2章 57話

 今日は鏡花きょうかの家で、彼女と2人きりで晩御飯を食べる。しかも鏡花の手料理を。まるで同棲でも始めたかの様なシチュエーションに、浮つくなと言うのは無理な相談だ。


 今朝からずっとそわそわしていたまことは、あからさまに怪しかった。当然ながら小春こはるにはバレていたし、その理由を聞いてすぐ察した。

 小春はアドバイスするべきか頭を悩ませたが、せっかく初めての自宅デートだ。あまりとやかく言うのも野暮かと判断し、過剰な助言は止めておいた。

 それに何より、この男には鏡花を押し倒す根性など無かろうと判断したから。暴走する事はあるけれど、鏡花が嫌がる事まではやらない。その点においてだけは信用していたから。



 幼馴染にそんな評価を下されているとは知りもしない真は、現在自宅で頭を抱えていた。


「どうするのが正解なんだ……」


 真の自室、一般家庭と比べたらやや広めの洋室にて、彼は思い悩んでいた。憧れのサッカー選手のポスターや、推しチームのペナントが飾られた壁。

 サッカー教室に来ていたプロ選手に貰ったサインボールが木目調のウッドチェストの上に飾られている。

 漫画やライトノベルの類を読まない真の本棚には、サッカー関連の書籍とトレーニング法などが書かれた本ばかり並んでいる。


 何度も読み込んだサッカー関連の本は背表紙にも経年劣化が見られるが、最近読み始めた男女関係のハウツー本はまだまだ綺麗なままだ。

 親戚が買ってくれた最新のゲーム機は一度も箱から出ておらず、高価な置物と化していた。

 サッカーが全てだった真らしく、関係ないものは殆ど存在しないシンプルな部屋だった。


 そんな真の机の上には、サッカーとは無縁の代物が置かれている。いや、無縁かどうかは本人次第かも知れないが。


「買っておいたのは良いが、持っていくべきか……」


 先程から真を悩ませている代物の正体、それは一般的な男性用避妊具、近藤さんである。

 恋人が出来たら持っておくのがマナーであると知った真は、近くのドラッグストアで購入していた。

 女性の店員だったお陰で、妙な緊張感に苛まれた。コレは別に嫌らしい目的では無いのだと、自分に言い聞かせながら買った人生で初めての一箱だ。


「いや、しかし持って行くのは何か、初めからそのつもりだったみたいでイヤラシくないか? 下心丸出しみたいで」


 本当にどうしようか。鏡花と一旦分かれて帰宅し、念の為にとしっかりシャワーまで済ませたは良い。

 シャワーぐらいなら、最近の気温を考えたら他意は無い様に見える。しかし避妊具を持参となれば、全然違うのではないだろうか。


「恋愛関係の本だと、普段から所持するべきとされていたけど」


 最近買った本にはそう書かれていた。だからマナーとして所持は不思議ではない、筈だけど。女子から見たらどう見えるかが問題だ。

 え、ただ一緒に晩御飯を食べたかっただけなのに、真君はそんなつもりだったの? なんて鏡花に言われたら、ショックで寝込むかも知れない。今ちょっと想像しただけでかなりのダメージが来た。

 では持って行かない場合はどうか。もし、そんな雰囲気になったら。考え無しのクソ野郎になってしまわないか?


「クソッ! 流石にこれは小春には聞けないぞ」


 幾ら幼馴染とは言え、相手は同級生の女子だ。そんな事を聞けば、それはもう蔑まれる事間違いなし。

 だったら良い大人のさや姉はと言うと、絶対にノーだ。鏡花とそんな関係になったと知られれば、前以上に弄られるのは間違いない。


 では霧島きりしまはどうかと言うと、何か嫌だった。あんな相談までしておいて何だが、実際に鏡花がそう言う経験をしたと、他の男に知られるのは心がザワつく。

 そのせいで先程から、答えの出ない堂々巡りを繰り返している。そろそろ答えを出して家を出ないと、肝心の鏡花との時間が減る一方だ。悩んでばかり居られない。


「置いて、行くか。やっぱ、何か違うよな」


 最初からそんなつもりでしたって、そんな風に鏡花に会いに行くのは駄目な気がする。確かにそう言う関係にもいずれはなりたいけど、今日じゃないと思う。

 気にしてる時点でアウトなのかも知れないけれど、それでもせめてもの誠意と言うか。誠実な交際を心掛けたいと思っているのが正直な所だ。

 付き合う前からいきなりキスをしてしまったからこそ、今度こそはと心に決める。


「よし、行くか!」


 雑念を払い気持ちを新たに鏡花の家を目指す。ナビアプリには既に登録してある。道に迷う事はない。余計な事では迷ったけれど。


 電車に揺られる事10分ほど、鏡花達の最寄り駅で下車する。花村はなむら町にある花村駅が鏡花が毎日通学に利用している駅だった。

 花の名を持つ鏡花が住む土地としては合ってるよな、なんてちょっとだけ思う。そんな事が名付けに影響したのかは知らないけれど。


 ナビアプリの指示に従い見知らぬ土地を歩く。しかし、何故かどことなく既視感があるのは一体どうしてだろう。


「あぁ……あの時か」


 鏡花の魅力を知る事になったあの日、考えなしにあちこち走り回った日。限界が来て橋の下で倒れる少し前に、恐らく通った場所なんだろう。

 今思えば、良くもまあ二駅も向こうの土地まで走れたものだ。きっと無意識にセーブしていたのだろう。全力疾走をしていたら、ここまで辿り着く前に倒れていただろう。

 そうしたら鏡花に出会う事もなかった。ただ救急車を呼ばれ病院に運ばれて、無力感に苛まれ続ける日々を送っていた。本当に運が良いと言うか、奇跡的な出会いが出来たんだな。


 何の接点も無かった女の子。決して誰もが認める美人ではない。でも、俺にとっては誰よりも魅力的だと思った女の子。それが今や恋人なんだから、人生ってのは分からないものだ。

 今からそんな女の子の家で、一緒に食事をする。友達のままでも、そんな経験は出来たかも知れない。だけど、それは望む関係性じゃない。

 こうして恋人として、鏡花の家を訪れる身であり続けたい。だから今日は、凄く大事な日だ。下手な失敗をして台無しにする事だけは避けたい。


 期待と緊張感を抱えながら歩く事15分ほど、目的地である鏡花の家に着いた。事前に聞いていた通り、ありふれたごく普通の一軒家だった。表札には佐々木と書かれているので間違いない。

 小春や友香ともかの家に行く時には感じない、女子の家に来たと言う緊張感に襲われる。震える指でインターホンを押す。




『待ってて真君。今開けるね』


「お、おう」


 遂に来てしまった。鏡花の、彼女の自宅に。両親が不在の完全に2人きりの空間に。

 心なしか心拍数がいつもより高い気がするが、そんなもの計っている場合ではない。バカな事をやらない様に、集中しなければならない。


 家の中を移動する微かな物音が近付いて来る。ガチャリと扉が開かれたの先には私服の鏡花が居た。

 自宅だからか、結構ラフな恰好だった。シンプルなTシャツに七分丈のハーフパンツ、初めて見たスタイルだ。自宅ではこう言う恰好らしい。


「い、いらっしゃい」


「……お邪魔、します」


 照れ臭そうに招き入れる鏡花がまた可愛いくて、少し返答が遅れてしまった。鏡花のこう言う仕草に弱いんだよな。

 ちょっと小動物っぽいと言うか、小柄な鏡花だからか余計そう見える。


 玄関に入った事で距離が詰まった鏡花から、シャンプーの香りがする。もしかして、鏡花もシャワーを?

 いや、それぐらいおかしくないだろ。勝手な憶測を立てるな。ただちょっと汗をかいただけかも知れないし、まして女の子なんだから。普段からそうしてるのかも知れない。


 真の家よりは小さい鏡花の自宅を移動する2人。お互い緊張しているのもあり、少しいつもと調子が違う。それでも、もう友達じゃなく恋人であるから、漂う空気は付き合いたての甘いもの。

 まだ深く踏み込み切れていない、そんな時期特有の初々しさに包まれていた。いずれは失う、この時期にしか味わえない独特な距離感が2人の間にはあった。

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