虚傾な私と
雨宮 命
この物語は、私の黒歴史になる。
恋をしていた。
それも、世間一般がそう呼ぶような美しいものではなく、エゴにまみれた、汚らしい恋を。
少年は少女に恋をしていた。一目惚れだった。
ボーイ・ミーツ・ガールとは、よく言ったものである。少年にとって、恋とは嫌なことから逃げるための心の置き場でもあったのだ。少女のことを考えている間は、どんな暗い過去だって、忘れられた。
それは、不安定、不確実な依存であった。
いつか終わりが来る。一見大きなものに思われる神経が、実は小さな神経細胞からなっていて、それら一つ一つには神経終末があるように、物事は終わり、幸せな日々には終わりが来、悲しみは連鎖し、次のフェーズに移るのである。
少年はそれをわかっていた。わかっていたのだが、自分の手で仮初めの幸せを、広く薄く染まった恋を捨てることが、たまらなく怖かった。
全員が幸せになる方法なんてものは存在しない。誰かの幸せは、同時に誰かの不幸であり、幸せになることは、誰かを不幸のどん底に突き落とすことだ。
はたして、少年はそのことについて留意していたのだろうか。その真相は、今や闇の中だ。
少年がさらに若かった頃、人という存在は常に前進し続けるものだと信じていた。
当時の彼に、その信念は存在していたのだろうか。
時が経った。少年は青年になった。
結局何もすることのなかった高校時代だったが、青年はそれについて後悔していなかった。
一般企業への内定が決まり、青年は順風満帆な生活を送ろうとしていた。
恋愛とは程遠い人生だったが、それでも、青年は幸せだった。
人生は妥協から成る。自らの選択からではなく。
敷かれたレールの上を歩める人間は、幸せものだと思う。妥協しなくてもいいし、選択という面倒なことにも疎遠だからだ。
十分の一程度の割合で妥協するとして、それが積み重なった人生は、果たして幸せだと言えるのだろうか。恋は盲目然り、目をそらし続けることが、幸せの秘訣なのかもしれない。
さすれば、人の純度百パーセントの幸せのピークは、幼少期にほかならない。
青年も、妥協の末に、幸せを勝ち取った。それに、本当の価値があるのかは、不問として。
結婚式の日になった。
青年は入社式以来のスーツに袖を通し、緊張の面持ちで新婦を待つ。
妥協の落とし所としては、新婦が、かつての少女だったことだろう。それだけが、彼を幸せに誘う要素だった。
彼は満ち足りるばかりか、満ち溢れていた。この上ない幸せが、彼を包んでいた。
式場後方の開き戸が開き、新婦と、新婦の父親が腕を組み、しずしずとヴァージンロードを歩いてくる。
遂に、新婦が、青年の目と鼻の先まで来た。
青年は、気恥ずかしさから、新婦にしか聞こえない、小さな声で話しかける。
「結婚、おめでとう」
だがその声は、他の声にかき消され、新婦には届かなかった。
青年は無気力に笑う。
隣に座る青年の妻が怪訝な顔を浮かべたが、なんでもないさと取り繕う。
かつて自分の恋のせいで不幸にしてしまったのかもしれない少女が幸せになってくれたことは、少年然り青年の、この上ない幸せだった。
少女とでこそないものの、自分の家庭を持てたことは言うまでもないが。
結婚式が終わり、ぞろぞろと人がはけていく中、新郎が二次会の参加者を募っていた。
妻に行かないでいいのか、と聞かれたが、青年はやんわりと断った。妻と二人で過ごしたい気分だった。
少女の結婚は嬉しいはずなのに、どこか穴が空いたような、そんな気がした。青年にはその時彼がどんな顔をしていたのかはわからないが、およそ結婚式には似つかわしくない表情だったのだろう。見かねた妻が、青年の背中をさすった。
出入り口が空いてきた頃を見計らい、青年とその妻は、結婚式場をあとにした。
自分の傲慢さに嫌気が差しつつも、それでも向かい合わねばならないと、青年は自分を奮い立たせる。
前に、前にと、進むために。
妻に急かされ見上げた青空には、綺麗な虹がかかっていた。
虚傾な私と 雨宮 命 @mikotoamemiya
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