【KAC20244】ささくれは親不孝

赤夜燈

ああ、勉強していてよかった。

 ――ほら、またささくれなんか作って。あんたが親不孝だから悪いのよ。


 小さい頃から、私はよく指にささくれを作っていた。

 それを見つけるたびに、母はため息をつきながら私を責めた。


 未だに安いアパートに住んでいるのも、和式の、水洗ですらない便器で用を足さなくてはならないのも、顔も知らない父が出て行ったのも、全て私が親不孝だからだそうだ。


 小さい頃は優しかった気がする。母の腕に抱かれたのを今でも覚えている。


 けれどある日、私が幼稚園から帰ってきたら母は私が持ち帰った上履きを思いっきり投げつけてきた。泣いたら、泣くなと上履きで殴りつけた。

 

 あんたのせいで、あんたのせいで、と私を殴り続ける母に、私はわけも分からず謝り続けた。

 

 ごめんなさい、ごめんなさいお母さん。


 ごめんなさい。


 母はいつも私に怒っていた。それは小学校と中学校を出て、高校に行っても変わらなかった。むしろ、母の怒りはどんどん酷くなっていった。

 

 私はいつも門限まで図書館にいた。私がいるだけで怒り出す母の機嫌を損ねずにすむからだ。


 ――どうしてあれだけ無駄に本ばかり読んでいるのに、国語で学年トップを取れないの。だからあんたは親不孝なのよ。


 ――国語で学年トップをとった? だからなんなの。あんた、数学はとんでもなく下じゃない。二〇位? そんなもの一番下と変わらないわよ。だからあんたは親不孝なのよ。


 ――全教科学年トップをとった? そんなことよりあんた、そのひどい顔はなんなの。寝てない? ふざけないで。あんたがそんな不細工な顔をしてたら、あたしが恥をかくじゃない。だからあんたは親不孝なのよ。


「わかりました」


「ごめんなさい」


「はい、申し訳ありません。私のせいです」


「頑張ります」


 これしか、返事は許されなかった。これ以外の言葉を発すると、そこら辺にある固いもので殴られるからだ。


 いつもボロボロの制服を着て、ろくに風呂にも入れてもらえない私は格好のいじめの標的だった。母は毎日LUSHのバスボムとやらを使って風呂に入っていたが、それは「働いている者の当然の権利」だそうだ。


 私は母に黙って大学の推薦を取り、母に黙って引っ越しの準備をした。給付型の奨学金と学生寮、あとはバイトでなんとかするつもりだった。


 引っ越しの前日。眠っていた私はふと何かを感じて起きた。


 母が、包丁を持って私の布団を刺す一秒前だった。私は布団から転がって避けたから、刺されずにすんだ。


「あんただけ大学に行くなんて、許さないわよ。あんたの人生は、全部あたしのモノなの。なにがあろうと幸せになるなんて許さない、一生邪魔してやる」


 咄嗟とっさに布団を使って母の視界を覆い、包丁を奪って蹴りを入れた。あれだけ絶対的だった母は、あっさり床に転がった。


 思った。


 これ、要らないなあ。


 せっかくだし、処分しちゃおう。


 助けてとか許してとかいろいろ言ってうるさい口に、部屋に転がっていたLUSHのバスボムを押し込んだ。


 私が犯人だと思われたら嫌だし、すぐに発見されたら困る。


 ふと、我が家の構造と、世界史で勉強した中国の女帝のことを思い出した。

 その女帝は反乱分子の両手両脚を斬り落として、『人豚』という刑に処したという。

 

 私は笑った。ああ、勉強していてよかった。




 その日、私は大学の入学式を迎えた。

 晴れ晴れとした気分だった。


 母のスマホの電話帳から連絡した父方の親族は援助を申し入れてくれて、わたしはバイトまみれの日々を送らずに住むし、家賃や仕送りをしてもらえることになった。


 ふと、そういえばどうしてささくれが親不孝なんだろうかと思ってネットで調べた。「親が心配するから」という理由らしい。


 馬鹿らしい、と思った。あのひとは私を心配なんて一度もしていない。


 そう、今もしていないだろう。


 


 和式便所の底で手足と目と耳と鼻をなくし、糞尿を食べながら芋虫のように這いつくばって、私を恨んでいることだろう。

 もしかしたら死んでいるかもしれない。舌も抜いたから喋れないはずだが。


 どうでもいいことだ。本当に、どうでもいいことだ。


 ソメイヨシノが咲き乱れるなか、私はやっと普通の大学生に紛れることができた。


 私の手に、ささくれはもう、ない。


 幕

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