始まりの名前は

ヨセフによる『マリア』記-1

妻であるエヴァの故郷へ訪れる機会がやって来た。これがただの里帰りであったらもっと気が楽だっただろう。でもそうはいかなかった。

僕には詳しいことがわからない。どんな風習でどんな事情でどんな考えでこんな町が形成されているのか。僕はただの余所者だから、中を知ることができない。何かを知ってしまったエヴァにとっては悪い意味で忘れることのできない場所だった。

初めて彼女からその町の話を聴いた時、本当にそんな場所があるのかと疑った。男は男らしく、女は女らしく。古いしきたり、価値観。そんなものに形を当て嵌めて人を評価する。今時そんな場所が残っているのか。

僕が今までいた場所はどちらかというと田舎と呼ばれる所だ。孤立した山の中の集落。確かに変な習慣は残っていた。

例えば大人が子どもに話す作りもののお伽噺。例えば子どもが大人になってから知るお伽噺の本当の意味。僕はそういうものが好きだった。それらをテーマにして物語を書いたことも一度や二度じゃない。

大抵そういったものを突き詰めると、実際にあった事件や根拠のある風習なんかに辿り着く。だからきっとその町についても同じなんだと思うよ。過去に何かがあったんだ。

そうだとしても、それをわざわざ掘り返してただでさえ嫌悪しているエヴァに知らせる必要なんてないだろう。

しかもまだ五つにしかなっていないマリアも一緒なんだ。知らなくていいことは隠しておくに越したことはない。僕ができることは口を閉じ続けることくらいだろうか。


できることならその場所に行くこと自体を避けるべきだ。しかしどうしても行かなければならない。

僕にはその理由が理解できないが、当事者であるエヴァが言うんだ。従うほかないだろう。


いつになるかはわからないが、きっとまた帰ってこられる。それだけを信じて祈り続けよう。

後のことは弟に託して。大丈夫。あの子はうまくやってくれる。




神様。どうか僕たちをお守りください。




少し距離はあるが、教会があるらしい。日曜日はそこへ通おう。

エヴァと、マリアと、一緒に。三人で教会に行けるなんて。それだけが救いだ。

ブランには悪いが、その日だけは一人でお留守番だな。案外あの子は寂しがりやだ。新しいおもちゃを用意して、たくさん遊んであげよう。

いつも一緒にいてくれる白い獣は大事な友人だ。だけど最近少し太った気がするな。誰かおやつを多くあげているね?







町へ着いた。弟の運転する車の中からだが、人の目が刺さるようだ。後部座席の二人には向けられていない。僕と弟は完全に余所者だ。

早くここから出ていった方がいい。弟には手紙を書くから町を離れて欲しいと言った。あの子も視線を感じていたんだろう。エヴァと握手をし、マリアの頭を撫でて去って行った。

気遣いのできる、自慢の優しい弟だ。


僕は慣れないスーツを着た。ネクタイも首に巻いた。正直、得意じゃない。でも僕が余所者として我慢すればいい。僕だけが我慢して、町を出るその日を迎えればいいんだ。

町の中は嫌いだ。エヴァも、あのマリアですらそう感じている。嫌な雰囲気が霧のように漂っている。

エヴァは町の人とは会わないようにしていた。特に、知り合いだろう人とは絶対に顔を合わせないよう外出する時間を制限していた。

マリアも気づいているだろう。エヴァとずっと一緒にいたのはマリアなのだから。


マリアは賢い子ではない。でも人の感情に敏感な面を持っている。

エヴァは町に戻って心が波打っているようだ。冬の海のように荒れ、春が来るまで穏やかにはなれないだろう。

それでも彼女はエヴァのままだ。僕が愛した女性で、マリアの母親のエヴァ。だからどうなっても一緒にいる。変わらず、愛し続ける。




エヴァよりも先にマリアの方が変わってしまった。やはりこの子を連れてくるべきじゃなかった。あの山小屋で弟と一緒に僕たちを待たせた方がよかったのだろうか。

だが今のエヴァにとってマリアは大きな支えだ。マリアがいなければエヴァが壊れてしまう。僕たちは三人一緒にいるべきなのだ。


すまない、マリア。

僕の愛しい子。

あんなに好きだと言っていたオーバーオールを、あの子は履かなくなってしまった。町がマリアを「女の子らしく」変えてしまった。あの子らしさを殺してしまった。

片手で髪をすいている。エヴァの仕草を真似て、大人の女性を形作ろうとしている。あの子の髪はそれほど長くない。細くて柔らかい髪が絡まるのを嫌って、伸ばさないからだ。

あの子は今、初めて髪を伸ばそうとしている。

そんなことしなくたって、マリアは僕にとって世界一可憐なレディなのに。




そうだ、また絵本を書こう。彼女たちに僕の絵本を読んであげよう。

星と月はいつまで輝いていられるだろうか。







部屋のドアが開く。

一体の人形が僕を呼ぶ。







ナターシャ、君は誰なんだい?

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