたくしたちを狙っている。わたくしたちを出し抜き、追い落とすためなら、きっと手段は選ばない。その足がかりになりそうなことなら、いいえ、あまり効果のなさそうなことでさえ、興味さえ向けば何だってする。それを押し通すことそのものがアレの存在意義であり、つまりアレは圧倒的な力そのものなのです。ああ、槙野さん。わたくしは、わたくしは、おそろしい——。


 要領を得ない、いや荒唐無稽とすら言えるその説明。

 私が注目すべきはその内容ではない。顔は、仕草は、ときに言葉よりも雄弁だ。今にも消え入りそうなその声音に、震えを抑え込むかのようにぎゅっと描き抱かれた身体。か細い月明かりの下、少女の立ち姿はあまりにも美しく、でも何より私の胸を打ったのは、その奥に秘められた彼女の本当の意思だ。


 彼女は、どうして私を呼び出したのか。

 それも、こんな時間にこんな場所、そのうえそんな、よくわからない理由で、

 まるで、人目を避けるみたいに。


 古い女子寮。この小さな箱庭に数ヶ月、私たちは手を取り合って生きてきた。その片隅、さらに小さな物置小屋の中は、今や誰の目も届かない秘密の箱だ。誰も知らない。大人も、学友たちも、これからここで起こることは。

 それは箱の中だ。その中にしまわれた宝物は、小さく密やかで子供らしいその秘密は、きっと私と彼女にとってなにより大事で、でも真正面から考えるにはまだヒリヒリと痛く、ただ淡い熱のままに流れてゆく。それは思い出だ。誰にも語られることのない、そして、いつか大事にしまい込んだ箱ごと忘れ去られてしまうような、甘くて、苦い。


 夏の一夜の、淡い熱と夢。そういう経験を彼女は——あるいはここまでのこのこついてきた私もまた——いま、無言のうちに求めもがいているのだ。


 静かに、音もなく、でも肌の下に熱い血潮をたぎらせながら。


「せんぱ——いいえ、ユキノさん」


 そう囁き、そして私の指が彼女の前髪に触れる。そのままかき分けるようにして見た彼女の瞳が、不思議そうに揺れて私を見上げた。「まきのさん?」と、囁くような声。胸が高鳴る。徐々に近づく彼女の瞳。その奥、窓からの月光の照り返しの中に、私は——。


 見てしまった。

 ついに、それを。


 ——彼女の恐れた何者か。

 何か、人影のようなもの。


 すぐにわかった。

 ああ、これが——〝アレ〟か。






「オーッホッホッホッホ! お邪魔いたしますわよ!」


 突然の高笑い。心臓が口から飛び出るかと思ったのは、単にその声がうるさかったからじゃない。


 というか、うるさくなかった、言葉の内容に反して普通にひそひそ声だ。真夜中の寄宿舎、さすがに安眠妨害は貞淑な令嬢のすることではないと、その程度の常識は一応あったらしいけど、でもドアを堂々蹴り壊していたら意味がないと思う。


「ごめんあそばせ、伝説の碑を頂戴しに推参致しましてよ!」


 はためくロングドレスに二本の縦巻きロール。両手にはオープンフィンガーグローブのようなものをはめた、いわく名状しがたい何者かがそこにいた。

 薄暗くてよく見えなかったせいもあるけど、最初は普通にゴリラかと思った。だって入り口のドアをあんな風にメコメコにできるのってゴリラくらいだと思うし、あと単純に信用できる筋からの客観的な証言もある。


「いよいよおでくさりましたわね妖怪ドリルゴリラ! あなたつうせいでしょう! 不法侵入ですわ!」


 通生、というのは寄宿舎住まいの生徒を指す「寮生」に対する「通学の生徒」の略で、そしてそんなことはどうでもいい。


「ゴリラではございませんことよ! わたくし、たこやくミハルと申します。以後お見知りおき——あの、申し訳ありません。わたくし、本当にお邪魔でしたわね。ごめん」


 急に頬を赤くしてもじもじし出すゴリラ。そういう反応をされるとこっちまで恥ずかしくなるというか、あれ意外とウブなとこあるんだなこの人、なんて思ってしまう。


 この学校の特異なお嬢様文化、それに疎い私でも名前くらいは聞いたことがあった。

 蛸薬師なんとかさん。同じ一年生の女子生徒。どうやら彼女はいろいろお騒がせなようで、なぜお騒がせかというと何でもかんでもパワーで即時解決してしまうからだ。おかげでいろんなお嬢様方から目の敵にされているらしい——と、そんな噂を思い出しながら私はユキノと絡めあっていた手指や足をほどく。


「あの、蛸薬師さん? これはその、全然違いますのよ? そういうのではなくって、その」


 はだけた胸元を慌てて留めながらのユキノの言葉に、極力そちらを見ないよう努めながらの闖入者の返事。


「いやっ、いやいや! あの、大丈夫なので! すぐ用を済ませて出ていきますので! どうぞお気になさらず。どうぞどうぞ」


 よいしょ、とひと声、そのまま「めり、めり、めりり、めりっ」と例の鉄の箱を引っこ抜くと、それを肩に抱えてのしのし帰って行った。


 光景そのものには目を疑ったけれど、まあわかる。知恵の輪っていうのはじっくり集中して取り組むもので、それがその真横で女ふたりがくんずほぐれつしてたらとても集中できない。お持ち帰りはいたって合理的な判断、ゴリラにしてはなかなか冷静だなと私は思った。ゴリラはゴリラだ。だって地面に思いっきり突き刺さってる鉄のオブジェを、あんなこともなげに引っこ抜くのは人間じゃない。


「……なんなんですの。聞きしに勝るバケモンでしたわ……」


 小屋の入り口から外を見つめ、へなへなとその場にへたり込むユキノ。本当だよ、と私は彼女を後ろから抱きすくめる。その薄い背中越しに彼女の鼓動が伝わって、つい「ほら、まだドキドキしてる」と囁いちゃったのを「貴女は貴女でなんなんですの」と怒られた。心外だ。なんかあのゴリラと並列にされてる気がする。いやある意味、少なくとも「いろいろお騒がせ」って意味では、まあ似たような枠の生き物なのかもしれないけれど。


「ねえユキ——えっと、先輩。アレ、結局、なんだったんですかね」


 あのゴリラ、はともかく、あの箱の中身って——その私の質問に、でもユキノ先輩の答えは簡潔だった。


「さあ。存じ上げませんわ。でも、どうせくだらないものだと思いますわよ」


 箱の中身というのは開けるまでが花。

 それは秘められたものであればこそ、初めて神秘に輝いて見えるものですもの。


 そうでしょう? となんかすっきりした顔で私を振り返るから、私も勢い「そうですね」と答える。答えながらも内心「そうかなあ」と思う。

 腕の中、私にとっての大事な箱の中身を抱えながらも、それでもまた別の箱の中身が気になってしまうのは、やはり平凡な娘であるが故の業なのだろうか。


 煌々と輝く大きな月に、虫の音が遠く優しく響く。


 翌朝、寄宿舎の裏手に、何かあり得ない形に捻じ曲げられた鉄の箱の残骸を私たちが見つけるのは、きっと別のお話だ。

 ——少なくとも、この夜の秘密の物語とは、また。




〈巣借リ箱 了〉


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巣借リ箱 和田島イサキ @wdzm

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