第二十四話   翼竜の幼体

 向日葵が乗っていたママチャリが、道路脇にひっそりと停車した。


 籠の中に入れていたバッグを取り出し、向日葵は周囲を注意深く見渡しながら雑木林の中に足を踏み入れる。


 すでに日が落ち始めていたので、辺りは寒気がするほど薄暗い。


 雑木林の中に入れば一層その暗闇の恐怖を肌で感じる。


 それでも向日葵は臆することなく足を進めていく。


 すでに何度も足を運んでいたので道に迷うことはなかった。


 それでも向日葵はバッグの中から懐中電灯を取り出し、木の根に足を掬われないように足元を照らす。


 数分も経たずに向日葵は目的の場所に到着した。


 懐中電灯の細い光を照らすと、一本の樹木の枝に水色のハンカチが結ばれていた。


 光を下に落としていく。


 照らした樹木の根元には、小さなダンボール箱がひっそりと置かれていた。


「ミント」


 目印をつけていた樹木に近づいた向日葵は、ダンボール箱の中身を見下ろしながら声をかけた。


 ダンボール箱の中には一匹の動物がいた。だが、子犬でも子猫でもない。


 翼竜である。


 岩のように硬い外皮には何十もの包帯が巻かれ、暖かなモーフの上で身体を海老のように丸めていた。


「キ、キキキ」


 全長15センチほどの小柄な翼竜は、向日葵の顔を見るなり鳴いた。


 それは威嚇の鳴き声でもなく、悲哀の鳴き声でもない、甘えるような優しい鳴き声。


 向日葵はミントと名付けた翼竜の頭を撫でる。


「お前は凄いね。もう怪我は大丈夫なの?」


 ミントは表情を緩ませて微笑んだ。


 するとやはり翼竜である。


 口元から覗いた歯は鋭利な爪のように尖っており、人間の皮膚など簡単に噛み破れる強靭さがひしひしと感じられた。


「キキキ……キキ」


 それでも翼竜は向日葵を傷つける様子は微塵もなかった。


 ただ、何かを催促するように鳴き続ける。


「あっ、ごめんね。気がつかなくて」


 向日葵は足元に置いていたバッグの中に手を入れた。


 そして中からビニール袋に包まれた鳥の唐揚げを取り出す。


「はい、どうぞ」


 ダンボール箱の中に入れておいたプラスチックの容器に唐揚げを入れると、ミントは待ちかねていたのか猛然とした勢いでかぶりついた。


 頬張った唐揚げを丁寧に租借し、ごくりと胃袋の中に収めていく。


 その仕草は凶暴な翼竜とはとても思えなかった。


 言えば、野よ犬よりもよっぽど上品に食べる。


 美味しそうに唐揚げを食べているミントを見つめながら、向日葵はくすっと笑った。


 こんな子が将来は人間を食べるようになるのだろうか。


 向日葵はふといたたまれない気持ちに駆られた。


 実習の時間で何度も観せられた翼竜の映像。


 それは背中に翼を生やした巨大な竜が空を飛び回り、逃げ惑う人間たちを捕食していく残酷な映像だった。


 ホラー映画など足元にも及ばないそのリアルな迫力に、観ていた生徒たちは吐き気を覚えたほどだ。


  けれども、医療に携わる人間はそんな弱気になることは許されない。


 人間は目的が違うだけで『残酷』の感じ方が異なる生物である。


 たとえば医者が患者をメスで切り刻もうと、それは病気や怪我を治すために仕方のない行為であり、患者側からすれば残酷どころか頭を下げて願う行為だ。


 そして医療に携わる人間は、同じ人間のために残酷な行為を実行する精神力が要求される。


 しかし翼竜は違う。


 自然界が弱肉強食なのは周知の事実であるが、知恵や理性を持った人間がいまさら自然界の掟に従える訳はない。


 だから抗うのである。


 抗って抗って人類の天敵となった翼竜を滅ぼそうと、十数年前までは世界中で頻繁に戦争が起っていた。


 でも、と向日葵は思う。


「子どもに罪はないものね」


 ミントを見ながら向日葵はぼそりと呟く。


 その声に反応してミントが顔を上げるが、向日葵は首を振って食事の続きを促した。


 ミントは向日葵の言葉を理解したのか、再び唐揚げを食べ始める。


 そうだ。子どもには罪はない。それは向日葵が感じた率直な意見だった。


 人間だろうと肉食獣だろうと、子どもの頃は純粋で無垢な存在である。


 その中で人間は成長するに従い、理性のタガが外れて犯罪を起こす者も確かにいる。


 だが、それは誰にでも当てはまり誰にでも当てはまらない。


 一方、肉食獣などはすべて本能の元に行動する。


 自分が生きるために他者を捕食する。


 それは人間から見れば残酷かもしれないが、肉食獣たちにとっては至極当たり前の本能なのである。


 向日葵はミントの頭を優しく撫で続けた。


 ミントは嫌がる素振り見せず、成すがままにされている。


 どうやら翼竜も頭を撫でられると喜ぶようだ。


「怪我が治るまで私が面倒見てあげるね」


 マラソンの途中に偶然見つけてしまった翼竜の幼体。


 おそらく、入学式前日から島を襲った豪雨によって運ばれてきたのだろう。


 そのせいか、見つけたときには全身血だらけで衰弱していた。


 無数の裂傷や打撲が目立ち、よく流れ着いた海岸からこの場所まで移動できたと感心したほどである。


 やはり翼竜は生命力にも優れている。


 ミントが将来第何種の翼竜に生長するかは分からないが、このまま成長すればいずれは人間を襲うようになるだろう。


 だからこそ今だけ。


 怪我が完治するまで面倒を見る。


 その後は誰にも見つからないように海岸からそっと海に流そう。


 幼体とはいえミントは翼竜である。


 怪我が完全に完治すれば、背中に生えている翼を駆使してどこにでも飛んで行けるだろう。


 気がつくと、ミントは与えた唐揚げをすべて食べ尽くしていた。


 食欲も順調に戻ってきている。


 よい兆候だ。


 これならば後一週間ほど面倒を見れば怪我は完治するかもしれない。


 次に向日葵はバッグの中から紙パックの牛乳を取り出した。


 蓋を開け、空になった容器の中に牛乳を満たしていく。


 この牛乳をミントが飲んだら寮に帰ろう。


 すでに日は完全に落ちて上空は漆黒に包まれていた。


 雑木林の中も同様、数メートル先も満足に視認できないほどの濃い闇がどこまでも広がっている。


 懐中電灯で照らしてはいるが、向日葵の背筋に冷気が這う。


 もし目の前にミントがいなかったら、絶対にこの雑木林には足を踏み入れなかっただろう。


「ミント……そろそろ私は戻るね」


 向日葵は立ち上がり、牛乳を飲んでいるミントに別れを告げた。


「キキ、キキキ」


 声だけ聞けば猿の鳴き声に近いかもしれない。


 何度かここに足を運んでいるうちに、向日葵は鳴き声のアクセントでミントの心情を何となく読み取れるようになっていた。


 もちろん、何の根拠もないただの憶測である。


 それでも向日葵は思った。


 ミントは寂しがっている。


 甘えるような鳴き声と潤んだ瞳からそれが痛いくらいに感じ取れた。


「また明日来るからね」


 名残惜しそうに向日葵は頭を撫でた。


 まさにそのとき、


 向日葵は振り返り、ミントを照らしていた懐中電灯の光を薄暗い闇の中に向けた。


「だ、誰?」


 掠れるような声で向日葵は、光を照らした方角に向かって問いかける。


 確かに向日葵には聞こえた。


 後方でガサッと草木を踏みしめる人間の靴音を。


「誰ですか?」


 一度目よりもやや高いトーンで向日葵は誰何する。


 すると、光を照らした闇の奥から徐々に近づいてくる人影があった。


「あ……」


 向日葵は見た。


 懐中電灯の光が照らした人影は、白色のジャージを着た少年。


 白樺天馬だった。

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