第五話     パイロットとメカニック

 天馬は我に返って振り返ると、タラップの下には両腕を組んで佇む老人がいた。


 一切の毛髪がない禿頭に外国人のように長い鼻。


 油で汚れた丸眼鏡をかけ、これまた油で汚れていた灰色の作業着を着用していた。


「誰の許可を得てその機体に乗ろうとしてんだ?」


 禿頭の老人はこめかみに血管を浮き立たせ、右手には作業用のスパナを持っていた。


 天馬は大人しくタラップを降り、老人の前に立った。姿勢を正して頭を下げる。


「申し訳ありません。俺……いや、私は第168航空戦闘学校に入学する白樺天馬と申します。部隊コースはパイロットです」


 老人は天馬の身体を上から下まで値踏みするように視線を這わせた。


「ほう、お前さんパイロット候補生か。背丈も小せえし中々鍛えてある……ふむ、一応は合格だな」


 そう言うと老人は天馬の胸板や二の腕を触り始め、とどめは尻を思いっきり平手で叩いた。


 パーンという乾いた音が鳴る。


「ははは、俺の名前は安部繁あべ・しげる。気楽にシゲじいと呼んでくれ。間違っても安部教官や繁さんなんて呼ぶんじゃねえぞ。こっ恥ずかしいからな」


「は、はあ……」


 天馬はじんじんと痛む尻を押さえながら頷いた。


 シゲじいと名乗った老人は、整備に関して熟練した腕前を持っていることは容易に推測できた。


 そして自分のことを教官と呼ぶなと忠告するということは、メカニックコースの教官なのだろう。


「あの、もう話は終ったっスか?」


 シゲじいに対してどう接すればいいのか迷っていると、横から野太い声が聞こえた。


 天馬はちらりと視線を移す。


「おお、智則。点検は終わったか?」


「終ったっスよ。でもいいんスか? 部外者の立ち入りを許して」


 いつの間にか隣に立っていた人物は、灰色の作業着を着ていた少年だった。


 真っ赤な野球帽を真逆に被り、四角い顔は油で汚れている。


「こいつは部外者じゃねえ。お前と同じここに入学するパイロット候補生だ。パイロットとメカニックは切っても切れねえ仲になる。今のうちから仲よくしとけ」


 かかか、と高らかに笑うシゲじいを横目に、智則と呼ばれた少年はすっと開いた右手を差し出してきた。


松原智則まつばら・とものり。第168航空戦闘学校メカニックコースっス」


「白樺天馬だ。よろしくな、松原」


 がっしりと握手を交わす天馬と智則。


 智則の背丈は167センチの天馬よりもやや低かったが、握った手からは力強い筋肉を保有している人物であると伝わってきた。


 さすがにメカニックコースを志望した生徒だけはある。腕の筋肉量は相当なものだった。


「ところで……」


 握手を交わし終えると、智則は格納庫兼整備工場の壁際に目をやった。


「あいつは白樺さんの知り合いっスか?」


 天馬は智則の視線の先に顔を向けた。


 そこには一人の女性と話をしている空也がいた。


 だがよく見ると会話ではなく、一方的に空也のほうから話しかけているようだ。


 空也が話しかけていた女性は、身長百七十を越える空也よりもさらに頭一つ分は背が高かった。


 智則と同じメカニックコースの生徒なのだろう。


 油で汚れた灰色の作業着を着用し、手には整備工具を携えていた。


 そして遠目からでははっきりと顔は見えなかったが、ショートボブの髪型にすらっとした体型の持ち主であるということはわかった。


 左目に医療用の眼帯をかけているが、怪我でもしているのだろうか。


「同級生なのに〝さん〟はいらない。俺のことは天馬でいい」


 そう答えながらも天馬の視線は、空也と眼帯の女性から離れない。


 しばらく見つめていると、空也は眼帯の女性に胸倉を摑まれた。


 空也の身体が少し浮き上がり、強制的に爪先立ちにされる。


「そうっスか。じゃあ俺も智則でいいっスよ……それでもう一度訊くっスが、天馬はあいつの知り合いっスか?」


 眼帯の女性に胸倉を摑まれた空也は、次の瞬間には柔道の大外刈りを食らって床に叩きつけられた。


 その惚れ惚れするような技の切れ味は、傍から見ていた天馬も思わず背中に激痛が走ったような錯覚に見舞われたほどだ。


「知り合いといえば知り合いだが……何やってんだあいつは」


 背中を押さえて悶絶している空也を見て、天馬は大きく嘆息した。


「大方、またナンパしようとして投げられたんっスよ。子どもじゃないんだからいい加減に学習して欲しいっス。留美は人見知りが激しいんスから」


 あの女性は留美というのか。空也を綺麗に投げて悶絶させた留美は、もう空也のことなど忘れたとばかりにその場から離れていく。


「ったく、あの小僧もだらしねえ。男のくせに女にやられてんじゃねえよ」


 握っていたスパナで肩を叩きながら、シゲじいが悪態をついた。


「そりゃ無理っスよ。あれでも留美は中学時代は女子柔道の県大会優勝者っス。加えてあの背丈で技をかけられたら生半可な男なんてイチコロっスよ」


「けっ、そんなことは関係ねえ。男ならぶん投げられてもすぐに立ち上がれってんだ」


 それは無理だろう。


 空也は十分に受身が取れていなかった。


 そんな状態でコンクリート製の床に叩きつけられれば、呼吸も満足にできないほどの大ダメージを負う。


 だが相手もそれなりに手加減してくれたのだろう。


 空也を床に投げた瞬間、奥襟を摑んでいた左手を手元に向かって引くのが天馬には見えた。


「あ、動き出したっス」


 一分ほど経つと、空也はゆっくりとだが動き始めた。


 しかしまだ両足に満足に力が入らないのだろう。


 蜥蜴とかげみたいに床を這いずっている姿は何とも無様であった。


「あれだけ動けるんなら大丈夫だろ。整備の続きをするぞ、智則」


「了解っス」


 シゲじいと智則はそれ以上空也のことは無視し、自分たちの作業に戻り始めた。


 天馬はシゲじいと智則を見送ると、空也のほうに視線を移した。


 空也はうつ伏せの状態のままピクリとも動かずに倒れていた。


 おそらく、最後の力を振り絞ってしまったのだろう。遠目からでも完全に気を失っているのが分かる。


(やれやれ仕方ない。寮まで肩を貸してやるか)


 天馬は頭を掻きながら空也の元に向かって歩き出した。

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