第二十話 過去の記憶
まどろむ意識の中で、天馬は幼い頃の夢を見ていた。
もういなくなってしまった父親の声が聞こえる。
「そうだ、天馬。あまり早く操縦桿を引きすぎるな。早く引きすぎると、機首が上がりすぎて減速するからな」
天馬はこくりと頷き、指示されたとおり慎重に操縦桿を操作していく。
やがて滑走路を走っていた機体が地上を離れて大空へ飛翔した。
天馬は操縦席からその様子を全身で体感していた。
憧れだった離陸飛行に成功した瞬間である。心臓が踊るように鼓動していた。
「上手いぞ、天馬。よくやった」
操縦席の隣には、父親の篤志が座っていた。細身の体躯に短く刈った髪。薄っすらと顎鬚だけを生やしているのは、本人曰くトレードマークらしい。
小学生最後の年の夏休み。天馬と篤志の二人は、県境にある寂れた飛行場に泊りがけのキャンプをしにいった。
だが、目的はただのキャンプではない。
第二次大空戦時に翼竜たちの空襲を受け、その後も改築されずに放置されていたその飛行場は、小型飛行機の離着陸を練習するには最適な場所であった。
篤志はここを秘密練習場と名付け、どこからか入手した小型飛行機を使って天馬に飛行機の操作技術を教えていた。
「すごい! 飛んでるよ、父さん!」
操縦桿を握り締め、天馬は目を欄と輝かせて篤志のほうを向いた。
篤志は正面を向いて顎鬚を撫で回していた。
「少しは落ち着け。それに飛んでも警戒を怠るな。計器のチェックや出力の調整、機体を一定の高度に保つなど、パイロットには色々とやることがあるんだからな」
篤志の厳しい指摘を受け、天馬は慌てて目線を正面に向けた。
そうだ、これは遊びじゃない。
天馬は素早く機体の状態をチェックした。
失速しないようにエンジンの出力を微調整し、機体を一定の高度に保つ水平直線飛行に移る。
これは前もって篤志から何度も注意されていた。
気流が安定していれば仮に操縦桿を離しても機体は水平に飛行する。
だが、気流が不安定になれば話は違ってくる。
機体が左右に傾いたり機首が上下にぶれてしまい、最悪の場合失墜することもあるという。
天馬は気流計に視線を向けた。
計器は異常なし。
続いて正面に向きなおして外の景色を一望する。
操縦席から見える景色は溜息が出るほどの達観であった。
水平直線飛行は順調。
そんなに高度は上げてないので、飛行を中止しようと思えば着陸できる。
それもすべては篤志のお陰だった。
「ははは、中々上手いぞ、天馬。お前は素質があるな」
と隣で篤志が天馬をやる気にさせるために賞賛の声を上げている。
その一方で両手は操縦桿を握り締め、足元の操縦舵ペダルを巧みに操作していた。
そうである。
今二人が乗っている小型飛行機は、操縦席が二つある特殊練習用の機体であった。
右側の操縦席でも機体を操作できるが、反対側の助手席でも機体を操作できる優れもの。
主に民間用の飛行免許取得時に使用する機体であったが、篤志は現役航空自衛軍のコネを使って知り合いの飛行場から借りてきたのである。
もちろん、天馬はすべて知っていた。
たかが10歳そこらの子どもが飛行機の操縦などできるはずもない。
そう頭の中で思っていた天馬だったが、その認識は少しだけ間違っていた。
本人は気づいていなかったが、篤志はほとんど機体の操縦を手伝ってはいなかった。
篤志が操縦を手伝ったのは離陸時のときだけで、後はすべて天馬が自分の腕で飛ばしていたのである。
そんなことは露知らず、天馬は正面を見据えながら篤志に尋ねる。
「どう? これなら将来は父さんと同じパイロットになれるかな?」
「当然だ。お前は俺の子だからな。絶対にパイロットになれる」
ははは、と笑う篤志を横目に、天馬はすかさず質問した。
「でも、そんな簡単にはパイロットにはなれないんでしょ?」
「まあ、簡単じゃないな。けどな、なれないと思っている奴はいつまで経ってもなれはしない。本気でパイロットになりたいならば頑なに自分自身を信じ、それに向かってひたすら努力するんだ。これは別にパイロットだけに限ったことじゃない。どんなことにも通じる真理ってやつだ」
子どもだった天馬にも、篤志が言った言葉の意味はよく理解できた。
自分自身を信じて努力する。
天馬はこの瞬間、父親の言葉を胸中深く刻み込んだ。
それからも天馬は順調に飛行訓練を続けた。
操縦桿を曲がりたい方向に倒し、水平直線飛行から機体を旋回させる。
このとき、機体はややバランスを崩してふらつきかけたが、そこは篤志が上手くフォローした。
「あ、そういえば」
旋回から再び水平直線飛行に戻した天馬が、何かを思い出したように声を上げた。
「どうした?」
隣で操縦桿を握っていた篤志が天馬に顔を向ける。
「うん、こんなときにあれなんだけど……うちってペットは飼えないんだよね?」
「ペット? 犬か猫でも欲しいのか?」
篤志が怪訝そうに首を傾げる。
「だめかな?」
「う~ん、ちょっと難しいな。マンションは別にペット不可じゃなかったはずだが、問題は絵美理だな。お前も知ってるだろ? あいつの動物嫌い」
「そうだよね」
天馬はがっくりと肩を落とした。
母親である絵美理は動物アレルギーらしく、猫や犬を触っただけで咳が止まらなくなるという。
だからこそ白樺家ではペットという言葉すら禁止になり、今まで一度も会話の中に挙げられたことはなかった。
「だが急にどうしたんだ? ペットが欲しいなんて」
「うん……実は」
別に隠すことでもなかったので、天馬は正直に打ち明けた。
夏休み前に友人と神社で遊んでいたとき、偶然にも捨て猫を見つけたこと。
一度だけ餌を持っていったとき、クラスメイトの女の子が世話をしていたこと。
その女の子は、クラスに最後まで馴染めずにすぐにまた転校していったこと。
すべての思いを打ち明けると、篤志は顎鬚を摩りながら頷いた。
「なるほど……つまりお前は惚れた女の子の代わりにその猫を飼いたいと?」
「べ、別に惚れてなんていなかったさ。ただ、可哀想だなって思っただけ」
面白いように取り乱した天馬を見て、篤志は高らかに笑った。
「隠すな隠すな。そうか、その子は転校したのか……で、名前は何て言うんだ?」
天馬は微笑みながら即答した。
「――っていうんだ」
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